第23話 男の話、女の話②
足元、丸石で囲った池。
その縁で、水面上、観賞魚がパクパクと餌を強請る姿に、ノーカはしゃがみ込みながらその額を指でトンとつつく。
すると、なんだ、エサじゃないのかと優美な観賞魚はターンを決め、池の中央、水面より下に戻っていく。無言でその姿を目で追うノーカに、バンは、ガキかよ、と思いつつ、
「……そういや、女とどう仲良くすればいいのかだったか?」
「いや。普通の夫婦は家で仕事をしていない時、普通は仲良く何をするのかだ」
「なんでそんな必要があるんだよ。ニセモンなんだろ?」
「不自然だと疑われたら法的に不味い」
「……そんなこと気にする細かい奴、この田舎に居るか?」
……確かに。
そう思いつつ、
「……取引先の人間が直接ここに来ることもある。そのとき、俺が結婚したことそれ自体を疑う者は必ず居る筈だ」
バンは、この人間が自分自身の人生をどう悲観、否、どう現実を直視しているのか、非常に気になったが。
相手が常識的ならまず――驚くだろうが――まず祝福するだろうと。コイツの社会的常識はどうなっているのかと改めて思う。
しかし、不覚ながら一理あり、
「……まあ絶対結婚できるはずのない、する筈の無い奴がしたらそりゃその時点ですげー不自然か。んじゃあ休みの日にデートに誘ったり二人で買い物に出掛けてどこかで遊んでちょっと高級な飯でも食って来たりしたらどうだ?」
「そんなことでいいのか?」
「逆にそんなことしか出来ねーよ。……そういやよ、レナとのアレ……失恋はどうなったんだ?」
「…………何を言っているんだ?」
極めて懐疑的で、そして胡乱気な眼をノーカはバンに向けるが。
「――真面目な話だって言ったらどうするんだよ」
急に眼が人間を辞して闇に落ちているのだが、
「……普通に断った」
「……そか、ま、そうだよな……全然脈無かったもんな……娘が迷惑かけてわりーな……」
「……親が謝ることなのか?」
「いや。なんとなくだよ」
「……というか、知っていたのか?」
娘の恋心を、というそれに、
「あのね? こちとら父親よ? 小さい頃からおまえのとこから帰ってくるたびに、おまえのことアピってくんのよ? おじちゃんオモシロい、おじちゃん優しい、おじちゃん! おじちゃん! ……ってな……本っとうに嫌でも気付くわ……」
「……一体どこが……?」
「あ、カッコイイとは一言も言わないのがポイントな」
「……」
「あれ? なに? 気にしてるの~? ノーカおじちゃ~ん?」
要するに、小賢しくも好意を隠したまま外堀を埋めようとしていたのだと。
その涙ぐましい十年の努力を理解してか、せずにか、ニヤニヤと挑発するバンの姿に、ノーカは、ただなんとなく、
「……父親に似た男を好きになるわけではないらしいな」
「あ゛?」
バンは煙草を池を囲う丸石に押し付け火を消し、メンチを切り、ノーカは、言いたいことがあるなら臆病風に吹かれず言ってみせろと、睨み合い……やがて、
「……やめとこ、レナが怒る」
「――そうだな」
相互理解、娘の気持ちを優先、というそれを理解し合い、また一本、煙草をふかし始めるそれを、池に沈んだコイを眺めながらノーカはまた付き合いだした。
……そして、時は流れた。
「……なるほど、男は概ね清楚な白か可愛いピンク、淡い色使いのものを好むのですね」
アンジェはしげしげと、紐と、刺繍と、ひらひらと、透け感、艶々で彩られたその画像を見つめる。セツコができるだけ健全な範囲で役立つ知識をと、戸棚から引っ張り出したカタログだ。
三人は婦人向けのタブレット端末、通販下着カタログを前のめりの輪で囲っている。当然、どれも普段使いではない、夜専用Do-it《する、した》のそれだ。
夫婦の夫婦における夫婦の為の行為――夫婦が特別に仲良くなるアレと言ったらあれしかない。
その事前準備の、参考資料である。
「ええ。とりあえずそれなら外すことは無いわね。いきなり赤とか黒とか紫とかは止めておいた方がいいわ。安い女に見られるわよ? ……それから、まずは自分に合う色を探した方がいいかしら?」
