第26話 少女のみた夢、少年の見た世界。

 その集落は、戦争と紛争と闘争ひしめくとある銀河の一つの惑星に在った。

 山間の廃村、廃墟に偽装、もしくはそれを利用した小さな集団で、男は皆兵士、条件さえ整っていれば女も憂いなく武器を手に取る戦士の村だ。

 兵器以外に科学技術など存在していない、旧時代の中世以下かそれと同等の生活を強いられる歪な世界で、そこに当時の親代わりの傭兵と共に辿り着いた。

 その頃はまだ自分も、兵士としては親鳥の後に付いてあるく雛のようなもので、その集落を訪れた詳しい事情については知らなかったことをノーカは思い出す。

 それはただの雇用関係だったかもしれないし、師の身内がいたのか、何かの縁があったのか、故郷だったのか、あるいは根無し草の傭兵が、適度な戦場と寝床を求めてそこに寄宿していたのかもしれない。


 そこは、もはやどこの国でもない紛争地帯としか言いようのない場所で、国や政治や宗教といった存在を嫌う者が身を寄せ合う集落だった。それでも隣国同士が国土と資源を巡ってその戦域巻き込まれることもあった。

 山間の集落には度々生活に困った野盗が襲撃を掛けることもあり、隣の集落と食い扶持を巡っての闘争になることもある。

 戦争が休みの日でも七日の内に戦闘が無い日を探す方が難しい、そこで争いになれば何人か消えて帰って来なくなることは当たり前の場所だった。


 そこで出会った。戦えないまだ小さな子供の面倒をみたり、そこで日常生活に必要な仕事を担っていた女の子だった。

 集落で例外的に戦えない者、病気や四肢の欠損などのそれの世話もしていた。

 彼女は、どんな人間であったかと言えば、その第一印象は、

「――外の世界から来た俺に、興味を持っているようだった」

 最初は訝し気に、懐疑的に、子供だてらに人を疑うことを知っていた。

 かと思えば、味方だと分かり、それが自分より年下のそれだと判明した時点で幅を利かせ、マウントを取りに来るような女だが――そうなると根掘り葉掘り集落の外の世界のことを訊いてきた。

 狭い世界、娯楽も自由も、未来もないそこに嫌気が差していたのか、好奇心をそそられたのかも知れない。その同じ群れで先達である彼女に、従順に――兵器の扱いしか知らない当時、これまで巡った戦場や、武器と機械の整備やそれについての見識や機微などについてばかりを答え――呆れ混じりに怒られながら、年頃の女という奴との会話というものを懇々と語られた。

 それでも満足に答えることも出来なかったが……答えられる分は答えていた。すると、彼女は自分がものを知らないだけの子供と判断したのか、大人達に混じって戦う――兵士とは見ないようになったのか、、

「それから、子供の遊びも知らない俺を何かと世話を焼いて、同じ子供として扱おうとしていた。だから……家族……姉とか、母親とか、うっとおしい妹? ……いや、友人、というそれに近いものだったと思う。彼女にしてみれば、どんなに上手く武器が扱えても、自分以上に出来の悪い弟か、子供だったんだろうな、集落で面倒をみている子供の一人だったと思う」

 人として、生き物としての比準を、殺しの技、戦場の妙ではなく、それ以外に置いていた。

 対して自分はそれ一辺倒であった。武器の名前を覚える為の最低限の読み書きと、弾薬と兵糧を正確に数える為の算術しか学んでたが、下手なことは言えないとそれまでの彼女のあきれ顔で学んでいた。

 そんな中で、彼女に面倒を見られていた。

 当時、少年兵として働き、集落の歩哨として警備に立ち、野盗をせん滅し、集落の戦士たちと共に戦場に赴き、そうでない時間は暇があれば機械を直していた。他の子どもたちも最低限、大人が消えたときに備えて携行武器の整備に弾薬の仕分けくらいはしたが一人前のそれとは言えなかった。

