第13話 新しい朝が来た日のこと。

『……なるほど、確かに、遥かに出来が良かったのですね……』

『……』

 それは、昨夜の出来事。

 ノーカが作った料理を口にし、しばらくして呑み込んだ、アンジェの一言である。

 そしてこれが何に対する何との比較と評価なのかは分る。

 ノーカが、他人の口に入る以上とりあえず腹を壊さないように、と、バッサバサになるまで焼いた野鳥の肉、咀嚼すればするほど咥内の水分を吸い尽くしていくそれは、もう、味はする、というそれ以外何も与えないものだった。

 それなりに気を使い苦心したのだが、お世辞にも誰もが絶賛する料理ではないことはノーカ自身が一番理解していた。

 ……していたのだがそれはそれ。“まずくない料理”は決して人を喜ばせるものではないことに、ノーカはそこで初めて気付いた。自分のこれまでの食事、死なないことが前提の喰えるだけのそれではいけないのだと。

 それを黙々と口に運ぶアンジェに、彼女との夫婦生活を鑑み、ノーカは初めて罪悪感という物を覚えた気がした。

 そこで改めて、自身の料理を人並みのそれに向上させる試みをノーカは誓ったのだ。


 その今、新たな誓いを立てた朝――

「おはようごさいます」

「…………ああ。……これは?」

 ノーカが朝の一仕事を終えキッチンに直結した裏の勝手口から中に入ると、そこには朝食の支度を終えたアンジェがいた。

 当然、食卓には料理が並んでいる。

 農業の始業時間は早い、未明という時間帯での起床を基本として朝市に出す作物を日の出前までに収穫し、市場への搬入を済ませなければならない。昨夜はその旨をアンジェに大まかに話し、だから朝食はあるもので先に食べていいと言ったのだが。

「申し訳ありません、さっそく本を読んで、作らせて頂きました。……お仕事でお忙しいようでしたので」

 そんな約束、打ち合わせはしていなかった筈だがと。ノーカはそろりそろり勝手口から台所内へ警戒するよう移動し、そしてテーブルの前に棒立ちする。

 これは、どういうことか。そこには――とてもいい匂いがする。

 朝食が、キラキラと朝日で輝くよう白い皿の上に鎮座している。

「……食料庫にあるものを勝手ながら使わせて頂きましたが……何か、問題がありましたか?」

「……いや――いや、感謝している。……ありがとう」

 昨夜のリベンジを誓ってせこせこと彼女が起きる前に朝食を作りその前に並べ立てようとしていたわけではない。いきなり食わせず……そこはじっくり借りて来た料理本を読み込んで試作から始めようと思っていた。

 だがその所為で彼女の先行を許してしまった。いや、苦労を掛けたというべきか。……ひょっとして昨晩の自分の料理が彼女にそんなに朝の善意(まともな食事)を催させるほどの、不味い、衝撃を与えてしまったのかと。ノーカは微かな罪悪感を感じつつ――

 眼が、その食卓に引き寄せられる。

 メニューは、飴色の綺麗な焦げ《キャラメリゼ》が絡まったこんがりベーコン、同じくカリッと仕上がった揚げ焼きの目玉焼き、緑も新しいままシャキッと火の通った葉野菜、そして鮮やかに切り分けた果物の盛り合わせだ。主食のパンは今から焼くのだろう、古びたトースターに二人分乗せられている。