「私黒系全然似合わないんだよねえ、地肌に合わないっていうか」
「こどもっぽい体型が抜けないから仕方ないわね……でもそれ以外は割と何でも似合うでしょう?」
娘をそう評する母はサッと目でその体を一巡する。15歳のわり肉感は明らかに薄く、色々とムチムチしがちな自分の血が入っているのかと本当に疑いたなるお子様だ。しかし起伏が全くないわけではないので、多分まだ伸びる余地はあると見立てる。
女の変身は二段から三段階ある。二次性徴における基礎ステータスの変動から経験値、妊娠出産の体質の変化など人によって異なるが。……ぶっちゃけ成長期として背丈はほぼ頭打ちで、体型のバランスとしてはむしろこのままの方がいいのではと思うが。せめてあと一回か二回くらいチャンスが――あればなぁ、と。
母は希望的観測を止めた。小柄で巨乳じゃないだけで、品(貧)のある
「エロさが欲しい。色っぽさが。大人の美貌が」
「レナ……諦める覚悟も必要よ?」
「おかあさ~ん!」
そんな仲の良い母娘を見つめつつ、アンジェも色とりどりの下着を眺め、翼で首を傾げるよう屈曲させ、
「……私はどのような色が良いのでしょうか」
「そうねぇ……その肌と金髪、翼の白と合わせるのなら、やっぱり淡い色か、逆に下着とどっちもぼやけないようハッキリとした色使いになるのかしら? ……デザインはエレガント系の上品なので……うーん、安いのは徹底して合わなそうねえ……それ以外は大体行けそうなんだけど」
モデル体質、というべきアンジェの肢体を見てセツコは思う。
細くて胸もお尻も適度にあるから、何でも似合う反面、顔付き、体のラインは整然とし過ぎているくらいで、普段使いの気を抜いたそれはとことん野暮ったく見えるのが欠点だろうかと。
羨ましい欠点だと、母娘揃って圧倒されつつ、しみじみと眺める。
今、その美麗な肌と羨まし過ぎるスタイルが、セツコたちの前で下着も露わになっている。
カタログ端末のセンサーで体型を計測し、試着する服と露出するであろう素肌を今着ている服に立体映像で上書きで合成している。サンプリングした本人の肌を合成する為、自分の肌の色と服の合う合わないを実寸で確かめられるそれだ。
当然、その下着姿も、合成画像と分っていても、アンジェの実寸と違わぬ艶姿であり、その肢体は同じ女として眩し過ぎるほどだ。
特に細さ――秘訣があるなら教えて欲しいのだが、
「――コレ! この透けてるのは?」
同じく細い系の、体重の悩みがほぼない子供っぽい娘の見立てに、
「……悪くはないけど、アンジェさんにならもっと面積の大きい上品な
面積の少ない卑猥なそれが通り過ぎ、上品なスケスケがアンジェの体に覆い被さる。
レナが推奨したのはもはや面積という概念が存在しない紐と糸という一次元で構成された赤のエロ下着では、逆に彼女の眩い肢体がそれを嫌うだろうと、同じく透けながらも全身を包み思わず首を伸ばして目を凝らすようなそれにした。
男が見ても罪悪感で目を逸らしたくなるような神聖さなので、逆に、その綺麗な肌が見える面積を減らし、ぼやかしたその奥を魅せようという采配だ。
その視覚的足し算と引き算の意味に、アンジェは顔から下――自身の下着姿を確かめつつ、
「……下着は、体型維持や、隠す為だけではないのですか?」
それはそれ、これはこれとセツコは思う。
確かに、普段使いとしてならそれで正しいのだが。
今は男、夫、旦那とイチャつく為のものだ。そこで面積が小さく透けてるとか穴がとかモロ出しとか分り易く卑猥なそれは確かに男を滾らせるものだが――
しかしである。
「――ううん。男が言うキレイと私たち女の綺麗って大分ずれてるから。その辺り、単純に私達が綺麗に見える物を選べば良いって訳じゃないのよ……」
「左様なのですか?」
「そうそう。おじいちゃんもお父さんも服とか私になんかやたら可愛いモノを着させようとして来るしね」