 その機械はほぼ兵器で、大気圏内用のプロペラ式の浮遊車両や、それに取り付けた速射砲に高射砲、歩兵が持つ携行銃器の整備くらいだが、彼女に頼まれ調理場などの火元の整備や調整などをしたこともある。

 集落の役に立っていたことは間違いない、戦場の学はあったし、兵士としても下手な大人よりは人を殺すのが上手で、戦力として共に戦場に立つ機会も多かった。


 しかし子供として可愛げがあったとか、男として頼りがいがあったかと言えば違うだろう。

 それなのに、どうしてその相手に自分を選んだのか。

 今でも疑問は尽きないとノーカは思う。

 それはただの通過儀礼だったかもしれない。

 その相手が彼女だったのは、彼女が子供たちの面倒を見る子供の中で、一番年上の女だったからかもしれない。

 死が間近にあったからこそ、明日に想いを残さない為の日常的な習慣であると言っていた。集落にある数少ない癒し、生きる喜びだと。だから毎日、誰かしらの仲の良い男女がよく仕事を手伝ってと女に森や川に連れ出されていた。

 が、皆それに対し何も言わず、融通し、許し合っていた。

 そんな――、

「ある日、村で家事炊事を任されていた彼女に呼び出された。前日の夜に精通して、汚れた下着を一人で洗っていた……それを見つかった後だった。……次の日に大量の洗濯物を洗うからと、荷物持ちに付き合ってくれと頼まれたんだが……」

 武器以外に資金を回せない為、生活インフラは本当に最低限、廃墟のような集落はその水源に井戸水と近くの川を利用していたのだが、井戸のそれは飲食専用で、汚れ物は全て川で処理していた。その手伝いだ。男としての力を初めて彼女に必要とされ、快くそれを手伝った。

 だがそれは性教育の場であった。

 経緯についてはもはやそれ以外うろ覚えだが。

 場所はその川のほとりだ。

 そこなら音も聞かれづらいし、体もすぐ流せる。女の水仕事の手伝いは、打って付けの口実だったのだろう。性教育の場だけでなく、大人達の逢瀬にも使われていた。

 それには子供が十分に大人になる時間も、平和を待つ時間も無かったことからの、慣例のようなものがあったと聞いている。

 その中で、

「……いきなり連れ出されて、一緒に洗うからと服を脱がされ、一緒に脱ぎだして、これから実際にすると言われて……」

 幾らか問答があって、無知を煽られ、知識が無い分だけ言いくるめられて。

 その前のマナーや、技巧や、知識と経験を授かったのだ。

 その姿を思い出そうとすると、しかし、浅い茶色の肌と、木の実の帽子のような、煤と埃でくすんだ黒髪しか思い出せない。その顔は、いつも怒っていたか笑っていたのだが――


 その後、彼女はどんな顔をしていたのか?


 一人前の兵士になりたくないの? とか。女の子の誘いを断るなんて立派な男の子じゃないわ、とか、それでも頷かない自分に、役目を果たせないとか、恥を掻かせるの?などと、最終的に弱ったような困ったような顔をして、このまま帰ったら恥ずかしい思いをする、というそにやり込められて言うことを聞いたのだ。

 年上風を吹かせて、あれこれ世話を焼こうとするその割に――彼女も慣れてなかったのか、こちらも初めてで、おかげで痛がられた。

 それから何度か誘われた。後は普段通り、日常の世話を焼かれた。それは他の子供より少しだけ入念であったかもしれない。

 初めての女はその彼女である。が、それからは比較的歳の近い異性、年上、もしくは大人の女の中で、男として共有されることになった。結局のところ体のいい男娼であったのかもしれないが……しかし、そうとも思えなかった。皆一様に、自分と性の交わりをするときは、愉しむというそれをしておらず、自分の中に何か、大切なものを刻み付けようとしているようであった。それは女を抱く技巧や姿勢もあったが、そうして女を抱く中で女から何かを得られるように、抱き終わった後、必ず彼女達は、命を生み出す行為を、正しくできるようになったそれを祝福するように自分を見つめていた。

