第11話 夫婦に必要な物と、ご近所への挨拶。

  偽装結婚(不法行為)、その第一関門である法的手続きをどうにか突破したノーカたちは、愛車の宇宙船で無重力空間をひた走る。

 奇しくも同じ無表情系の二人は、助手席と運転席とが繋がるベンチシートで並び、その表情筋をピクリとも動かさずに、

「……これからどうするのですか?」

「服を買う」

 端的に、簡潔かつ率直に言われ、アンジェもようやく自身が着ている卑猥な服の意味を自覚したように、しかしやはり表情を動かさず、

「……これはやはり通常であれば使用しないものなのですか?」

「……ああ。――極めて特殊な事例においてのみ使用される、男女の仲を深め合う為の服だ」

「……では、今の私たちには打って付けの服なのでは?」

「……」

 ラジオでもつけるか、そう思い、ノーカはいつものフロントパネルの機器をいじりチャンネルを開く。

 曲が流れる中、思案する、一体どうすればいいのか、ただでさえ知識に不備がある女性にこの手の知識を与えていいのだろうかと。そしてノーカ自身、その手の専門的知識についてもこれまでの経験上での常識以外知らないので不可能だと断じ、

「……それを説明するには俺自身それに対する正しい理解が足りない。だから悪いがこれ以上は説明できない」

「そうなのですか?」

「ああそうだ。……とりあえず、服の他にもこれから君という女性の生活に必要であろう物を買い揃えていくがそこで同じ様俺には説明できないことがあるだろう……それについてはその場に居る他の人間に聞いてくれ」

「かしこまりました。ご迷惑をお掛けします」

「気にするな。必要な事だ……」

 言い終わって、もっと他に何か言葉を掛けるべきか、会話を続けるべきかと鑑みる中、はたしてそんな気を遣う必要があるのかとノーカは思う。

普通の関係ならどう話すのか。偽装とはいえこれから結婚生活を営むのだ、夫婦らしく振る舞う必要はあるだろう。夫と妻、男と女、家族、それをこれから演じなければいけない。

 と思うと……一体何をすればいいのかと。

 不安もクソも無く無計画ノープランであることにノーカは気付く。夫婦の何たるかなんて、そんなもの結婚する気など無かったのだから仕方がない。が、今後気を払わなければならないだろうと思う。

 目下の目的はまともな服だが、そういえば新婚生活に他に何が必要なのか全く分からない。女性に必要な物をと彼女には言ったがそれは夫婦生活に必要な物と同様なのだろうか? 

 これもこれから訪れる先で彼女に言ったよう人に聞いた方がいいかも知れないとノーカは一人判断した。しかし当座の生活の事を考え、

「……とりあえずベッド、寝具……その辺も揃えに行くか」

「? それは、私には必要のないものですが」

 それとまず常識か、いや、互いへの理解かとノーカは思う中、また無表情にアクセルペダルを踏み目的の惑星へとハンドルを切った。



 ――ノーカたちが棲む同恒星系、第五の惑星――

 この惑星は地表のおよそ七割を森林で占めていた。

 宇宙から遠目に見て緑の毬藻マリモのよう、地表に降り立てば、所狭しと広がる木々の壁と草原の絨毯であちこち埋め尽くされている。

 そこに住む若夫婦が営む洋服屋に、ノーカはアンジェを伴いやってきた。

 巨木を加工し、折り重なった根やうろをそのまま構造材に、棚や階段を作り付けしている店で、木を木のまま家に仕立て上げた規則性のない間取りだ。

 もっとも、それは生えている樹木それそのままツリーハウスにしているわけでなく、ナノマシンでその繊維を強化し、耐火性や吸湿性、応力限界までも引き上げている。そのお陰で、自然が齎す芸術的歪みを損なわずに済むというらしい。

 店舗の中が、更に趣味の調度品や美術品で飾り、その合間に服とアクセサリーの類が品物として置かれていた。

 店に入りその商品を眺め出してすぐに、この店の主人がやって来る。

「いらっしゃいませ~、――あら、ノーカさん? 今日は納品でしたっけ?」

 妙にふわふわした足音、小さな風音を纏った、微かな衣擦れ。こんな辺境で暮らしている割にれていない、育ちの良さが漂う女性が、背中にステンドガラス染みた蝶の羽を携えやって来る。