「本当に好きなのはラフで動きやすい奴なのにね? ――ちょっと派手な」
「エロかっこいいって言うんだよ。……なのに胸を出すなとかミニは止めろとか、面倒臭い」
祖父、そして父親が不可視の狙撃を受けているがそれはさておき。
女が追う理想の女、それと、男が求める理想の女。
アンジェは分析する。女性のそれが身近な同性と比べて同等かそれ以上を指す『決まった感』であるのに対し、男性のそれは各種欲求を満たす『俺の感』であることが多いと。しかし、双方共に基礎として『恥かしくない』『安心感』があることを理解する。
たかが布きれ一枚二枚に、そんな複雑な思想が絡み合っているのかと。
そんな未知の領域に宇宙の深淵を覘く様な気持ちになりながら、彼女なりに自身の状況を想定し、理論と重ね合わせて、
「……自身の嗜好、社会の要求、夫の欲求、それらを同時に満たすのが理想でしょうか?」
すごく固く問われて、
「そ、そこまでがんばらなくていいのよ。……ほら、夫婦として暮らしているだけで、家の中もそれなりに特別な景色に見えたりしない? 下着だってそれと同じよ。なんならそのつもりが無かったときの上下不揃いに燃えたとか、如何にも野暮ったい無地の白パンに萌えが生えたとかもあるのよ? 特別じゃなくてもいいのよ」
アンジェは試しに自身の体に合成した、白の無地の上下、芋っぽい合成映像のまま、果たしてこれが自分に似合うのかどうかと首を傾げる。
そしてやはり、宇宙の深淵を覗き込むかのような無表情をし、
「……ですが、夫婦である、ということは、やはり特別な事なのですね」
青空の下、
「――待て」
「なんだ?」
「まだだ、女の話は長い――買い物もだがよ。男が急かしていいのは飯の準備を一時間以上オーバーした時だけだ」
「そういうものか?」
「そうだよ。……ただでさえ話している内容が多分アレについてなんだ……」
「――アレ?」
「分かるだろ? アレだよアレ! ――ア・レ!」
どうしてこの一族はそれを多用するのかとノーカが睥睨しながら真面目にその意味を問い掛けていると、銀色のモヒカンは次第に眼を泳がせ、
「あ、あれだよ…………その……」
「……一体何を言いたいんだ?」
「ふっ、夫婦の――ッ! あ゛あ゛あ゛だから男と女の裸の組体操の仕方だよ! そういう雰囲気っていうか持って行き方かッ?! 女がそういう話してるとき男がそれを聞いちゃダメなの!」
恥じらう筋骨隆々のモヒカン四十路――というほぼ同年代の男を見ながら、ノーカはようやく比喩代名表現をどうにか紐解いて、
「……ああ。セックスの事か。……いや、……そういう話をしているのか?」
「だからお前は?!」
家の外から見える二階の窓に目を向けたノーカの顔を、バンは両手で挟んで強引に振り向かせ、その視界と意識を暑苦しい男の濃い顔で占領した。
至近距離の画面一杯のそれに、ようやくノーカもバンの意向を理解し、
「……なるほど。そういう配慮か」
「……おう、そうだよ……」
バンは殊勝にも、女三人がするであろう秘密の会話に気を遣っていた。
女が男の居ない場所で非常に野蛮且つ下品な生態になるということ、それを見た後気まずくなるであろうことをだ。
だがそれだけではない。……女がそれを知られるのを厭うから。そしてそれ以上に、自分の妻の口から色っぽい単語や表現が飛び出るところを他の男には見せたくないのである。
そんな、見た目ヤンキー全盛期に反し、紳士かつ貞淑で機微に敏い男であるそれに、ノーカは一つ疑問に思う。
「……そんな気を遣えるのに、普段は嫁と娘に雑なのは何故だ?」
「……おまえ、一体誰から何を聞いた?」
「おまえの娘本人から。風呂上りに家の中を全裸歩行するとかトイレのドアをちゃんと閉めないとか、娘の前で母親のスカート捲りをする、などと聞いたが」
「あいつ他人様になにを話してんやがんだ……!?」
その姿を見て、将来は絶対恥を忘れない大人になりたい――という決意を表明していたことまで話した方がいいのだろうか?