 皆、自分の生い立ちを知っていた。赤子の頃から兵士に育てられ、生まれた瞬間すら、死んだ母親の破れた胎内から這い出ていたそれで、死以外に触れたことが無いようなそれを。だからか、それは女の顔でありながら、母親が子供を褒め讃えるような笑顔で、恋人か何かのようで、それ以上の何かであるようで。

 何かを、忘れさせまいとするようであった。

 多分、あの世界で彼女たちが知る大切なことを伝える手段が、それしかなかったのだと思う。

 だがやはり皆、死を意識していたのだろう。


「……その女性は、大切な方、だったのですか?」

「……どうだろうな。確か、他よりほんの少し接する機会が多かったが、それくらいだ」


「……それで……」

「ああ、それから――」

 アンジェの声に、記憶を引き戻す。少し、物思いに耽っていた。

 それから――そこで、数少ない穏やかな日常は終わったのだ。

「……それから少しして亡くなった。……正規軍に、ゲリラかテロリスト……戦場における不穏要素と判断されたらしくてな、襲撃を受けて集落の諸共な。一応自衛のために武器を持っただけの、戦争から逃げたただの一般人の集まりだったんだが。俺もその場に居て、少年兵として――それよりも小さな子供たちを連れて森の中に逃げる途中で、彼女ごと吹き飛ばされた。……気付いたときには手だけ・・握っていたよ」

 気付いたときにはもう遅かった。正規軍の戦闘艇から発せられる粒子光は次々と人を分解し、あるいは建物を吹き飛ばし、咄嗟に叫んだ声に遅れて迎撃するも、後の祭りで。

 もう既に戦っていた大人達は、何かを悟っている様子だった。それは自分もだったが。戦場で戦えなくなった老兵の張り裂ける様な声で、子供たちが逃がされることになり、その指示に従った。

 今でも、その音が聞こえてくるように思う。一人、また一人と、任されていた子供たちが爆撃の中で散っていって。兵士としての役目を全うできず、途中何度か敵を討ち果たしたものの、多勢に無勢で。途中、何度も振り返り、逃げていた子供も形見分け程度に持った銃器で抵抗しながら、撃たれて、それぞれ、それを振り切って走るしかなく。その果てに、山林の切れ目の崖っぷちで、爆発と共に川が流れる谷底に落ちたのだ。

 運よく助かって、握っていた手は冷たいのに生暖かい、彼女の熱だと思っていたのは自分の手から移ったそれだった、気付けばそれを握り。

 谷底から這い上がって戻った集落、そこで見たのは人であったものの灰か炭、そして、よくても壊れた建物に押しつぶされた肉片と血溜りだった。

 全てが終わって、燃えるものは軒並燃えていた。散り散りに逃げ、運良く生き残った仲間や、集落の外へ物資の調達に出ていた微かな人間総出で、落ちていたモノ、覚えている限りの衣服の欠片や、その近くにあった爪の形、髪の色と長さ、指先の皺からホクロの位置などで可能な限り個人を判別し、できるだけ墓に名前を彫った。

 分かる範囲で、分かる限り、一つ一つの墓にした。

 そのうちの一つに彼女も一緒に埋めた。自分が弔った。そして、

「……それから、生き残りの連中と傭兵として流れることになった。同じ様に集まっていたらまた襲撃されるかもしれないからな。結局一番それが安全だった。その中でまた一人、また一人と死んで、最後は輸送船に密航しその星を脱した。

