第24話 もし、本当の夫婦であったのならと、思った日のこと。

 その後、偽装・新婚夫婦は自宅へ戻った。

 そして、夜が来て――

 ノーカは、狭い私室に置かれた小さな机、その上で、書籍型の端末を広げていた。以前にダウンロードした農業の業者向けの雑誌だ。そこには最新の農業ニュース、どこそこの誰それが絶滅種のタネを発見しただの、おすすめの培養細胞や立体成形機プリンター、新たな生産方式など、今宇宙に広がっているそのビジネスに関する記事が載せられている。

 主流は食品の立体プリントだが、その培養細胞とて原材料があり更にその元となる植物や動物のタンパク質や脂質も必要となる。一次産業の意義が問われているが反面、広く使用されるその遺伝子データの開発者、生産者になれば一攫千金のチャンスがあると。しかし、脱サラしてそれを志す新参者があまりにも多く、素材は既に供給過多でどれだけ良いものを作っても結局は奇跡染みた博打バクチになるから無駄な投資になりがちだと目を落したページには記されていた。

 旧態依然の農家の一念発起や、離職した社会人がスローライフに手に職と夢を見た挙句に破滅することが多いとある。

 その隣のページには、珍しい品種を育てていると野菜ではなくその遺伝子データを研究用に売って欲しいと言い寄ってくる輩が居るので要注意、とある。下手を打てば今そこで育てている野菜を訴訟され奪われ逆にお前が盗んだのだと示談金まで求められるそうで、最悪、知らぬ間に畑の野菜を盗まれ上記の事態に発展することもあるとか。

 食うに困っての盗みどころか、これは立派な企業テロであろう。商品の盗用や技術のそれと同じだ。

 それを読み、幾ら辺境とはいえ害獣向けの警備システムだけでなく、対人用のそれも備えておくべきかとノーカは思う。

 艦船装備や家電のジャンク品から幾らでもでっち上げることはできる。

 しかし、培養細胞を使った合成食品が食品としてどれだけ優れていようと、結局のところ目に留まったものだけが売れる――そこは変わらないのだとノーカは理解する。

 なら、どういう野菜に他人は目を向けるのか。

 人は食べる物になにを求めるのか。食べるということの中で何を感じるのか。

 何に刺激を受け、何を必要とするのか。栄養学的観点のページはもう変わらない答えしか乗っていないので飛ばし、――今の流行はやりすたり、のページを捲る。

 そこにあるのはやはり、お菓子やファストフード。

 もちもちした食感、ぷるぷるの喉越し、スパイシーな食味、地域限定の文化的味。

 それが一時的な特需か、継続的な利益になるかはやはり『文化』として根付くかどうかに掛っているという項目に目を向ける。

 風土に根差した主食は言わずもがな、故郷の味、苺のショートケーキ、お茶、酒、時節、季節ごとのイベント料理などだが、そこは人や企業が努力してどうこうというそれ以上に、人が感じる幸福、思い出に根差しているという文がある。

 食べ物の向こう側にある背景が必要だとか、続いて、文化とはそこに生きる者と共生し、土地と共に生き続けるそれを指すと書かれている。古くから続き、今も生きるそれは伝統として数えられ、刷新されることなく死んだそれは人々の記憶に埋もれていくという。

 それは、食べ物が単なる贅沢品や嗜好品ではない、ということだ。

 難しい話だとノーカは思う。なにが一時的な流行になるのか、どれが継続して文化として根付くのか、そんなもの一個人には計れない。その背景なんて、精々人一人の思い入れ程度の気がする。

 うまい飯くらいなら自分にも分かるのだが、と。アンジェの作ったそれを思い浮かべ、否定するよう眉間にしわを寄せる。

 彼女が居なくなった時、それに耐えられるのかが課題になりつつある。

 そんなやや更けた夜、小腹が空いたなと思うそんなとき、

「――ノーカ、今、お時間頂けますか?」

「……ああ。構わない、入ってくれ」

 快く本型端末を閉じ、それをそっと机の隅に追いやる。

 その途中ドアが開き、浮く光る球体――浮遊照明フロートランプを連れてアンジェは中に入って来た。するとノーカが半ば机に向かい椅子に座っているのを見つめ、更に、部屋の壁に寄せたベッドを見つけて、