と、ノーカはそこで口を噤んだ。
立つ瀬のない父親の精神状態を鑑み、そしてただ一言、
「……自業自得だな」
小石を投げつけて来たバンを無視して、ノーカは、果たして本当に女達はそんなことを話しているのかと静かに物思いにふけった。
ブラジャーとショーツ、上下が揃ってなくてもいい――
楽もしよう、雑でいい、と。服を選ぶ上でテキトーさが何よりも優先されるときがあるとセツコは生真面目なアンジェに教えていたつもりだった。
しかしそれが、夫婦の
あれ? 今そんな固い話してたかなと、
「えっと……ど、どういうことかしら?」
セツコが食い違いがないようにと訊ねたそれで、自身の意図が伝わらなかったことを察したアンジェはそこに注釈を加えるため、偽装結婚の秘密に抵触しないよう自らの内面をもう少しと開示する。
「セツコ様の言動を統合すると、夫婦とは特別でなくともよい――しかし、平素で平常で日常でありながら、夫婦はそこに特別なものを感じる……このような下着一つですら。……ですが私はまだそれを感じたことがなく、これを未知なる領域だと感じておりました」
「えっ、ええっと……?」
セツコはやはり固いそれをなんとかゆるい女子会風に翻訳し舵を修正しようと試みる。要約するなら――
下着に、私はまだ、それを感じたことがない。
意訳し、セツコはその官能的文学表現にハッとした。連想した事柄は、性癖の不一致。あるある、よくある。だが待て。
「……一目惚れで結婚したのに?」
まあ、するまでしたことが無かったら婚後にそれが発覚することはままある。
一目惚れからの即日結婚ならなおさらその可能性は否めない。……一体どんな趣味だったのかしら、と。
しかし、それをまだ感じたことが無い――未知なる領域。
……飛躍し、まさかの
一目惚れした男と女が? 猛々しい妄想と共にセツコは秒的速さで盛り上がりつつ困惑し当惑した。同時に冷静な部分もあり表情筋がひどく混線するが、
「もうお母さんったら、一目惚れ! 一目惚れだよ?! 結婚する前から特別だったってことでしょう? ――ねえっ?!」
レナは頷けと言わんばかりにアンジェに向け首を縦に振り、アンジェは瞳に疑問符を張りつけ首を傾げたのち、レナのそれを模倣するよう縦に一度首を振った。
その妙に焦りと娘の熱弁に――ものすごく不自然なものを感じながらも。
セツコは、娘の言いたいことを理解した。
「――なるほど、そういうことね?」
要するに、目の前の若き新妻は一目惚れの幸せの絶頂がMAX状態で即夫婦になった為、それが平時として固定され味覚がマヒしているのだと。
セツコは自覚無く惚気られたのだと解釈した、それも嫌味や自慢で言ったわけではなく、本当にその意識が無いのだろうと。先程の彼女の言動を正しく意訳するなら『こんなに幸せでいいのでしょうか?』という意味で、娘との応答は『分り辛くて申し訳ない』の意なのだ。
……本当にそうか? と思わないでもないが。
「……じゃあ、特別可愛がってほしいとか構って欲しいとか……もっと愛を燃え上がらせたいとか、そういう気持ちはもう十分なのね?」
「ある! あるある! あるでしょうそういう気持ちは――」
「――いいえ。私はご迷惑をおかけしている立場です。これ以上お世話になるわけには往きません。……しかしそれだけに、夫からそういう求めがあるのであれば、やはりなんでも応じるべきだと判断するのですが……そういったことを要求されることも無く……」
