第27話 彼女の音。
ケダモノになった。午後の夕暮れから始まったそれは、夕食も取らずに続けられ、夜、深夜――翌日、朝、昼――
もう午前も半ばという頃、つい先程まで、まだ貪っていた。起き抜けの一番気持ちい
欲が、良識と良心を瞬間的に淘汰した。強引に押し倒しはしなかったが甘えて、欲張って、縋った。昨夜からのその振舞いにほんの少し戸惑いながらもアンジェはまた受け止めてくれた。わけの分からない情動が止まらず、抱いて、休んでは、体が離れるとそれがひどく息苦しさの様に落ち着かなくて。
とにかく傍に居て貰いたいような、腕の中に収めておきたいような、その言い訳に、理由に、彼女をとにかく抱いた。
結果アンジェは悩まし気な汗を全身に浮かべ、まだ足腰が立たず休んでもらっている。午前の光の中それと見続け、ふと冷静さが戻り酷いことをしたと思った。
そのせめてもの罪滅ぼしにと、アンジェの為に最近、彼女が好んでいる紅茶を、彼女から教わったやり方で淹れた。久しぶりに一人で立ったキッチンから、ノーカは一緒に作った軽い朝食をトレイに乗せ、夫婦の寝室まで運んでドアを潜る。
と、まだそこで呻くような吐息も浅くうつ伏せに泣き崩れるよう寝そべるアンジェに――薄い布の上掛けに包まった裸体のそれに、また覆い被さりたい衝動と、猛省し尻尾を丸めて許しを請いたい何かが一瞬だけ脳でせめぎ合った。
トレイに並べた朝食を一先ずキングサイズの隅に置く。それから縁に腰掛け静かにそのままの姿勢で滑ってアンジェの元まで行くと、その乱れ切った髪を手櫛で整え、ぐったりした翼も労わるよう優しく撫でつける。しかし同時に、まだ名残惜しく、愛でるようにその背中を摩る。
起きて欲しいのか、起きて欲しくないのか、よく分らない。
彼女に対し、今感じているこれは何なのか――
どうすれば、どうすればいいのか、と思いつつ、
「ん……」
無表情ながらどうにか寝返りを打ち、ノーカに向き直り、無言で見た。そして身を起こそうとするものの途中で崩れ落ちてしまい、いつもの無表情に、全身が熱病に犯されているかのようそのままくらりと横になった。
眼だけでひどく動揺しつつノーカは、
「……起きれなさそうか?」
その問いに、起きたい、というように、ゆっくり、横に崩したうつ伏せのままなんとか顔を上げて、
「……紅茶、ですか? ……」
匂いの先に目を向け、しかしやはり体を起こせずにいるアンジェをノーカは支え、自身に背中を預けさせながら抱き寄せ、共にクッション塗れのヘッドボードに身を預ける。
それから一緒に巻き込んだ上掛けの布をおぼつかない手つきで後ろから彼女の体に、裸体が見えてしまわないように巻き付け胸元で折り込んだ。もうする気はないという意思表示のそれに、アンジェは懐疑的にノーカに振り返るが、ひどく罪悪感に塗れたようなその目を信じ、また微睡むよう背中を預けた。
「……このまま休んでいるか?」
「……いいえ、頂きます」
せっかくの厚意だから、というそれに、ノーカは隅に置いたトレイに手を伸ばし引き寄せて、彼女に背後から二人羽織りのよう紅茶のカップを手渡し、まだ虚脱感に苛まれていそうなそれを両手で支えた。
と、支えを失った彼女の胸元から、甘くそれを包んでいた薄布がするりと零れ落ちた。
アンジェは、両手でカップを持ちながら、さりとてそれを手放すことが出来ず、腰元まで露わになったら裸体を、仕方なさげにカップをそのままの形でノーカに移譲し、自分の手で上掛けを掴み、キュッと、今度は落ちないようしっかりと折り込み巻き直した。
それから、見ましたか? とアンジェは、結びの甘かったそれを責めるよう見つめる。
それが何を警戒してかは――下手人であるノーカにもひしひしと分かった。
やはり朝から甘え過ぎたのだ――もう二度としないと心に誓う。と、彼女にカップを移譲し直し、それを二人掛かりで支えながら、淡く縋り付くよう彼女を肘から上だけで軽く抱き寄せる。
