第12話 夫婦で名前をどう呼ぶのかを決めたこと。

「……ノーカ様」

「なんだ」

「やはり夫婦はベッドを共にしたほうが良いのでしょうか?」

 一体何故それを話題に選んだ? 

 今後しばらく生活を共にする男に向かって、もしやそういうこともするかどうか訊いているのかと。いや、ただ予定がひと段落して直近の疑問でも振り返っているのだろうと。

 これも偽装夫の役目と割り切り、ノーカは応えることにする。

「……いや。別にそうと限ったわけじゃないだろうが、要は機会と効率の問題ではないのか?」

「それは、何の機会と効率ですか?」

「……傍にいる時間、というそれだと思うが」

「…………そうなのですか?」

 再確認され悩むが。

 普通の夫婦は、人生の同じ時間を過ごす為、好き合うなり愛し合うなりする為、その人間を傍に置いているはずだろう。

 しかし現実には、夫婦として生きる以外の時間も数多くあり、更には、傍に居ても意識が別の物に向かざるを得ず心が離れる場面とてあるという。それは同じ家族という生活単位の中でも夫と妻ではその役割が違うからだと、ノーカは基地の既婚者から聞いていた。やらなければならないこと、その差で、意識に差ができるらしい。そしてだからこそ、何をせずとも傍にいられる――一緒に寝る、という時間がその消化を助けるのだとも言っていた。

 その男は、そのただ一緒に寝る時間すら確保できない長期航海に携わる役職であったため、見事離婚の憂き目にあったが。

 一つのベッドの方がいい、というのは、

「……どうなんだろうな。……結婚など初めてだから、実際のところは俺にもよく分らん。二つのベッドの方がよくて、更には寝室も別の方がいいという話も聞いたことはある」

 就寝時間が全く同じではない場合など、相手の負担を気にすることもあれば自身がそれを煩わしく思うこともあるらしいと。

 夫婦で喧嘩をしたときや、そうでなくとも病気の時、感染を恐れてなどもある。常に寝床を同じするより、二つのベッドの方が融通が利くことは間違いない。

「……おそらく、そのどちらでもいいのだろうが……」

 愛情、思い遣りの元、寝る場所を一つにする、二つに分けるというそれは、俯瞰した視点では、時と場合による、としか言いようのないものではないのか。

 なら、自分達の、時と場合は? とその矢先、

「……それは、美しい時間、なのでしょうか……」

「……見ようによってはそうかもしれない。……そこまでして、愛する伴侶を求める、思い遣る、というのなら」

 十分、仲睦まじい、といえるのではないだろうかと。

 あるいは、夫婦という形としての記号と化している、その面もないではないとノーカは思う。実質としては形骸で、その中身、意味などは夫婦それぞれ違うのではなかろうかとも思う。

 するとアンジェは、

「……では、我々には必要ないのでしょうか?」

「――ああ。内面としてはな。だが表面上夫婦として過ごすのなら、何かしらの工夫が必要になるかもしれない……」

 偽装工作、というそれだが、表でボロを出さないために出来ることはした方がいいだろうと。しかし内実、アンジェや自身の内情や感情まで考慮すればそれほど必要は無いともノーカは思う。

 口裏合わせだけで十分だろうと。

 そこでアンジェは、その透明度の高い瞳で、

「……ノーカ様は、特に個として在る時間を必要としていらっしゃられるのですか?」

 なぜそのような質問になったのかとノーカは思うが、密室である車内、一先ず話に付き合わなければならず、

「……どうしてそう思った?」

「ノーカ様は、最初、私と共に在らねばならないことを、煩わしく思われているご様子でした。そして先程の言動からも、伴侶を必要としていらっしゃらない様子。

 ですが夫婦というコミュニティが彼我の時間や財産、価値観、幸福の一部共有を目的としていることは納得していらっしゃるご様子で、しかしそれを求めないということは――逆算した結果、貴方は個としての時間をお求めになられているのではないかと」