余計な事を言わせまいとしたレナのフォローもむなしく、馬鹿正直に。
しかしセツコは、
「へ、へえー、ふぅ~ん? ……な、なんでも?」
「――はい。なんでもです」
また、エロを想起させるそこだけを拾い、Hなことをする気は十二分にあるのかとセツコは判断した。しかも、夫から、求めがあれば、なんでも応じる――とは。
愛の奴隷、夜の蹂躙劇……ふぅ……それはどんな過激で過酷な内容でもだろうか? ハードでコアなプレイ内容、朝起き上がれず裸でベッドに放り出されているあられもない新妻の姿が目の前の下着姿の向こうに構築されてしまうではないか。それはもう、頭の中をすさまじい擬音語と擬態語が所狭しと埋め尽くすほどだ。
「……やはり、何か特別なこと
通常プレイは済――新妻のその発言に更に妄想が加速し――かけて冷静になった。
アンジェが自分の意見を取り入れ学習しようとしているのは分かるのだが――それがそのまま夫婦の営みに採用される可能性がある、と。
仮に彼女の噂(SM)に合わせて常軌を逸した推奨をし、それが行われたなら、自分と夫がそういうプレイに励んでいると他人の夫に見られるんじゃないだろうか?
セツコの背中を、冷や汗が流れた。ここはそれ方面ではなく、やはり穏便な日常の触れ合いを提案しよう。かといえ、まるっきり刺激の無いそれでは新婚の熱い時期には盛り上がりには欠けるだろうと、やや糖度高めのそれをと彼女は思い、
「……いいえ。そうねぇ、そういうことならやっぱり毎日――」
「――セックスでしょ? イタァッ!?」
レナは鈍い音に両手で頭を押さえた、セツコが娘の頭が良くなるよう思い切り行った拳の直下型フルスイングが脳天に直撃していた。
暴力的だが、アンジェはそれを仲の良い親子のコミュニケーションの一例として確認しつつ、レナの発言から、
「……やはり、毎日のそれが重要なのでしょうか?」
「――いいえ?! 毎日じゃなくていいのよ!? 体が絶対持たないから多くても精々一日置きくらい――してないんだからね!? ……ごめんなさい、普通でいいのよ普通で」
若かりし日のツンデレが顔を出したセツコの急激に疲れと平常心がぶり返した回答にアンジェは、
「ですが、この辺りの皆さまと顔を合わせた時は何かとその話題を持ち出し、気にされていらっしゃいますので――相応に重要な事柄なのではありませんか?」
「うっ、そ……それはこの辺りの土地柄、いえ、田舎の所為というか、うう~ん……」
都会か田舎ではその隠し方というより開けっ広げ方が違うというか、もはや全宇宙古今東西どこでもそれは人類の脳が性欲を排除することを諦めたからだと極論を言ってしまいそうなのでスルーすることにする。
が、しかし、この田舎の下世話がこの新妻の育成には極めて悪い環境であることもセツコは理解している。
もちろん娘の教育にもで――こっちは既に手遅れなのだが。……とりあえず、何を薦めるべきかと。
最初は『おはよう』から『お休みなさい』、『いってらっしゃい』から『ただいま』まで“キスで会話する”辺りから奨めるつもりだったのだが……これが自分達の営みとして筒抜けになってしまうのは抵抗がある。
新婚当初二人きりの時代はもう、舌の根の乾かぬを誤用で地で行く理性の無さで、いや、今も長距離運転で家を空けがちな夫が返ってくるたび義父母と娘の目を盗んで夜に健全マッサージしている途中から猛烈に不健全な――いやもう止そう。
……あれ? ひょっとして私、ノーマルを知らない?