そんなノーカを振り返り見て、二人羽織で静かにカップを傾け――それを口に含むと……まずくはない、といった様子で人心地つく。
ほっとした様子にノーカもようやく、胸を撫で下ろす思いだった。
それから無言の時間が続いた。すぐに飲み干すでもなくゆっくり時間を掛けて一口づつ喉を湿らせていくアンジェに、ノーカは腕の中に居る彼女をじっと見る。
いつもより、近く、大きく感じる。
物理的な距離かもしれない。しかし、夫婦に必要な事をしたからではない。
セックスの後はいつもこの距離で、終わった後の、ねぎらいとも、労わりとも呼べる、甘え合うような時間を過ごすのは変わらない。
だが、自身がいつもより熱を寄せていることをノーカは知覚していた。
その深まってゆく淡い締め付けに、アンジェは下肢に感じるその不穏当さに微かに体を硬直させた。
瞬間、その気配は引っ込んだ。流石に反省している様子だ。だがなにやら寂しげであるノーカの腕の締め付け方――だが、決してそれ以上を求めようとはしない。 そんな融通の利かない不器用な部分に、アンジェは自身の手で抱えていたカップを手放した。そしてノーカの膝の間、腕の中で体をくるりと回しその顔に何食わぬ顔で目を向ける。
嗜好品をトレイに置いてまで、じっくり、じっとりとした眼を向けるその視線に、ノーカは、叱られながら、子供がぬいぐるみを抱くよう彼女を抱き締めた。これだけは手放さなくてもいいだろう、というような。ノーカのその自分を強く必要としているようなそれをアンジェは感じた。
そこで、自分から目を閉じ、顎を上げ、彼のそれを誘った。
戸惑いながら、それに目を見開き、やがて臆病がちに、待っているアンジェに唇を重ね、腰に回した腕で彼女を更に引き寄せた。
先程――強引に組み敷いた、合意を取り付ける、奪うためのそれとは違い、今度はちゃんとアンジェの意思も窺ってくれる様子だった。だからアンジェも、もうそのことを躾けるような気は無く、やがて自らもその首に腕を絡ませ求めるようにしていった。
何度となく音を立て、抱き寄せ合いながら、怪し気な手つきで彼の腰を撫でる。
まだビクつきながら、おっかなびっくり、アンジェに手を出そうとしていくノーカに、自分からまだ体に巻き付いていた薄布を緩めて、落したそれに――ノーカは過敏に反応し、しかし良いのかと、ヘッドボードとは逆向きに、ゆっくり、アンジェを仰向けに押し倒した。
アンジェもまたそれを許しながらベッドに押し倒された。そして腕だけでなく、足、翼まで使い、ノーカを全力で抱き寄せ、そして、脚の間に入った彼全てを受け入れようとした。
次の瞬間――
……リーン、カーン。
……と、一階から、鐘楼を鳴らすような呼び鈴が響いた。
来客を察したノーカは、そのくぐもった音に、拗ねるよう彼女の首筋に突っ伏し項垂れた。
このまま無視したい、しかしもう一度と鳴らされる。だがそのまま、やや渋るようなノーカにアンジェは励ますようその背をぽんぽんと軽く叩いて、、
「行ってください」
「分ってる」
手綱からの指示に、だが、もう少しと言いたげに、アンジェの体の柔らかさを少しでも自分の中に残そうと、犬のよう全身を擦り付け甘えた。また珍しく駄々をこねた男に、アンジェは、それも珍しく、慈愛的な声音で、
「……終わったら続きをしましょう」
「……いいのか?」
「――はい。……それとも、これ以上お客様をお待たせしますか?」
「……そうだな。すまなかった」
良心と理性が戻って来たノーカは己の拙さをアンジェに侘び、そこからは機敏に動きベッドから降りるとまた乱れた着衣を手早く整えた。
行き掛けに、ノーカは、着替えず裸身のままベッドの縁に腰掛け見送ろうとするアンジェの頬に、了解を待たずに挨拶をし、間髪入れずにアンジェもノーカの頬にそれをした。
朝の営みを朝の挨拶で正式に終了させた彼が、完全に気持ちを切り替えたのを確認し、しかし、