 ノーカは、彼女が目覚めた時からの自分の様子、内情や、ほんの小さな感情に至るまで、目の前のこの生物がつぶさに観察していたのだということ理解した。

 世間知らずさ、常識の無さに反して、文明、文化が内包する精神性に理解がある。知性に関しては現行の宇宙人類とひとまず同等であることを視野に入れる。

 しかしその事は一旦忘れ――敵対行動、無用の警戒心を持つことを禁じ、日常の会話を意識し。

 どうなのだろうか? 彼女の言ったことが正鵠を射ているのかどうか、ノーカ自身そんなところがあったかと鑑みるが、

「……いや、そういうわけではない」

 積極的に一人になりたいとか、生涯独身で居たいとか。

「では、どういうことなのでしょうか?」

 そこまで話す必要があるのかと思いつつ、これからの付き合いを勘定に入れ、出来るだけ円滑に行こうと、

「……そうだな……俺はそのどちらでもない。――個としての時間を強烈に求めている訳でも、それと引き換えに特別な伴侶、家族を求めているわけでもない。……わかるか? 取り分けどちらでもない、というわけだが」

結婚はそのときの必要性や必然性で語られることが多い事象だが、これまでノーカは誰かに傍に居て欲しいと願ったことや、これから先、それが必要と思ったことも一度も無かった。

 強いて云うなら、それを聞かれた時、自分はどうしたいのか? と考えることくらいはある、という程度だ。そしてそこから先、全く分からない、としか答えられないことまで含めて、“どう”とも、“こう”とも、言えないものだと思う。

 それは、考えていない、考えられない、といえばいいのか。

「……ノーカ様は、それでよろしいのですか?」

 また問われ、一体何を気にしているのかと思うが、

「……さあな……何分、今日ここに来るまで、結婚についてなにも考えたことが無かったからな……いいも悪いも分からん」

「では、今の生き方を幸せに感じておられますか? それとも不幸に思えますか?」

「それもどちらでもない。……特別幸せでも不幸でもない、平穏な毎日だ。どれが幸せで、どれが不幸せかなんて考えたことも無い……というより、考える価値があるのか? それは」

 幸か不幸かなど、考えるものではなく感じられればいいことで、その時間で他にすることがあるのではないのか、とノーカは思うのだが、

「…………それは……、分りません……」

 チラリと横目でその表情を確認するが、眉一つ動かさず、何も変わっていない。

 やはり、知性に対し経験が足りないのか、情操が育っていないというそれを感じる。これはもう“作られたモノ”で確定だろうかとノーカは想定し、頭の中、自宅に確保してある武器弾薬をチェックする。

 それがこの宇宙からの落下に堪えられるこの生き物に通じるのか、または、これを作った輩がこれを回収しに来たとき対応出来るのかどうか――つい血生臭い考えが脳内で展開される中、

「……ですがとりあえず、我々の間にセックスは必要ないのですね?」

 最初の質問は、やはりそういう意味だったのかと。

 もしかして、釘を刺されていたのか? と。

「…………ああ、そうだ……」

 とりあえず、どんな輩であろうと、この脳に多大な疲労を生むナマモノの親なり飼い主なりであるなら、とりあえず出会い頭に二、三発撃とうかと決めた。



 ノーカの決意が荒んだ溜息を響かせる車内、アンジェはまるでまったくの第三者であるかのよう、ただ静かにその息を見つめ、

「……これからどうなさいますか?」

「……そうだな……そろそろ食事か?」

 一瞬眉を顰めるアンジェに気付かず。

 宇宙標準時間で、既に午後二時――忙しさにかまけていたが、遅めの昼食にするかと。ノーカはいつもの食堂に、自家用宇宙船を向けた。



 通い慣れたクラゲ食堂。

 昼食の時間はとうに過ぎ、そうでなくとも混雑とは程遠い筈の店内だが、しかし何故だかテーブル席はすべて埋まり、反面、何故だか空白であるカウンター席、そこにノーカとアンジェは腰掛けていた。