いやいやいやそんなことは無い筈と内心猛烈な汗を掻きながらセツコは良識ぶり、
「……とりあえず、そこはやっぱり自分たちのペースで、ね? それでもし何か不安なことが出来たらまた相談しに来ていいから。……私はこの辺りでは口の固い方だから」
絶対信用してはいけないセリフだが、アンジェは納得し無言で頷いた。
確かに、言動において目の前の人物は他の住民より遥かに卑猥な単語や言語の使用率が低く、その方面の嗜みがあると。
頷いてはならない言い分に、
「かしこまりました。では、これまでの話を踏まえて、私共のペースで、私たちなりの夫婦としての自然な在り方を模索してみます」
「えー? Hの話は~?」
復活した娘に、母は今度は下から上に振り抜く拳骨をその顎に食らわせた。
天井を破り、空に吹き飛んだ。
それを見てアンジェはやはり、その真っ白な翼と共にフワフワと首を傾げ、
「……これも家族のコミュニケーションなのですか?」
「ウフフ、アンジェさんって本当に真面目ね?」
……遠く、自宅付近から空へと昇り、そして落ちて行く小さな人型を眺めて。
家の庭での暇つぶしに飽き、近くに広がる森の中を散策、森林浴しながら、また娘がバカなことをやったなとバンは理解しつつ、それが一体誰に似て自分かと分かり切った答えを反芻した後、
「……そういやお前、したことあんの?」
「……」
ノーカが獣の形跡、足跡や糞などから通った時間を読んでいるそこに――声を掛けれたそれを、ノーカは平然と無視した。
バンもそれを確認もせず、同じく周囲に注意を向け探索しながら再度、
「……おまえあれか? 付き合うと結婚が
「……知らん。そんなもの、面倒臭くなければそれでいい」
面倒臭く絡んで来る、それをそれなりに長年の付き合いからぞんざいに応答し、
「あー、……お前嫌われるぞ? 男の女のアレは大概面倒臭い手順とか事前準備とかムード作りとかそれ以前に愛を満たせとか色々あるんだからな? それ省いたら大概嫌われるぞ?」
ノーカはまた極めて面倒臭げに一瞥し、不愛想に、
「それぐらい知っている」
「へえー、誰に教わったんだよ?」
「……」
事も無さげに言われたそれにバンは確かなものを感じ、しつこく絡んで来る。
応答を打ち切ろうとしたはずが、余計に面倒臭くなったとノーカは思う。
男は女より面倒臭い時がある、それをノーカはただ実感していた。
そしてその最中、
「俺はプロのおねーちゃんとだったぞ~」
「……」
「おまえはどこの誰といつしたんだ~。お~い……」
「……」
「おーい。……おいコラ、答えろよおいこら」
「……」
「やっぱ童貞か? 童貞なのか?」
「……」
「……おい」
瞬き一つせず、しかし耳を広げ、微動だにせず直立姿勢のまま森の奥、前を見続けるノーカに、
「寝てやがんのかよ!? 退屈か? 退屈だったのか!?」
「……」
「テメエおいコラぁ?! 暴露損じゃねえか!?」
「――うるさい」
「あぁあ? おいテメエも童貞何時喪失したのか明らかにしねえと――!」
「来るぞ」
「は? ……お、ぉおお、――おおお!?」
森の奥深く、クマとゾウとトカゲを足したような巨大現住生物に、くだらない話をしながら遭遇していた。
その後、ノーカが携帯していた
土に草の汚れだらけで帰って来た男達に、女達があきれ顔をした。
やんちゃ坊主がよそ見しながら追い掛けっこでもして、田舎のあぜ道で転んで来たのかというような有り様。
「……いったい何の話をしてたの?」
女を代表してセツコが尋ね、男二人は顔を見合わせた。そして以心伝心、男を代表してバンがセツコに逆に、
「――じゃあお前らは何話していたんだ?」
「「「……」」」
下らない話だ。という、男女一致の意見を叩き出したという。
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