「ノーカ」
「ん??」
ドアから出て、顔だけ戻したそれに、
「夜にしますか? それともこの後すぐですか?」
なんてことを訊くのかとノーカは思うが、彼女がそのまま服を着るか着ないかに関わるだろうと察し……だが昨日から続く自身の欲に溺れた所業を振り返って、尻尾がペタンと項垂れるように、
「……なにもしない」
これはもう自分から誘わない限り今日は決して手を出さないだろうと、アンジェはどことなく微笑まし気に翼をフンワリとさせ、そして、
「――では、私が上のですね?」
再び目を剥き驚いたノーカは、やや迷って無言で首を横に振り、どちらの意味かアンジェが力強く縦に頷いて、無言で見つめ合い、ノーカが折れたよう先に目を逸らし、彼女が主導権を握り責められることを決定づけられた中――
再び鳴らされた呼び鈴に、ノーカははたと逃げるよう玄関へ急いだ。
玄関まで早足で歩く。
最初のベルから割と時間が経ってしまった。
しかし、近所の住民にしては、遅れた出迎えに一声もやかましい声や行動がないそれに違和感を覚える。たとえばレナなら合鍵で迷わず家の中に突入して来るし、他の住民でも『おーい!』と文明の利器を使わず物理的に声を掛ける。
それなのに、何の物音も、足音も、直近で宇宙車両が着陸したらしき気配もなかった。その静けさに、ドアを開けたノーカは――
パン!
着弾。実弾、横のドアを一発穿った。
ノーカの顔を狙ったその銃撃が外れて、更に続けざま実弾が、タン、タン、タン、タン!とドアに阻まれ連続して穴を開けていく。
直前、ノーカはドアを開けた瞬間、前に踏み出すその挙動とは真逆に狙撃手の虚を突くよう内側に半歩その身を引いていた。
ドアを閉めながら即座に玄関脇の靴箱から拳銃を取り出し姿勢を低くすると、狙撃の失敗から即座に距離を詰め駆け寄る足音がドアに辿り着く。対処の暇を与えまいとしたそれに刹那、五発連続して発砲した弾丸がその向こう側に居る襲撃者を襲った。
だが、その野性染みた足音は迫りくる複数の射線も構わずそこを疾駆する。
ノーカの待ち伏せが予想されるそこは通り抜けるつもりだったのだろう、獣の足音は躊躇せずむしろ飛び込むよう颯爽とそのまま四角いドアの前そこを駆け抜け、そしてその獣のようなバネとしなやかさで玄関から地続きのウッドデッキが囲うリビング側へと疾走していく。
弾痕の穴、そこを通り過ぎた影の位置から遮蔽物ごと撃たれる愚を避けた姿勢も低くしたそれは銃器による襲撃と迎撃――その戦術を理解した者の動きだ。
四足獣より遥かに巧みに、まるで重さを感じさせない足音。
それにノーカも即応し拳銃を放り、廊下を家の内側に駆け抜け今度は壁に掛けた宇宙ショットガンを二丁手に取り銃身を片手に一握りに抱えるとその先、キャビネット上に置いた予備の実弾とエネルギーパックの箱を片手で掴めるだけ掴み、乱雑にそのまますぐそこにあるリビングのドアを開け、低く滑り込むようソファーの後ろへ飛び込んだ。
一拍遅れて、先程とは別の発砲音が連続した。サブマシンガンらしきその連射音がソファーで破裂しさく裂し、さらに連続して窓を粉々にしながらノーカが潜むそこを続け様にズタボロの穴だらけにしていく。
しかし、密度の高い中の詰め物を抜けず、それを悟り射撃が停止した――その隙をつき、弾込めを終えたノーカはその一丁を直前、カチンと安全装置を外した方向、そして足音の更なる進行方向へと予測射撃した。
散弾が窓ガラスのない枠を通り越し、地面を広範囲に跳ね、あるいはまばらに穿った。だが生き物に当たった音、それが倒れる音などという手応えはない。
――逆に、発砲音無しに窓が一枚割れる音がする。
それはノーカが見つめた襲撃者の進行方向それとは逆で起こった。
襲撃者が一人のみである可能性はない。しかしそうではないとノーカは目もくれず次の瞬間、それとは逆の掃き出し窓が今度こそ発砲音と共に盛大に割れ――それを知っていたかのよう、ほぼ同時にノーカもそこに冷静に実弾のみの射撃をする。