「……申し訳ありませんが、ベッドへ座って頂けませんか?」

 なんだ? と懐疑的に思いつつ、ノーカは了承し椅子からベッドへその腰を移した。少し低くなった目線の高さ、そこでアンジェを見上げ、

「……これでいいか?」

「はい」

 アンジェは返事を返すと、妙に機械的な歩調でノーカに近付き、ベッドに腰掛けたその隣に、工程を一つ一つ確認するようカクカクとした動作で腰を下ろした。

 ノーカは、なんだ、と、怪訝な視線をアンジェに向ける。しかしアンジェはその視線に一瞥もくれず、真っ直ぐ前を向いたままおもむろにノーカの太腿へと自分の手を乗せ、その手のひらでくるりと円を描くよう撫で回したかと思えば、それから意味不明にもさも当然といった確信めいた無表情で、

「――どうでしょうか?」

「……」

 なにがだ。と。目も口も表情筋すら微動だにしないノーカに、アンジェは継続してクルリクルリと腿の上で手の平を滑らせる。

 いったい何のつもりなのか。

 ただ軽く反らせた五指の指先、その腹で触れるか触れないかの距離感、羽毛を一枚挟むよう撫でまわされノーカはそこがぞわぞわした。レナから教わった子供の悪戯、くすぐり攻撃に類似した精神への攻撃か何かか。

 加えて瞬き一つせず至近でこちらを見ているアンジェの顔の――無感情な無機質さが、何故だか妙に煩わしく思わせてくる。

 そこで鼻で溜息を吐き出し、率直な意見を、

「……何がしたいのか分らん」

「……では、これはどうでしょうか?」

 言うと、アンジェはそっと、そしてピタリと二人の間にある腿と腿の距離を埋めて座り直し、そこから更に、ノーカの肩に肩を預けるよう寄り掛かり、ちらりと無表情な上目遣いでその表情を確認して、

「……」

「……」

 しばらくして。

 更に、コツンと今度はその横顔を素知らぬ顔でノーカの肩に乗せるよう寄り掛からせた。

 それを、けったいな生き物を見る眼でノーカは見る、だから一体何がしたいんだと。無言で訊ねられたそれに、ややあってアンジェは、今度はその手をやおらノーカの五指に絡め、二人の指と指の隙間を埋めるよう親密な握り方をした。

 とりあえずやってみた、極めて唐突な、突貫的な手つきである。それにノーカはまたも表情を変えずにいると。更にはと。その平均的かつ標準的な胸の谷間に、ノーカの腕を抱き込み挟み込んで両腕で拘束する

 あまつさえ、乳房の下に前腕を差し込み持ち上げるよう意図的にバストトップを伸ばし谷間を寄せて上げる始末である。

 その行為に、ノーカはかつて上官に連れて行かれた下品なキャバクラのことを思い出した。無節操に媚びを売り、色気を振りまき体を寄せられ化粧臭くて香水臭くて堪らず周囲は酒臭くて煙草臭くてキツかったそれだ。