 厨房真ん前、店の中心であるそこで、中途半端な時間の食事に軽いメニューを頼み、それが来て遅めの昼食を初めてすでに数分――

 その間、

「……おい、あいつ女連れ込んだってよ」

「それも全裸だぜ全裸……」

「いったい何の診察だと思うよ?」

「いやそりゃおめぇナニだろう?」

 エビ型と犬型の宇宙老人たちが、ストローでクラフトコーラをちゅーちゅーしつつ、これ見よがしにチラチラ見てくる。

 彼らの姿がここにあることは特段珍しいことではない。

 だが、普段は家事の合間にテレビ休憩をしているような近所の婦人マダムたちも来ていて、

「……あの子ったらそんな甲斐性あったのね?」

「……ケダモノよ獣! でも医者に担ぎ込むなんて――失敗したのかしら?」

「……ヤダ、誰かちゃんとした使い方教えて上げたら?」

 注文した適当なドリンクを片手に、やはりチラチラ二人の様子を窺っている。それもあからさまに声を潜めているように見せあえて聞こえる内緒話をしている。

 その神経の太さは三段腹では済まないだろう。

 更には、

「なにを仰ってるんですか!? そもそもあの方にそんなことするような甲斐性――ええっと男気? があるように見えるんですか?!」

「無いに決まってるでしょうねえ? あの朴念仁に」

 見覚えのある蝶の夫人と烏賊の独身女が、それに、ご近所に出回っていたノーカとアンジェの結婚話、その発信者である半機械の女医が、

「――それはそれとして、賭ける?」

「なにをですか?」

「ここから恋が――爛れた肉体関係から、本物の愛が育つかよ」

「イヤァアアッ♪」

 騒がしい。年齢も、職業も、種族も違うそれらが姦しく会話している。この食堂の看板娘歴三十周年も、何食わぬ顔をして注文が捌きながら、それが終わればのんびりカウンター席の空きに座って肩を叩く風を装い、耳を研ぎ澄ませている。

 主人の雄クラゲも、暇になった厨房内で椅子に座り新聞を眺め初めているが、その目はノーカとその偽装嫁をチラチラと窺っていた。

彼らが何の目的でここに集っていたのかは明白で、しかしノーカはそれに応対せず、愛車のラジオ放送程度くらいに思うことにする。

 構えば、余計騒がしくなる。自分に絡みつく機会をむざむざ与えようなどとはノーカは思えなかった。

「でもそれじゃあレナチャンは? そこんとこどうするよ……」

「どうするもこうするもあるめえよ……責任とりゃあええ」

「どうやって?」

「それはもちろん――、うーん……」

 悩むエビ型、犬型のそれに、あくまで意識の片隅に、情報源の発信先程度の認識で、耳を澄まし、うん、とノーカも脳内で呻る。多分レナが自身への好意に見せかけた、父親の子離れ練習を打ち明け、彼の評判を笑い話の生贄に捧げるかを。

「やはりここは重婚か愛人ですかねぇ?」

「――死ぬ?」

 蝶の主人が、どこの王族だか貴族だかの失言から、夫人に耳抓りを受け幸せ気に悶絶してる。

 ノーカは、注文した安っぽいホットドッグを食べる。

 目の前で、アンジェはアンパンと瓶牛乳のセットを黙々と口に運んでいた。

 好きなもの頼めと言ったが、彼女はメニューに載っている物がどういう物か分らず、ノーカから説明を聞きいてもまるで想像が着かないような顔をしていたので、ノーカが彼女の体格と今の時間を見ながら頼んだ。もう少し女性が好みそうなものを頼むべきだったかと思うが、アンジェに『普段食べるものを』といわれ、ローテーションで頼んでいる物の中から比較的まともなものとして選んだ。