 そこから先は……戦場から戦場へ、また少年兵として戦地を巡った。食うものを得る為にだな。その内に個人の――フリーの傭兵になるまでそう時間は掛らなかったな」

 その星で共に居た仲間はもう居ない、あとはもう、どこの星系のどこの銀河かも分からなくなるまで戦争のし通しだった。

 その数年後、商船の護衛中に縁の出来た軍人に採用試験スカウトを紹介され、そこからは傭兵ではなく、軍人として生きて来た。

 初めての女性経験と、前後の状況をあらかた話し終えたノーカは一口、コップの中の液体を飲み下す、こうして好きな時に飲み食いが出来るだけでも今は本当に恵まれた環境だと思いながらのそこに、

「……今は、その星には?」

「いや、なにせその直後にその星が爆発したからな。墓も……そこに住む人も街も、なにもかも。……惑星破壊弾という奴だというのは後で知ったが、木っ端微塵だ」

 ノーカは気を遣わせてしまわないかと思いながら答えた。初めての女性と、それにまつわる記憶の最後はあまりにもあっけない。

 最後の光景は、脱出直後の、透明な黒い宇宙に囲まれた惑星だ。空から見た緑と青と、砂塵と荒野の茶に、白の雲海が、ひどく小さく、ひどく丸くて、それがどんどん小さくなっていった。

 それが目の前で、突然白い光と共に爆ぜた。

 そう思ったら、次の目の前には、真っ暗な宇宙が広がっていた。

 今までそこにあった星は、岩礁と砂礫とガス気体の塊になっていた。

 氷の塊だろうか? 周囲にはそれがキラキラとガラス片のように散って漂っていて。生き物の破片や、樹木の跡、そういったものも浮いていたのかもしれないが、それは小さすぎて分らなかった。

 ……それを聞いていたアンジェに、悪気があったわけではないのだろう? と、表情は変わらないのに何故だか、ひどく気にしていると伝わるその顔に、ノーカは、自分が気にしていないことを伝える為に、慣れた手つきでその頭を撫でた。

 それが終わるのを待ってか、ノーカが手を離すと、それから、

「……どうしてそんなものが?」

「……さあ。邪魔だったんだろう、どこかの誰かの」

「……つらかった、ですか?」

「いや。……そのときは定規スケールの違いに驚かされた」

「……スケール?」

「あまりにも呆気なかったのもそうだが……自分が、今まで立っていた場所が、住んでいた土地が、地上が、地平線がどんどん遠く、大きく広がって行って、今度はそれがあっという間に小さくなって行って……。それごと、つい先程まで隣に立っていた人達が一瞬で居なくなって、ほんの一瞬で光になって消えてしまって、夜空の星と、同じ物になってしまった。……あれは今まで見て来た人の消え方の中で一番呆気なかった」

 思い出す。

 何の音もしなかった。ただ光が強烈に瞬いて、星が火を噴いて、溶けて、固まりながらまた崩壊して、宇宙の中で、砂塵と岩礁の、塵屑に砕けて行った。

皆、生きる為に色々なものを守るために戦って来た。戦って、何かを得ようとしていた来たそれらが、一瞬でチリだ。

 それもほんの二、三秒で。だから、辛いとか悲しいとか思う暇も無かった。

 そういう感情にならなかったのは、それ以前からの問題で、当時から自身が喜びをあまり感じられないことは分かっていたが……そのとき、哀しみも理解できないというそれに気付いたのだが。

 ふと、ここではそれが当たり前なのだと思い至ったのだ。

 そこで人が簡単に消えていくことに酷く納得がいったのだ。地上から見上げていた空――青い天井として感じていたそれが、中に入って見れば、雲一つない夜空以上の、全てに渡る闇の広がりで。透明なのに何も見えなくて、微かに色づくものは全て光の点でしかなくて。そんな大きなものと小さなものばかりの場所で、宇宙と比べてみたら人はあまりにも小さいのだと。