銃声が交差しながら、その横にある壁向こうでウッドデッキにトンと足音が止まった。襲撃者の移動先に先んじて置かれた散弾の幕、それを回避された。しかしそこで襲撃者がこれまで思い描いた通りに移動していたその足を止めた。
ノーカの予測が一手先に置かれた。
その事実に狂喜するよう、彼女の銃口がガラスを喪失した掃き出し窓から室内へ向けられ、乱射――やはり、彼女以外襲撃者はいない。
ノーカをソファーの陰に縫い留めようとする。だがここで即座に爆発物の類が投げ込まれない――その手だけで握られた小銃、標的を目視せずのトリガーと撃発の連続は正確な射撃よりも厄介で、射線も置き順も読めないそれが継続してリビングを支配する。
移動を制限し、爆発物の投擲――それを読み、先んじて場を変えようとするであろうそれも狙った先読み射撃だが、それを察しやり過ごしたノーカはソファーを盾に宇宙ショットガンの実弾全弾の弾込めを終えている。と、壁に潜む敵をそれ越しに即座に発砲――更に間髪入れずの連続射撃が轟音と散弾で壁を殴打し続ける。
盾が壊されていく盛大なその爆音と衝撃に、襲撃者はしかし先程の移動先への予測射撃から同様のそれを危惧し下手に動けずそこに縫い留められる。
ノーカがショットガンの実弾を全弾を吐き出し終えると、壁の一部が滑落し、既に中の木材まで剥き出しになり大ざっぱな円状に禿げ上がっていた。
間隙、弾込めを行うはずの巧妙な間、しかし弾が切れたそれを床に放り、今度は床に置いていたもう一丁を蹴り上げて宙で掴み、また同じ場所に向け連続して射撃する。発砲音は途切れずまた連続し、残弾を一丁で計算していた襲撃者は舌打ちした。そして身動き取れない中、切り替わった発砲音からノーカが持つ散弾銃の種類を察し身の危機を覚えた。
既に充鎮を終了した宇宙ショットガンの光弾側――その溜め撃ち《チャージショット》がある。
壁ごと吹き飛ばされる――もしくは消し炭だ。
それを悟ったその瞬間、遂に壁を散弾の何粒かが通り抜けその向こうの地面で弾が跳ねる。もう一発か二発の実弾でもここも抜かれる、時間はない。
襲撃者は弾切れした拳銃を捨て、もう一丁急ぎ脇のホルスターから引き抜いたそれを無理矢理、壁に空いた穴に突っ込み連続して発砲しようとする。
発砲音の位置の高さからしてノーカは今ソファーから出て立ち撃ちしている。
散弾が穿った小さい穴、壁を何度も叩いた音の範囲から散布界の中心を割り出し、ノーカがいるであろうその位置に向けその小さな穴に銃口を差し込み弾丸を打ち込もうとする。
彼が撃つより早くそこに自らの射線を乗せた。しかし一拍早く、襲撃者はその予想を覆され壁に全身をぶん殴られた。
光弾の溜め撃ちではなく、ノーカは強度の下がった壁を蹴破りそのまま襲撃者の正面、腹に蹴りをぶちこんだ。
崩壊した壁、銃口が揺れ更に体勢を崩したその最中、真っ直ぐに腹に突き刺さった蹴りの衝撃に銃を手放し、くの字に折れ吹き飛びながらウッドデッキの桟に激突、跳ねっ返りそのままうつ伏せに倒れ込んだ。
転がるその頭に、ゴツ、と重く冷たい感覚がした。襲撃者はそのまま体を硬直させ、反撃の意図が無いことを伝えるために指先を広げながら手の平を明らかにし、そのままうつ伏せの無抵抗で、ノーカの気が済むように武装解除されるのを待った。
……かと思えば、彼女は苦しげに呻きながら、クツクツと嗤い、
「――いきなり一発女の腹にぶち込むとか、いつからそんな下品になったの?」
「人様の家を穴だらけにする女が悪い」
ふてぶてしい声に、それを知っていたようにノーカは動じずに告げた。
野性味あふれる獰猛な笑顔を向けて来る、逞しくもしなやかな肢体の持ち主。
元同僚――マリーに向けて。
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