 聞いていた店主のクラゲの心遣いか、丸いアンパンはトースターで炙られ焼きたての熱と香ばしさを周囲に漂わせているのが救いだ。


 食堂に入ってやや経つが。

 今もまた黙々と、モクモクと、彼女は無表情に食事している。

 それに並んでノーカも、モクモクと、こちらも無表情に食事をする。

 ただそれだけの――電撃的結婚をした夫婦として如何なものか――な雰囲気に、周囲が逆にハラハラ、やきもきしているのも知らずに。

 ノーカは、

「……うまいか?」

「? ……糖分、タンパク質、ミネラル分、特に問題ありません」

「……そうか。体調が悪くなるようならすぐに言ってくれ、また医者に連れて行く」

「はい。お心遣い、感謝いたします」

 その会話が始まった直後、シン、と店内が静まり返り、聞き耳を立てる気配が生じたが、ノーカは気にしなかった。

 周囲の表情が引き攣り、悩まし気に頭を抱えたり、天を仰いだり、テーブルを地味に力強くしかし音を立てず握り拳を縦に振り下ろしたり、様々だが。

 そして、

「……」

「……」

 二人がそのまま沈黙の食卓を繰り広げる姿を見て、蝶の若夫婦が絶句し、エビ型と犬型の老人は何やらボクシングのセコンドの体で無音の檄を飛ばし、イカ独女に機械な女医、看板娘(30th)とその夫は、何も言わずに時間に身を任せている。

 そこでノーカは目の前の透明な瞳を覗き込むが、特別な何かを写したようではなく、そのまま彼女の意思を尊重し、必要な時に喋ればいいと無言を貫いた。

 とりあえず、食事にはこだわらないタチなのかもしれないと、彼女の生態についてまた一つ心に留める。しかし黙って見れいれば――その透明感溢るる無表情も微かに色づいているようにみえる。

 多分、悪くはないのだろう、味覚に嬉しいものを得ている――その一ミリ以下の目の緩みを観察していると、

「ノーカ様」

 口に運んでいたホットドッグを、一口、呑み込んでから、

「なんだ」

「ノーカ様は、おいしい、のですか? それは」

「……ああ。……普通、か?」

「……普通、ですか?」

「……特別美味しいと感じている訳でも、不味いと感じているわけでもない……味がする? とでもいえばいいのか?」

 店主の目がピクリと向けられたことに気付いたが、ノーカは辛うじて無視した。

 捻くれてんじゃねーよ、という女医の呟きもやはり無視するが、目の前の有翼人種はそうではなく、

「……それは、楽しいのですか?」

「……いや?」

「では――嬉しいのですか?」

「――いいや?」

「では、……幸せ、ですか?」

 その深いのか浅いのか分らない追及に、

「……そうだな、問題なく物が食えるということは幸せな事だ。……まして、自分で作る面倒が省けて、遥かに出来の良いものが出て来るんだ、感謝しかない」

「……そうですか、そのような方なのですね」

 その瞬間、厨房のクラゲ人間がそこはかとなく遺憾な表情を浮かべ、さりとて満足げな吐息が漏らす。その妻もやんわり笑みを浮かべている。

 しかし、

「……」

「……」

 それきりまた、黙々と食事だけを勧める二人に遂にしびれを切らせた、若き蝶の夫人が

「――貴方たち! 結婚してんだから名前ぐらい呼び捨てにしなさいよ!」

 思わず素の口叫んだのか、それをその主人が背後からサッと手で塞ぎ着席させた。

 食いかけのアンパンを両手で支えたまま、それを見ていたアンジェは、既にホットドッグを食い終わり彼女と同じ瓶のミルクを含んでいるノーカに向き直ると、蝶の夫人が発言を鑑みたように、

「……そのほうがよろしいのですか?」

 ノーカは白髭を拭い一先ず牛乳瓶を置き、

「……それは人それぞれ、夫婦それぞれじゃないのか?」

「では、私達はどうすればよいと思われますか?」

「……好きにすればいいんじゃないのか? そもそもそこにいる連中も常々パートナーの呼び方が変わっているんだが」

 ノーカは意趣返しとばかりにそこにいる面々に話を振った。それに近所の住民たちは若干面を食らいながらも各々――何故だか姿勢を正し、誠実に、

「ああ――おまえとかアレだな」

「俺は俺、お前だな」

「私は貴方、私ね。二人きりの時は名前だけど」

「ダーリン、アーちゃん」

「ハニー、ミーちゃん」

 犬型の老宇宙人が自分の妻との関係をぞんざいに。

 クラゲ型夫妻はそれぞれこなれた愛称と、私生活を。

 そして蝶の若夫婦は現行での甘々具合を告げ、

「あたしはずっとあたし・・・・一人だよ」

 年季入った独身女医はそう言い、

「そういうのを独女、イカレタ糞女、意識高い系のバカっていうんだよ」

「クソジジイ、マジ殺す」

 蔑称でなじったエビをイカがタコ殴りで終わらせようとし始めた。本気で結婚できなかった独身男と、趣味で結婚しない独身女の、似ているが決定的違いを持つ、が悲しい結末は、打撃が一方的に激しさを増していった。