 ただの石鹸ソープか自分の汗のほうがまだマシとさえ思ったそれに対し、

「――どうですか?」

「……何か意図があるならその意図を明かせ」

「はい。実はセツコ様とレナさんに仲の良い夫婦の在りようを幾つか教わりまして、それを実践しておりました。如何いかがですか?」

「……場面シーンを弁えていないんじゃないのか?」

「? ……二人きりですが?」

「偽装に使うのならむしろ人前でするべきだろう、その練習というのなら分かるが」

「……はい。確かにその通りです」

 言うとアンジェは少し気落ちしたよう翼を萎め、ノーカの腕を自身の胸の谷間から解放し、普通に座った。

 膝に両手を揃えて、申し訳なさげに、畏まったようにそれから拳三つ分は離れて改めて座り直し……また何かを確認するようにノーカの顔を見る。

 なら、どうすればいいのか、次はどのようにするべきかと問うその姿に、これも何かの入れ知恵かとノーカは勘繰るが……そこでその考えを辞めた。

 これもアンジェなりの努力なのだと、そして、それが夫婦の事であるのなら、その努力に自分も参加するべきだと。

 そこで彼女の脇に置かれた、彼女の手に、先程の彼女を真似するよう手を重ねた。

 撫で回しはしない。が、そこでほんの少し翼を震わせた彼女に、今度は自分はどうしたいのか、どうすればいいのかと考えて。

 アンジェのひた向きな真摯さを思い、居住まいを正し、

「……じゃあ、もう少し練習して、明日から外で実践するか?」

「……よろしいのですか?」

「ああ。セツコさんからは、他に何か有用な話は聞けたのか?」

「はい。家での過ごし方として、一緒にレクリエーションをするとか、休みの日に少し遠くの街に出掛けるなどと。他には……」

 何かを思い出したよう、スッと口を噤み、アンジェは言い澱んだ。それを気兼ねなく話すようにとノーカはあえて問い、

「……他には?」

「……言えません」

「……それはどうしてか、聞いてもいいか?」

「……想像の余地は省いて欲しいと」

「……よく分らんが、俺は聞かなければいいんだな?」

「――はい。それから今日、ご就寝のときは私の部屋にお越しください」

「まだ何かあるのか?」

「はい。まだ教わったことがあります。……私自身、考えたことも」

「……分かった。なら、今から行くか」

 ノーカ個人の起床時間を考えるのなら、もう遅いくらいだからと。

「いえ。私はまだシャワーを浴びていませんので」

「ああ……なら、終わった後で行く」

「はい。その上で、度々申し訳ございませんが、出来れば私がシャワーに向かった後に私の部屋に入り、先にお待ち頂けますか?」

「……分った」

 一体何を企んでいるのかと、微妙に警戒心が持ち上がる中、その返答にアンジェは立ち上がり部屋を出て、そこから自室の方へと向かった。

 着替えを取りにいったのだろうその足音が、二階の廊下から階段へ、そして一階の風呂場へと向かいややあって水音が響き始めたのを聞いてから、私室の照明を切り、本人不在のアンジェの部屋へと向かった。



 建前上、夫婦の寝室。そのドア横の壁、ノーカは灯りのスイッチを入れる。

 と、天井の壁紙それ自体が淡く発光し、白く室内を照らした――蛍光灯のそれだ。そして常夜灯の小さな浮遊照明の二種があるが、こちらは点灯させない。

 窓のカーテンはまだ引かれていなかった。獣と虫よけの意味もあるので、外に光と中の様子が漏れぬようにとノーカはしっかりそれを引いた。

 もしかしたらまた初日のよう外でも眺めていたのだろうかと思う。

 そして振り返る、と、女の部屋の何処に腰を落ち着けたものかと――鏡台の前、そこに置かれた背もたれの無い椅子に一先ず腰を落した。

 他人の寝床ベッド、それも新品のそれに腰を落ち着けることはマナー違反の気がした。

 あれから注文していたキングサイズのベッドが届いたのだが。ついでにその下に敷く絨毯も追加購入した為、広々とした木目の床も大分手狭になった気がした。

 部屋の匂いも変わった。

 埃と陽射しだけのそれから、化粧品と香水、それに新しい木の香りと、微かな女の体臭が空気に塗り込められ、二十畳もあった殺風景は今は賑わいに満ちている。

 それはこの部屋だけではない、家の各所に彼女の物が、気配が、匂いがそこかしこに置かれ、銃器に火薬の煤けたそれが隅に片付けられているような気がした。

 自分以外の匂いが自分だけの巣からするというのはどことなく落ち着かない。ソワソワとしたその匂いを追い出したい気持ちが、しかし彼女の面倒を見るという責任感が、それをどうでもいいことだと思わせる。