 それからは、真っ暗な宇宙の中に消えて行く――何も無い真っ黒な壁が、どこまでも遠ざかり、無限にどこまでも広がっていく、それを。

 ただひたすら、輸送船の小さな窓からその景色を覗き込みながら、次の目的地まで、ずっと、ずっとその宇宙を眺めていた。


 それを思い出した。

 結局、生きて行く上ではどうでもいいので忘れていた出来事だ。

 しかし今の自分になる根幹、その一部だとノーカは思う。それをほんの少し感慨的に感じていたところ、またアンジェは問い掛けてくる。

「……命について、どう思われますか?」

どういう質問なのか、ノーカは疑問した。

 何故、そんなことを訊くのか。自分があまり悲しむ様子が無いことを、嘘だと断じてか、それともどうしてそう淡白な人間なのかと薄情さを否定するつもりか。

 しかし、そのどちらの気配も無く、やはりアンジェの透明な瞳は真っ直ぐで、感情はひどく感じられない……その内にその質問が、自分に関わり合いのない彼女自身が抱えた疑問かも知れないとノーカは思った。

 それからどう答えようかと悩んだ。命についてなにを思うか――感じるところなどあるかなど何も無い。

 誰かが居た、そこが消えてなくなっても、何も感じられなかった。

 それは命の無意味さというべきか。

 特に意味が無いことに気付いたような気がした、死ぬことにも、生きていることにも、そこにあるもの、それらが存在しているということにも。

 それ以降、考えたことも無い。そこでつい、その感覚で“特に意味はない”と答えようとして、だが、

「……そうだな……単なる可能性だ」

「……可能性?」

「ああ……とても小さな可能性だ。またたく小さな光の中、真っ暗な宇宙のその中に、もしかしたらそれがあるかもしれないというくらいの。

 ……それが生きているかいないかなんて、宇宙とても大きなものから見ればそれほど大したものじゃないだろう。……だから命なんて、“そんな可能性がある”という程度のものだろう」

 特に何も思いはしない。その命が、もしかしたら何かをしているかもしれないし、なにもしていなくとも、生きていようといまいと関係ない……。今まで自分が見て来たものからそう感じていながら、何故だか、それに抗うようにそう答えた。

 命、というそれが持つ意味なんて理解し切れない。

 その尊さも、大切さも。だが無残さだけは知っている。

 それを合わせて言うなら、そんなところだろうと。学者ではない自分に考えられるのは定義もクソも無いそんなものだとノーカは思う。だからアンジェが問うそれにちゃんと答えられたかは甚だ疑問だが、自分にとって命がどういう物かというのなら、それで間違いないだろうと。

 だがそれにアンジェは異議を唱えるようにも眉を顰めて、

「……それは、あなたが、……」

「……俺がどうかしたか?」

 一度口を開くも、しかしアンジェは、言ってはいけない何かであるように口を噤む。極端な淡白さに同情でもしたか、逆に憤っているのかと思うが。これまで見てきた彼女の人間性から、それは無いと断じる。

 そんな中、アンジェはやはり何かを逡巡するようノーカの顔をじっと見つめ、そしてひどく感情を押し殺すかのよう、あえて手のひらを強く握り込まぬよう軽く握った。そのうちに、

「……いえ。……それは、どう計れば分ると思われますか?」

「……それは計るものではなく、感じるものだと思うが……」

 “それ”とは先程自分が口にした、命の可能性という奴だろうとノーカは思い、そう答えるが、

「……それは、どうすれば」

「……そうだな……いや、流石に分からん。そんなもの自分で確かめろとしか……いや、そもそもそのその当人だって分っているかどうか怪しいと思うが……すまん、やはり分らん」

 アンジェにうまく説明することが出来ず、ノーカは素直に謝罪しながら、彼女の云わんとすることを共有、共感できないそのなんとも言えないもどかしさが、バツが悪く顔を逸らした。