 周囲は、それをしばらく眺めてから、ヤレヤレとゆっくり止めに入った。

 それを静かに眺めた後、

「……参考になったか?」

「……では、分り易く、固有名のノーカでお呼びしてよろしいでしょうか?」

「ああ、それで構わない」

「では、私のことはどうお呼びになられますか?」

「……なら、アンジェでいいか?」

「はい。では、これからはお互いそれで」

 普通、もっとこそばゆいもんじゃなかったっけ? 愛故に名前の呼び方を変え合う時って。

 漠然とした不安を感じる者も居たが、生真面目に話し合う二人に、暇なご近所さんたちは、これはこれでお似合いなのではないかと見守っていた。



 惑星の空が青からオレンジに半ば交わり始めた頃、二人は家に戻った。

 抉れて捲れた菜園、飛び散った土に石に作物の欠片を眼下に――玄関前、大きなのっぽの庭木の脇、荷台が一杯になった自家用宇宙船を庭に着陸させる。

 運転席から出たノーカは、密度の高い一日だったと自負しつつ、荷台の脇、その隅にある防護バリアのスイッチを解除し、

「荷を運ぶから、アンジェは先に自分の部屋へ行って家具の配置を決めていてくれ」

「――部屋、ですか?」

「ああ。二階に上がって奥の方、家の裏側だ」

「分りました」

 助手席を降りた偽装新妻が指示を了解すると、ノーカはリモコンで家の鍵を開け、中に入るアンジェに見向きもせず車の荷台――積んだ荷物で最も大きな鏡台を一人両腕で抱え中まで運び入れる。

 玄関を跨ぎ、床の上で一度下ろし、一息吐く。

 腰を入れ改めて重心を合わせて持ち上げ、玄関から真っ直ぐ奥へ、廊下を壁に突き当たって横にある階段へ。その段を折り返すよう二階に上がっていく。

 息は荒れていない、新妻の手助けを求めず一人で階段を上がり切ると二階、今度は平面の廊下をまたもう一度折り返し、奥へ、ドアが開いているアンジェが既に入っているであろう部屋の中へ――

 二十畳ほど、殺風景な木の床が一面に広がっている。想定では夫婦の寝室として設計されたが、物置小屋にすらならなかった部屋だ。

 そこ――その先で。アンジェは、入口から正面にある四角い窓から、また透明な表情をして、窓から見える外の世界を一様に眺めていた。

 ノーカがそこに入っても、微動だにしないそれを見て、

「……何をしているんだ」

「……景色を見ています」

 一先ず適当な場所に鏡台を置き、力んでいた背筋を伸ばし、ノーカはアンジェの元へ行く。


 そしてその隣から、窓から外――前のめりに景色を覗き込む。

 そこにあるのは緑一面の青く、若々しい草原だ。否、草原というには背丈が低い、芝生が養生している。放置すると背丈の高い草むら――獣の棲み家、隠れ蓑になってしまう為あえて芝生にして整備している。