 なんとも、温かな朝食である。

 それを前にして。

 ノーカは立ったまま少し思い悩んだ。何せ、既にそれには少々遅い時間で。

 既に午前九時過ぎというのに、そこまで自分を待っていたのかと。待っていたのだろうそれを、待たせたか? と聞くわけにもいかず、葛藤の中、ただその手間と苦労は察し、

「……大変、だったか?」

「いいえ。お世話になるのですから、せめてこれくらいはさせてください。……お仕事の方にはまだ同行することが許されておりませんので」

「……そうか、そこもまだ詳しく話し合っていなかったな……」

 昨晩は端的に今日の予定を話したものの、今後の今後の予定までは詳しく決めていなかった。一昨日から色々あり過ぎて、昨日は夕食の後すぐ寝てしまった。

 どうして話をしておかなかったのか。そうでなくともアンジェもこの共同生活になにか思うところがあったのかもしれないとノーカは思う。

 特に、アンジェのここでの生活、その自立の擁立までの手段。

 ――すなわち収入、仕事――それを偽装夫であるノーカの仕事を手伝わせて得るのか。それとも、彼女なりの仕事をここで彼女自身が構築するのか。そんな彼女の生活上、最も大切な打ち合わせだ。

 口ぶりからして彼女にも面倒を掛けているという自覚はある、それなのに夫婦生活をするというそれ以外何も決まっていない、そこが不安でつい行動に出たのかと想像した。

 そして、その一抹の罪悪感から、

「…………それなら、一先ず昼過ぎからの畑の見回りと、手入れを手伝って貰おうと思うんだが……構わないか?」

「――はい。ご迷惑でなければ、よろしくお願い致します」

「……」

「……どうかなさいましたか?」

 殊勝過ぎて仰々しいまでの恭しさに、ノーカは非常に居心地の悪いものを感じた。

 本当にこんな、礼儀正しい女を自分が面倒をみれるのかと。いや、むしろ既にみられている側ではないかと。

 だが、このままいつまでも黙っていられず、

「……いや、なんでもない。……食べようか? 冷めないうちに」

 勝手口脇の洗面台で手を洗い、掛けてあるタオルで拭ってテーブルの席に着く。

 改めて、食卓を見る。

 いい匂いがしている。

 思わずその香ばしくも胃が呻る香りをスンスンと嗅いだ。自分の台所の食卓で、今までこれほどまでにまともな精彩溢れる食事を盛付けられたことがあっただろうか? 十年一度たりともなかった。ノーカは、アンジェの厚意に、自身の日常が侵食される違和感を微かに感じながらも感謝し、厚遇に戸惑う犬のようただじっとその皿の上を見る。

 と、――チン! と見計らったよう焼けたパンをトースターが吐き出した。さあ、食事の準備は整った、と言わんばかりのそれを、アンジェが丁寧にそれぞれの皿に素手で全く熱がらず置き若干ノーカの目を丸くさせるが。

 ノーカは再度腰を落ち着け、そこで改めてアンジェは彼を直視し、そして停止した。

 五秒ほど時も停止し。

 そして、ノーカはこの偽装夫婦に於ける己の役割を一つ理解した。


「……。じゃあ、頂きます」

「はい。……この場合、召し上がれ? と言うべきなのでしょうか?」

「……ああ。……多分それで間違いないと思う」

「では――召し上がれ」

 しかし、それは全くの無表情で。一体何を見ているのか全く分からない真っ直ぐな瞳で。

 逆に食べていいのかと疑問を覚えるそれなのだが。

 コップに注がれているただの水を、ノーカはただ静かに飲み干した。

 そして、普段ならクラゲ食堂で済ませていた朝食を、自宅で他人に作って貰って食べるそれに、やや申し訳なさを感じつつフォークとナイフを手に持った。

 慎重に、こんがりと焼けたベーコンをフォークで刺しナイフで割る。

 ザリ、パキン、と、綺麗に崩れた綺麗な飴色と絡まり合う塩気を葺いたベーコン。

 口の中に入れ噛むと、カリ、カリッっと、奥歯の上で砕けた、香ばしさと肉のうま味が舌の上に、それから微かにピリッとした胡椒が塩と舌の奥に広がる。

 それを口の中に残したまま、トーストを齧る。サクッ、と。

「……」

「………………」

 次は、目玉焼き、これまた綺麗なキツネ色に縁が揚がったフライドエッグ、軽く瓶から塩を落し、それをフォークで支え、ナイフで切り、辛うじて半熟が残るグラデーションの黄身ごと一切れ、口の中に入れる。クリーミーで濃厚な黄身と、ぷりぷりとした白身、その縁がカリッと揚がりキツネ色が香ばしく、それぞれの食感と風味が際立ち、口の中に残るベーコンの塩気と旨味と微かに混じった。