 そんな中、なんとなしに暇で、ノーカは、椅子に座ったまま鏡台に振り返った。

 ちゃんと使っているのだろうか? そこで化粧道具を動かす彼女の姿を思い浮かべ、しかし、その無表情さからその想像を諦める。

「……」

 音が聞こえる。

 家電こそそれなりの最新機材だが、惑星の自然環境と合わせた景観重視で指定された建築様式、大昔の技法を用いたそれは床も壁も防音性は無きに等しいそれだ。しかし危機管理の都合、隣の部屋や階下、外の様子まで自分の耳で感知しやすいのは望むところで。

 癖で自分の周辺の音をつい拾い検分してしまう。既に、彼女個人の人格に関しては全く危険視していないそれを。

 自分のそれとは違う彼女の音が、今も階下から微かに響いてくる。

 既にシャワーは終わり、温熱乾風機ドライヤーの音だが、彼女は髪が長く、翼もある為から時間が掛る。浴室内ごと全身を乾かすタイプなら楽だろうが、それには浴室ごとリフォームが必要となる。少々の金は掛るが、しかし彼女が長い期間ここに居るのなら自分で使うことも勘定に考えようかと思った。

 そこで脱衣洗面所のドアが開き、パタン、と締まる音がした。

 続けてキシ、キシと、床を踏む音が響く。

 ノーカは彼女の部屋の中から、その入口を見つめた。

 やはり、自分よりだいぶ軽い音だ。それを耳で確かめ、アンジェの足音が確かに部屋のドアの前で止まるのを待っていると、そこが鳴った。


 ――コンコン。


「――なんだ?」

 自室なのだから断らなくていいのではと思うもの、律儀なそれにノーカは自然と背筋を伸ばすと、ドアの向こうからまた、

「――ノーカ、申し訳ありませんが、明かりを小さなものにして頂けますか?」

「……分った。少し待て」

 何のために、と思うが、言われるまま鏡台上に置かれたリモコンで天井の光を消すと、小さなオレンジの瞬きが幾つか宙に浮遊した。

 暗闇に、燈々と、薄く広がった光を確認し、

「消したぞ?」

「……」

 言うが、しかしアンジェは少し躊躇うように……ゆっくりドアを開けた。

 廊下の白い照明が区切った光の中、風呂上がり、就寝前の内履きスリッパと、その奥、雫を纏うよう瑞々しい五指が入る。

 その真上――アンジェの肢体は、酷く薄い衣を纏い、その五体を飾っていた。

 銀色と見まごうほど白が煌めく様な、薄いそれは大胆にスリットが入れられ、人形のようか細い太ももの、折れてしまいそうな――折ってみたくなるほど柔らかげな印象がチラリと覗けている。

 そこより上、下着を着けているような線は浮いていなかった。もちろん上下ともにだ。

 夜着ナイトドレスという奴だろう、散りばめられた刺繍は精緻で静謐として、色欲を促するよう淫猥であり、華美ではなくそれを禁じるよう楚々でもある。

 丈は膝下、ふくらはぎの半ばまで届き、しかしまるで何かに跨ったまま捲り上げられることを想定したような薄さと軽さで、向こう側まで透けて見え――その向こう側、それを身に着けた肌に、やけに生々しくみえた。