 閑散とも、雄大とも取れるだろう、ノーカが切り開いた土地だった。

 住宅地になるはずだったそれがド田舎過ぎて不人気故、予定の立たないただの土地になり、ノーカが役場に頼まれタダ同然で買い取り管理の為に施した処置だ。

 地平線、山と森の手前までそれを邪魔するものは無く、緑一色の稜線が伸びている。その上に同じく広がる大きな空と合わせて見れば、限りなく広がる世界だ。

 無駄に広大とも言える。

 ノーカと共に見つめ、それからややあって視線を室内に戻し、アンジェは次はと部屋の左手にある窓辺へと向かう。

 そしてその窓から、また外の景色を見て、今度は指で指すように目で、

「……あちらは……」

「ああ、野菜畑だ」

 視界の下には、四角く耕された剥き出しの土――揃えられたうねに、多種様々な葉脈が映えている。それは青い葉だけではなく、赤い実、黄色い実、紫の実、土から盛り上がった根茎に、畑が何枚も何枚もある。

 畑としての規模は小さいのだが、

 緑一面の芝生とは違い、立体的でカラフルな色彩が点在していた。

 それを聞いたアンジェは、

「何を育てているのですか?」

「……市場向けに改良された品種を、原種に戻したものだ、いや、戻そうとしている所か」

「? どうしてそのようなことを?」

 ようやく、家具の配置はどうしたのかと文句を思い浮かべるノーカだが、想定される彼女の肩書を念頭に、根気強く、近所の子供の好奇心に付き合うような物だと思い、

「……普通の野菜に飽きたという客向けだ。……今都会で野菜といえば工場生産の立体プリントが主流らしいが、味が単調で面白みがないらしい」

「……わざわざ進化させたものを、退行させた方がよいと? ……それは貴方も望んだことなのですか?」

「いいや。ただ頼まれただけ――いや、出来るかどうかと聞かれたからかだな……。仕事として必要とされたからか? ……本当に仕事になるかどうかはまだ分らんのだが……」

 個人的に付き合いのある取引先、顧客からの要望で、試験できる土地と機材があるのでやっている。

 需要としては少ないそれを、売れる商品になるまで、売り物にならない試作品を作り続けることになる挙句、いざそれが出来た時、需要が終わっていたらまるまる赤字になる。金にならない、まさに趣味的な仕事だ。

 その言い分にアンジェは、どこか不可解気にノーカの顔を見つめ、

「――無為なのですか?」

「……難しい言葉は知らん。……だがこれがこれからどうなるのかは、そのうち分かる」

 云い終ってから、何の為でもない、という意味だったかと、ノーカは乏しい語感への理解に顧みる。

 実験畑を見て、これは――損、というほどの損にはならない、自身の農業への知識的にも技術的にも還元される、いうなれば有意義な遊び、というところである。

 誰かの為であり、自分の為でもあるのだが、それを決めたその時、やろうと思ったのは何故だったか? 

 確か、出来なくはない、の一言だったはずだがとノーカは思い出す。

 それが何故なのかといえば。

 そのとき、特別な価値は無かった筈、と。

 しかし、それに別の誰かが価値を見出すことはあるとノーカは思う。

それが商売だ。自分がどのようなつもりかなど関係ない、ただ他人がそれを評価する――それをノーカはこの十年、農業をして学んだ。

 だが比較的、人の為に知恵を絞り、努力を割いたそれが当たり・・・になることが多い、これは歴然とした事実として知っていた。他人に喜ばれる数も、この方が断然多いと。

 しかし今は――

「……とりあえず、さっさとこれを置く場所を決めてくれないか?」

 そんな人生哲学的なことをしている時間ではないと、ノーカはため息交じりに鏡台を二度ノックした。アンジェは鏡台と、ノーカの顔をじっと見つめて、再度鏡台に突き刺すと、

「……」

「……どこがいいのか分らんのか?」

「……そうかもしれません」

「……じゃあ、とりあえず適当に置くぞ。後で動かしたくなったら教えてくれ、自分で出来るなら自由にするといい」

「分かりました」

 それからノーカは、とりあえず入口から右側の壁、窓に重ならないよう置いた。そして残りの家財道具を取りに行こうと部屋を出る。

 その間際、中へと目だけで振り返ると、アンジェはまだそこで静かに窓を見つめており、そこに在る緑の景色を眺めていた。

 一体何を気に入ったのか、何が琴線に触れたのか、ノーカも気になるところではあるが。その理由は問わず、無言でノーカは女の荷物を次々と部屋へ運び込む。

 小さな小物、服や化粧品の軽いモノくらい自分で運べばいいという考えには至らず、ただ黙々と仮初の妻の世話を焼いた。

 