 ノーカは何も着けずにトーストを齧った。サク! と。

「……」

「……………………」

 それを、過度に神秘的で無表情で透明感ある美貌が、テーブルを挟んだ先で何を求めるでもなく見つめている。

 次は青菜のソテー。言うまでも無く、丁度いい火の通り具合である。

 口に運ぶ、プチ、プチと、葉に挟まれ繊維が小気味良く切れる。さっばりとした塩味と、葉野菜特有のほどほどのほろ苦さ、その奥にあるほのかな甘味が、口の中をさっぱりとさせる。

 そこに、特に何か思うことは無い、いい意味でも、言うことは無い。

 だからノーカはそのままトーストを齧った。サク……サク……、と。

「……………………」

 サク……、サク、

「…………………………………………」

「……おい」

「はい」

「……眼を突き刺すのを止めてくれ」

「はい」

 言われてようやく、アンジェはノーカを凝視することを止め、目の前の料理を食べ始めた。

 言われた通りに、目でノーカに突き刺すのを止めた。

 しかし、まるで落ち込んでいるとでも言うが如く、視線を手元に落しながら、自身の皿の上をパクリ、パクリとゆっくり口に入れ始めた。

 何故だかそれは、ひどく陰鬱で、不味げに口の中で転がしているように見えた。

 ノーカは、その様子に酷く居心地の悪さを感じ、

「……、……これ、」

「――はい」

「初めて作ったんだよな?」

「はい。なにか口に合わないところが御座いましたか?」

「……いや。これからは任せたいくらいだ」

「そうですか。では、お任せいただけますか?」

「……それで構わないのか?」

「はい」

「……」

 もっと他に言葉があっただろうか? と、ノーカは思うが。

 正直、そんな大げさに『――美味い!』などと声を大きくして言うようなものではない。どんなに上手に作っても、ベーコンと目玉焼きにただの添え物の野菜である。何の変哲もない普通の料理がそんな大げさな味になるわけがない。

 しかし昨夜の彼女と同じよう、食べる前にその感謝を伝え、その後は……彼女以上何も言わずに食べたのだが。こういう状況下ではあえてそこを崩して大げさなお世辞を言うべきであったのだろうか?

 そういう文化があるということもノーカも知っていた。いたわり、ねぎらう、という意味でも、味は二の次であるということも知っていた。……知っていたのだが。

 アンジェの無為で真っ直ぐな瞳で見られると。本当に心にもないことを、それでも言ってしまっていいのかと疑問してしまう。……何故だか、彼女はそういうお世辞を好まないのではないかと、勝手ながらその眼に感じてしまったのだ。

 偽装の夫婦――そこまで気を遣う必要があるのか?

 悩む。たとえただの他人でも、これから共同生活を営む間柄。

 これまでの常識。一人での生活と、二人での生活。

 彼女と自分との間の距離感、敵、味方、それ以外のその他とも違うそれを――これでいいのか? と、ノーカはじっと悩み、真っ直ぐに彼女の事を見つめていた。「…………………………………………」

 食事の手を止め、疑問していたそれに、奇しくもアンジェも同じよう彼の事を見つめていた。そして、

「……どうかなさいましたか?」

「……………いや、なんでもない。……いや、少し遅いかも知れないが」

「はい」

「……うまいぞ、これ」

「…………はい、ありがとうございます」

 相変わらずの、無色透明の無表情っぷりだが。座ったままぺこりと頭を下げて、そのとき、彼女の背中の翼はそわそわ少しそよいだ気がした。

 ノーカは、それを確かに眼の中に収めながら。

 思う、今までの自分の在り様で、本当に大丈夫なのかと――

 かなりぼんやりとした、その漠然とした不安を感じていた。

 たとえ偽装でも、彼女の夫として相応しく……やっていけるのだろうかと。

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