23時には帰ります〜夕方18時からの異世界探訪〜
紫崎優希
プロローグ
まず飛び込んできたのは、白。部屋中を埋め尽くす、幾何学的な白い文様。その中心には弟の姿。ゲーミングチェアに座り、マウスを握ったまま動けずにいる。
パソコンの画面から発する強い光が、室内を覆い隠していく。その光景にドアノブを掴んだまま、呆然と立ち尽くす。
ふと、弟と目が合った。切羽詰まった表情に、慌てて部屋に入ろうとする。でも、見えない壁に阻まれてしまう。
「姉ちゃ————」
弟が手を伸ばす。それを掴むことも叶わずに、一際眩い光が弾けた。
×××××
その日の夜も、いつもと変わらなかった。
夕食を食べた後は、家族団欒の時間。とは言っても、特に会話を交わすわけではない。リビングで思い思いの時間を過ごし、空間を共有する。
私はダイニングチェアに腰かけて、テレビの音をBGMにスマートフォンをフリックする。向かいの席には同じようにスマートフォンを操作する弟の姿。
「やば、もうこんな時間?」
慌てて立ち上がる弟に、視線だけ投げる。
「二十時から、今やってるオンラインゲームでギルドイベントがあるんだ」
「へー」
弟はキッチンを覗くと、メロンをカットしている母に声をかける。
「母さん。それ、後で食べるから取っておいて」
「あら、今食べないの?」
「うん。時間ないから、後でいい」
「しょうがないわねぇ」
母は大きめにカットしたメロンをラップに包む。弟はダイニングテーブルの上のスマートフォンとマグカップを手に取ると、リビングを出た。その後、どたどたと階段を上る音。リビングでは床に寝転がった父が、テレビで出題されるクイズに得意げに答えている。
「メロン、切ったわよー」
そこに母がカットしたメロンを持って、キッチンから出てくる。父もダイニングチェアに座ると、出されたそれを黙々と食べ始めた。私も母が一緒に持ってきたスプーンを手に取り、一口食べる。柔らかくて、甘くて瑞々しい。幸せの味を噛み締めた。
それは、いつもの夕食後の風景。時々、食後のデザートの楽しみはあるけれど、大きくは変わらない。その後は父が沸かしたお風呂に母の次に入り、弟に声をかけるために二階に向かった。
たすたす、とスリッパの音を立てながら階段を上っていく。その度にさらさらと肩にかかる髪から、ほのかにシャンプーの香りが立つ。お風呂上がりで火照る肌に、夏のぬるい空気が纏わりつく。
「————っ」
階段を上り切る手前。不意に、微かな声が聞こえた気がした。違和感を感じて視線を上げれば、二階の左奥。弟の部屋から光が漏れている。ドアの隙間から溢れるのは、いつもと違う照明の色。私は僅かに眉を寄せる。
電球色の照明が灯っているはずの弟の部屋からは、昼白色よりも白く、眩い光が漏れ出ている。
不思議に思いつつも、ドアの前まで進む。軽くノックしてから、そっとドアを開く。
その途端、真っ先に飛び込んだのは、白い色。幾何学的な図形が重なる白い文様。大小様々なそれが、部屋中を埋め尽くしている。渦のようにうねる風に、ばたばたとカーテンの裾が翻る。
その中心に、弟がいた。
弟はゲーミングチェアに座って、マウスを握ったまま、真っ直ぐパソコンの画面を凝視している。モニターが部屋を埋め尽くす白い光の光源のようで、一段と眩く輝いている。
その光景に、フリーズしたように固まる弟は、動くそぶりがない。
「何……これ」
思わず出た声は、吹き荒れる風に掻き消される。ただ、その声に気付いたのか弟が顔を上げる。ドアノブを掴んだままの私と目が合った。その視線には僅かな怯えと困惑が混ざっている。
切羽詰まった表情にはっとなり、足を一歩踏み出す。爪先が何かに当たり、それ以上進めない。見えない壁に阻まれて、部屋の中に入れない。
「何よ、これ!」
「姉ちゃ————」
弟が手を伸ばす。それを掴むことも叶わない。それが酷くもどかしい。
パソコンの画面が一際眩い光を放ち、部屋を飲み込んだ。
急速に光が消えた部屋の中。弟の姿はどこにもない。
私はその場に座り込む。呆然と弟の部屋を眺めた。
あれだけ風が吹き荒れていたのに、部屋の中は驚くほど静かで、乱れた様子もない。ぴったりと閉じられたカーテンも、タオルケットがめくれたままのベッドも、漫画やライトノベルが無造作に並ぶ本棚も、乱雑にゲームソフトが積み上げられたパイプラックも、全部がいつもと変わらない。パソコンの画面が一旦ブラックアウトして、また灯る。
全てが幻かのように、白い光も文様も消えてしまった。電球色の照明が、柔らかに室内を照らす。
「弥生、どうしたの?」
二階で騒ぐ声が聞こえたのか母がやってきた。廊下に座り込む私を見て、首を傾げる。
「お母さん、どうしよう。広世が……」
その日、弟の広世が消えた。
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