 しとり、しとりと、滴ってくるような、酷く肉欲的な格好であるのに、それを超える神聖な何かが。

 香水でも噴き付けたかのよう熱と水気を含んだ艶やかな肢体が。

 背中の真っ白な翼も羽根先を揃えて、神秘とも呼べるかぐわしい情景をその身に散らしてそこに立っている。

 多分、出会った中で、それが最も美しい女性だった。

「……アンジェ?」

 その艶姿、以上に、気配に圧倒された。

 触れることをためらう程の――というそれを。光を熔かしたよう白金色プラチナの髪は、今から運動でもするよう簡素に、だがキレイに結い上げ纏められている。

 薄く、化粧もしているようだった。部屋に入りドアを閉じた切り無言で佇む彼女に呼びかけたが。その表情は――いつもと相変わらずの無色透明の宇宙を表したような……無機質なもので。

 そこだけがひどい現実感で。

 いつもとは一味も二味も違う美貌にも色香にも惑わされることなく、ノーカは逆にその顔になんとも言えない不穏なものを感じ、自身もいつもの不愛想で顔を固定し――多分目を逸らしたら負けだと気を引き締め、

「……なんだ? その格好は」

「……ご想像にお任せいたします」

 わけが分からない、とノーカは思う。

「……さっきは想像するなと言った筈だが?」

「その余地を塞いでほしいと言っただけです」

 そして、アンジェはドアを閉めた。

 そこから廊下から差し込む照明は消え、小さな常夜灯が、それ以外を闇で満たした。

 ほんの僅かな明かりが、ぼうっと、彼女の真っ白な肌と翼と、理性と色欲が二律背反した夜のドレスを温かく染めている。

 暗闇が薄っすらと絡みついたそれだけが蠢き、静かに、ひたり、ひたりと近付いてくる。

 妖しくも、綺麗なのだが――やはり怪しい。

 ノーカはやはり嫌な予感がした、何の余地を塞いだのか。

 それを推考する間に無視して椅子に座るノーカの元へもう間もなく歩み寄り――アンジェはその手を取ってノーカを立ち上がらせると、両手で手を引き、彼女は彼女のキングサイズのベッド前までリードし、そこに夫である立場の男を立たせた。

 その――夫婦用の特大寝具の真ん前で、何かの儀式のように一度立ち止まり、

「……、ここでなにをするつもりだ?」

「セッ――」

 言わせまい。予測していたノーカはその唇を手の平でピシャリと塞いだ。

 それから、言うな。言わないな? と目で確認を取り、彼女がやはり表情一つ変えずにコクリ頷くのを確認してから手を離すと、

「……夫婦に必要な事です」

 言い回しを覚えたか。と、しかしその自分の質疑に対する明確な回答に、ノーカはそこでハッキリ横に首を振る。

 彼女の彼女なりの夫婦である努力を認めるが、そればかりはと、ある意味彼女以上に彼女を慮って、

「――ダメだ」

「ノーカ」

「……なんだ?」

「私は、嘘が得意ではありません。今日、それを思い知りました。レナさんには多大なお世話になりました。このままでは遠からず、知られてはいけない人間にまで気付かれてしまうかもしれません」

「……それでどうして、夫婦に必要な事なんだ?」

「嘘を吐かずに済みます」

 端的だが、それは酷くわかりやすい理由だった。

 ノーカ自身も、嘘が苦手という領分があるからこそ、それは理解し共感できた。

 だが、

「……分かった。だが一先ずよく考えてみようか?」

「何をですか?」

「これは夫婦に必要な事なんだろう?」

「はい」

「なら、妻の考えだけでなく、夫も考えも必要なはずだ。――お前だけの意思で行われる事ではない筈だ。……これは二人考えるべきことではないのか?」

「……それは盲点でした」

 ノーカは一先ずホッとした。

 内容が内容である。覚悟や決意や、欺瞞だけで進んでいい領域ではない。それを思いノーカは、アンジェの為に――いや? これは夫婦の事なのだから、自分の意志だけでなくと、彼女の意思も尊重しようとした、それが功を奏した。