 しかし問いの答えを求め、アンジェは無表情にノーカの事を見つめ続け、

「……では、私はどうですか?」

「……どうとは?」

 今度はどういう意味かと、彼女の本当に聞きたいことの意味を問う。

 ソファーの隣、全く意味が分からずアンジェを見つめていると、彼女はおもむろにソファーに膝立ちになり、ノーカを横からその体でそっと抱き寄せた。

 ほんの少し体を捻りながら、正面から抱き留められたノーカは、柔らかい、ふといい匂いがした。それが、化粧品ではない彼女自身の匂い――わざわざそれを嗅がせるという意味がどういうことかを理解しながら、

「……おい」

 抗議するが、アンジェはもう取り合わず、ただただノーカを抱擁する。

「――私は、命ですか? それとも……他の何かですか?」

 まるで、自分の出自を分かっているのか。それともノーカが知っているそれを問うかのような口ぶりに、ノーカは一瞬心臓を掴まれた。

 だが、本心から、

「……どうだっていい」

「……あなたは本当はどう思っているのですか?」

 同じことを二度言うつもりは無かった。

「……貴方は今、何を感じていますか?」

 それ以上アンジェは何も言わず、ノーカは躊躇いながら、彼女の問いに答えようと思い、黙って、その背に腕を回した。

「……何を感じているのですか? それを私に教えてください」

 抱き締める側から抱き締められる側に回ったアンジェは、しかしまた問う。

 しつこく問われるうち、それが本当は何のことなのか分らなくなる。

 彼女が本当に問いたいのは何なのか? 誰について、何についてなのだろうか?

 墓を失くしたこと。それとも、今ここに居るアンジェのこと。

 また優しく抱擁され返されながら、そのまま考える。

 彼女は本当は――自分に何を感じて欲しいのか? あるいは、自分から何かを感じようとしているのか。

 再三に渡るそれは、まるで嘘を吐くなと言っているようで。自分の事を知ろうとするその様子はこれまでとは違い、確実に何かを求めるような視線で。それが彼女の中で、どのような意味を持つのか。

 だが、それと同時に深まる抱擁に、ノーカは自分を抱いてくれた女達の事を思い出す。同時に、アンジェもまた優しい女なのだろうというそれにも思い至る。その多くは自分を抱擁した最後、笑っていたが……初めて抱いた彼女はどうだったか?

 先程も思った。もう、思い出せないそれを、何故だか――

「……感じてください」

 何を、と言うことが出来ず、抱擁が解かれ、目の前で衣服を脱がれた。

 それからすぐ肌の温もりを直接感じた。

 それは女の――それよりもっと大きな、何かに感じられた。

 家族、というそれとは違う、柔らかさと温かさにの中に、懐かしい――

刹那、ノーカは離れようとするも、それを分かっていたかのように彼女は更に奥にノーカを抱き留め、煽情的に体を使い、香しい女の匂いを感じさせた。

その瞬間、無情の、本能のような、怒りとも嘆きともつかない衝動をノーカは感じた。

 星が消えたあのとき、何も感じたりしなかった。だが……もしかしたら、

「――今、何を感じましたか?」

目を閉じ、それを伏せていたノーカだが、アンジェが問われ、正面から目を合わせる。

 その双眸の深淵――深く、暗く、静かな、宇宙の奥底のようなそれが佇んでいる。

 まるで、その向こう側から、何かが観測しているような――

 そのうちふと、ノーカの手の平が柔らかい何かを掴んだ。

 アンジェの手の平が、それに導いた。女の柔らかさ、それに男の手を宛がわせ、なんでもないことのように――そのまま唇を重ねる。

 一度、二度と、唇と唇で噛み合って、離れて、

「……教えてください」

 理性がドロドロに溶け、何かが噴き出そうとした。

 ノーカは、答えられない。

 答えようとして、今度は長く、舌を――

「……私には、どのような可能性がありますか?」

 既に彼女のことを押し倒し、あとは貪るように、ノーカはそれに覆い被さった。

 ただひたすらに、アンジェの事を感じようと……。

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