 荷物を運び終えたノーカは、急ぎ留守番を頼まれた巨人種の畑のみ見回りをした。

 自分の仕事は疎かにしても、他人のそれを手抜きにするほど腑抜けては居なかった。

 だが、今日の畑の様子を報告が遅れた理由までを添えて送信した際、巨人族夫婦のタロウさんが、孫娘を放って即帰投しようとしたのでそれは止めるよう説得した。

 後でちゃんと妻共々挨拶にしに行くということで納得して貰った。

 ……終わったころには周囲はとっぷり夜闇に覆われていた。

 家に戻ると勝手の分からないであろうアンジェの為もありすぐ夕食の支度に取り掛かり、それが終わってから急ぎ彼女を食卓へ呼びに行く。

 今思えば、荷物を運び込みながらそれらのことを通達し、彼女一人で料理が出来るか確認しておけばよかったかと思うのだが、後の祭りで、

 二階の部屋、これまで空き部屋だったそのドアをノックするつもりが、ノーカが部屋を出た時と同じ位置で開けられたままだった。

 それを訝し気に思い、ノーカはそっと近づきノックをせずに中を覗き込んだ。


 ――アンジェは、部屋の明かりもつけず、そのまま立ち尽くしていた。

 何をしているのか、それをノーカが目で確かめれば、窓の外、星灯りと暗闇だけが映り込むそれを彼女は眺めている様子だった。

 否、ただ、そこに立ち尽くしているのか。

 今までずっと、何も考えずそうしていた――そんな気配がノーカの両眼に流れ込んで来るのを感じた。

 彼女は一体どういう生き物なのかと再度ノーカは思う。

 それは命の宿っていない彫像のように見えた。室内、夜の闇の中、ぼんやりと、星灯りでも吸っているかのよう、真っ白な翼だけが彼女を照らすようなそれは、まるで生気が感じられず、まるで、彼女の形をした影が、そこに彼女という像だけを結んで置き去りにしているようだった。

 その姿に一瞬気圧けおされるも、次第に、立ったまま寝ているのかというくらい、見事な棒立ちにも見えて、

「……おい」

 アンジェは、はたとノーカに振り向いた。まるで今意識が繋がったのか、別の所に飛んでいたように。

 そしてその無表情を浮かべて、

「――はい。どうかなさいましたか?」

「……夕食だが、食べるか?」

「……申し訳ありません、気付きませんでした。――作って頂いたのですね?」

「ああ、そうだが……はっきり言うが、食堂の方がはるかにマシだぞ? 本当に食えるというだけだ」

「畏まりました。ですが作って頂いたものです、頂かせてください」

「なら、下に降りようか、食事はそこで取る」

 家訓にもならない習わしを告げ、ノーカは彼女を先導し、先に階下に降りる。

 そのノーカの背に従い、付き添うようアンジェも階下に降り通されたキッチン、その中央寄りに置かれた、角を面取りした長四角のテーブル、その上に並べられた温かな料理――

 狩って冷凍していた野鳥の丸焼きと一緒に焼いた畑の根菜、それに茹でた葉物野菜。全て塩、コショウ、油で薄味を付けられているだけの、後は好みで既製品の調味料や香辛料を掛けるそれに、買い置きのパンとインスタントのスープ。

 アンジェを歓迎をしようと気を遣ったわけではない、が、他人も食べるのだからと忙しい中出来る限り量と、色彩をどうにか揃えた食卓。

 気を遣えないなりに、他家の食卓、他人に振る舞うそれを真似た。

 それをアンジェはどう見たのか、しかし表情を動かさず、薦められた席に着き、

「……じゃあ、食べるか」

「はい。それでは、いただきます……」

 テーブル上、静かに夕食は始まった。

 目の前にいる相手を気遣い、笑うこともなければ会話をすることも無い。

 淡々と食器だけが片言のよう音を立てていく。

 それが、世にも珍妙なこの夫婦の、最初の夜だった。

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