 それから、至近距離で透け感とチラリズムがすごい薄着の就寝着を見て、

「……とりあえず、冷えないよう何か羽織るか、ベッドに入って毛布を被れ」

「分かりました」

 素直に頷くと、アンジェは背中の翼を前で交差させ、幅広いの帯のよう胸下からくるくると腰から太腿の辺りまで巻き付けそれで覆った。そういう使い方もあるのかと妙に感心してしまう中、彼女は更にキングサイズのベッドに腰掛け、その上にある薄い上掛けの布をベッドの端から引き寄せ、肩からブランケットのよう足元まで絡めて被った。

 これでいいのかと見上げる瞳に、ノーカは無言でその隣に座った。

 距離を近付ける。先程、ノーカの自室での滑稽なそれより、遥かに自然に。

 話そうとする、これから自分達がやるべきことと、彼女がやりたいことの要点を纏めて、それを成そうとする、アンジェの顔を見た。

 そしてもう一度、お互いの得手不得手を思い、

「……嘘偽りなく、夫婦らしくか……難しいな」

「はい」

 この生活の困難さを、否、夫婦であるということのそれを理解する頷きと共に、ノーカの顔をアンジェはじっと見据える。

 それを見ながら、ノーカは嘘が苦手らしい彼女がそれを吐かなくとも済むようにと考え、昼、夫婦としてバンから貰った言葉を思い出す。

「……自分達らしく。それでいいんじゃないのか? 焦らなくとも、他人と常識とも違おうとも……これが自分達の夫婦の形だと言い張れば」

「……それで、他人から疑われませんか?」

「かもしれないな。だが普通ではない自分達が普通に見えるよう振る舞っても、夫婦としてかえって不自然かもしれない。……そういう見方もある」

「そうかもしれません。……ですが既に、私達は嘘を吐いてしまっています――私は貴方に多大な好意を持ち、貴方も私にそれを持つという。その前提を踏まえるのなら、やはり、これは必要な行為だと思い、私は貴方にそれを求めます」

 整合性としては確かにその通りかもしれないとノーカも思う。

「……なるほど。……だが、それは一般的な価値観に基づくものだな? 我々の、我々なりの恋愛や……愛情、というそれに照らし合わせた場合は、どうなると思う?」

「……どうなのでしょうか? ……」

「……では想像してみようか。自分たちなりに、自然な夫婦の姿、というのを」

「はい。……どうなのでしょうか?」

 そこは夫任せなのか、とノーカは少し苦悩しつつ。

 ノーカはそれを想像した。キングサイズのベッドの縁で、綺麗に着飾って、自分を性交渉に誘った妻と、並んで座るというそこで――

 アンジェに、仮初の妻としての努め、それを果たされて、なら、自分も仮初の夫のシテの努めを果たすべきか――本当の自分達が、夫婦なら、仮初でないのなら、それを果たそうとしたかを考えて。

 彼女との間にある距離を、詰めた。

 アンジェは、少しだけ目を見開き、仰け反るよう上半身のみ引いた。想像とは、実演まで含まれるのかと。

 ノーカはただ想像力を出来るだけ正確に働かせる為――自身の乏しいそれを補うために体を動かし、現実の視覚や皮膚、筋肉まで動員して、更に想像をした。

 ただの他人である、という心の距離感を消す。すると、自然に体がどうすべきかに動き、その中で、布を被り翼で包んだアンジェの腰に手を伸ばし、夫婦ならと、彼女を抱き寄せるよう近く、至近で見つめた。

 はて、ここからどうするのか。自分たち夫婦なら、ここから何をするのか。

 どこまでも無色透明な、ガラス細工のよう、作り物めいた目を。愚直ながら、真剣で、一貫して、一途な女性を。

 どうしたいのかと――

 吸い寄せられるように、口を開いて。

「……仮に、自分達が出会ったとき、本当に一目惚れという奴をしていて、本当に恋に落ちて、本当に愛していたら――これまで、どうしていたと思う?」

 意図を、心理を、彼女と共有するために問い掛けられたそれに、アンジェも一滴たりともそれを逃さぬよう目を丸く見開きながら、真剣に考える。

 至近距離、目と目で見つめ合いながら、

「……想像がつきません」

「……だろうな。正直俺も想像が出来ん。……だが……だからこそ、今の結果、やり方で正しいのではないのかと思う」

「それは……」

 どういうことなのかと問おうとして、しかしアンジェも目の前にいるノーカと同じよう、想像を働かせなければと努め、

「……仮に、本当に恋をしていて、愛をしていても……私達はこうだったと?」

「そうだな。仮に、そうだったとしても。ここにいる俺たちと、同じことをしたと思う。理想の夫婦象やら常識やら、知識や経験、今とは違う立派な人格がそこにあるわけじゃない。……それが夫婦をやっていたら、やはりこうなったんじゃないのか? ……俺たちは俺たちのままだと思う」

 ノーカは頷く。

 片や元兵士で兼業農業をしていて、片や詳細不明の有翼宇宙人種で。

 どちらもお世辞にも器用とは言えない精神性で。

 それが偽装ではなく、本当の夫婦であったとしたら――

 これまでと何ら変わらない、同じ行動をとっていた。かもしれない、だろう、と思う。仮に本当に一目惚れをしていたとしても、やれそれが運命の恋だ愛だなどと燃え上がり盛り上がっていたかといえば――絶対に否だ。

 しばらくして、今のよう五里霧中、四苦八苦していたに違いない。と、それをアンジェも想像した、想像できた。

 そして彼女もゆっくり頷きを返し、

「……確かに、そのような気がします」

「……そのときは、やはりこうして、他人の目や言葉が気になって……夫婦のアレコレをしようとしていたかもしれないな」

「そうですね……、そうかもしれません……」

 そこでアンジェははたと、そのとき、今の自分がどうしていたのか、どうしたいのか――

 それは現在、これからどうしたいのか? だろうかと。

 それが今と変わらぬというのなら。

 そこでふと、それを確かめてみたいと。いや――してみたい、と。

 一人の男性として、誠実に、一人の女性として、真摯に努めてくれたノーカに、羽織った布を落し、体に巻き付けた翼をはらりと緩めた。

 隣で自分を抱けるほどの距離で、立ち上がり、それでも自身の目の奥を、一度だけ、夜着を纏っていても裸身と変わらぬようなそれを見まいと、それ以上に、今のアンジェの意思を、意図を察しようとするノーカを見て。

 彼の前まで行くと、座って軽く開いていた彼の腿に、ベッドに膝立ちで跨り、それからノーカの体を浅く抱擁しながら腰を下ろした。

 動けなかった、ノーカは、息を呑んだ。

 悪意も、欲望も、何の意図も感じられなかった。知的な好奇心のようにも、性的な衝動があるようにも。

 だが、どうして、突然アンジェがそんなことをし出したのか。

 蠱惑し、誘惑してきている訳ではない。十日程度の短い付き合いだが、それは分かる。そして次第に、なんとなく、彼女の意向を感じた。

 今と変わらない――

 本当に夫婦であったのなら。

 本当の夫婦であったのなら、これから先はどうなるのかと。

 ノーカも、自然に、自分の腿に跨ったアンジェの腰に、腕を絡めた。

 そして浅く抱き寄せると、改めて、自身の肩に置かれた彼女の手に温かな熱を感じて、それ以上に、柔らかく、淡く押し当てられたアンジェの肢体の肌触りの良さ、くらくらとするような、石鹸より澄んだ匂いに。

 ノーカは不意に、自分の欲求に任せ、アンジェを抱き寄せた。

 ゆっくりと、本当に良いのかと、自分と、彼女の意思を確かめるよう緩慢に。膝を開けた正座のよう、腿に跨っていたその膝裏に手を通し、掬い上げるよう立ち上がった。

 そのままそこで背後――ベッドに向き、アンジェを抱えたまま足裏をベッドに上げて、二本の足でそこを歩き彼女を枕元、ヘッドボードの方へと運んだ。

 そこに、アンジェを降ろした。

 アンジェは、それに抵抗しなかった。純白のシーツの上、自然に受け入れたようノーカに抱き着いたまま、そちらもと、運ばれる際に彼の腰へ絡めていたふくらはぎで促し、自身の体の上にそれを寝かせる。うつ伏せと仰向けで、顔を合わせた。

 そこでアンジェは手も足も投げ出した。お互い、もう何かを聞くようでも、求めるようでも無かった。腰に巻き付けていた翼もノーカを受け入れるようシーツの上に横に広げながら、その様子を窺った。

 ノーカが、自身の二の腕の長さだけ、彼女との距離に隙間を空け、その瞳の奥を窺うと、自分が映っていた。

 アンジェの瞳にも、それを確かめようとするノーカが、そして自身が映っていた。

 自分達が本当に本当の夫婦であったのなら――その想像の続きを、確かめる為に。

 身を委ねようとするアンジェの体に、ノーカは、徐々に自分の体を落し重ねようとする。アンジェは、その体に男の影が覆い被さり、重なって行くのを感じていた。

 そして――

 影が。

 唇が重なる。

 そこで、何かに迫られ、急かされるように、アンジェの唇が、

「……私達は、愛し合っておりません」

「……そうだな」

 既に、重なり合っていた影が離れた。

 唇が触れ合う寸前、それが分っていたかのようにノーカは体を離す。

 のろのろと、ゆっくりと、お互いに体を起こしそこに座り込みつつ、離れて、アンジェは本当に少しだけ乱れた着衣を、腿まで捲れあがった裾をくるぶしまで強引に正した。

 そんな中、ノーカは背を向け、大きく、ほっと息を吐くよう肩を落とした。

 まるでそうなることを願っていたかのように……否、そんな意図など無かったというようなそれに、アンジェはあることを察し、

「……こうすると、分っていたのですか?」

「……いや。ただ――……愛する人以外とすることは、いけないことだと思っていた」

 最後まで、いつでも止められるように、アンジェの事を確かめながら動いていたそれを言外に尋ねられたノーカは、そう答える。

 それをアンジェは、その背を強く見つめながら、

「……それは、私の為ですか? ……あなたの為ですか?」

「……その両方だが」

 何故だかそこで更に肩を落とすようなノーカに、アンジェは首を傾げる。

 本当はしたかったのか――いや、本当に案じていたのだろうと。

 アンジェは、何故だかほっとしたよう吐息を吐いた。この話を始めた最中の、ノーカの。気遣いの意味に――大切にされていると気付き――思い出し、反芻しながら翼で腰を抱くよう包んだ。

 そして、柔らかく、その唇で、

「……私が、構わないと、申してもですか?」

 振り返る。ノーカは、そこにあるアンジェの表情を見て、それはどういう意味かと思いながら、もう考えるのを止し、思考を放棄し、

「……そのときはまた……考えさせてくれ」

 本当に疲れた、というその様子に、透明感溢るる無表情な頬で、

「……わかりました。では、この案は却下致します。……その代わり、代案を要求致します」

「……わかった。……それは今現状のだな?」

「はい」

「……」

「……」

「……一緒に寝るのはどうだ?」

「では、そうしましょう」

 また子供じみた発想だと思いながら、ノーカはアンジェの要求を満たす為、彼女が嘘を吐かなくても済むようにと彼女を抱き寄せ、そっと、そのまま横になった。

 それから、小さな明かりも消す。

 そのまま目を開けていたが、やがて思い出したように、彼女を腕枕し、そのまま目を閉じる。そんなノーカをアンジェはしばらく瞬きをせずに闇の中で見つめていたが、やがてその姿を真似するよう、穏やかに目を閉じた。


 ノーカは闇の中、自分が愛云々そんなことを思っていたのかと、今まで知らなかった自分の一面に地味に当惑していた。

 しかし、初めてアンジェと閨を共にしたその夜は、何故だかひどくよく眠れた。

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