 虫系の宇宙人種、頭には触覚が、そして耳こそ純粋な人間とと同じだが、皮膚には甲皮のよう外骨格が微かに浮かぶ彼女がこの雑貨屋の店主で、自ら手掛ける作品の材料をノーカと度々取引していた。

 その体は、今は彼女手製のエプロンと作業着ユニフォームで包まれている、奥で何か制作していたのだろう、その仕事は大量生産にはない柔らかさと丁寧さがある。

 ここなら女性として恥を掻く様な服はないだろうと、ノーカは店主を頼った。とうか、ここを除けば後はこの星域を出て最寄りの街まで行かねばならないのだが。

「いや。幾つか彼女の服を見繕って貰いたい」

「ええ? どうしたんですかいったい……そちらの方は?」

「嫁だ。出来た」

「――ええぇ!? やだ嘘、本当だったんですか!? ――ちょっ! ちょっと待ってくださいね?!」

 パタパタと足と羽根で音を立て、若妻が店裏バックヤードの工房へ駈け込んでいった。……程なくして、何事か素早く捲し立てる声がした直後『ノーカさんが結婚!?』との若い男の叫びが聞こえて、彼女より派手な蝶の羽を持つ旦那がスリップ気味に店のフロアへ駆け込んで来た。

 夫人と同じくどことなく上品さが漂う、がしかし、それがやけに半笑いの驚愕の顔で、

「本当だったんですかノーカさん!?」

「なにがだ」

「――結婚したの、本当なんですか!?」

 自分より一回りは歳下の蝶型宇宙人の夫、それに遅れて並んだ若妻の好奇の視線、何より、既に二人の事を知っていたような二人の言葉に違和感を覚えていたノーカは逆に訊ねる。

「……どういうことだ?」

 と、蝶の若妻が、ほんの少しだけ罪悪感を滲ませながらもまだまだ好奇心が騒ぎ立てた顔で、

「ドローナさんから婦人会回りで連絡があって……絶対嘘かガセネタかな? って思っていたんですけど……」

 あの女医はいったい何をしているのかとノーカは思うが、おそらく偽装を疑われない為の仕込み、根回しだろうと推測しそこで、

「……事実だ。それでこの……妻の生活に必要な物をいくつか見繕う途中で……申し訳ないのだがまず彼女の服を、一緒に選んでくれると助かる」

 言うと、蝶型宇宙人の若夫婦はキラキラその育ちの良さを窺える笑顔を浮かべ、

「――おめでとうございます! おれ、俺本当に心配してたんですよ!?」

「……ああ。ありがとう。それでなんだが」

「それで! お二人はいったいどこでどうして結婚することに決めたんですか?!」

 若く好奇心溢れる落ち着きのない視線が、ノーカに、そしてアンジェにも猛烈に注がれる。ご近所さんに捕まり買い物が進まない、というその現象に、ノーカは隠すことなく不愛想に辟易としつつ、判断に迷い彼女を見やる。

 そこからノーカの半歩後ろの位置にいたアンジェは、その隣に並び立つと模倣的に、模範的に会釈をし、

「初めまして。本日付でこの方の妻となりました、アンジェと申します。経緯に関してですが昨夜この方の畑に宇宙から落下したところを救助して頂きました、その折りに一目惚れした――というわけになります」

 若夫婦は、聞き間違いでないか自分の相方に目で確認し、間違でないと理解し、

「……宇宙から? 昨日の今日で?」

「そ、それは衝撃的な……」

 あ然としているが上品な仕草で。

 そしてここで詳しく追及されるわけにはいかないと、

「――とにかくそういうわけで、彼女は難民のようなもので着の身着のままなんだ。だから服から家財道具まで一通り、喫緊で必要な物を揃えなくちゃならない、うちには最低限の男もの以外何も無いからな。……すまないが今日一日潰して出来る限り物を集めたいので手早く頼む」

 急いでいる旨も明言して強引に会話を打ち切り、ここに来た用件も手早く済まそうというその思考誘導の言葉に、蝶の若夫婦は、主にアンジェの人として、女として、なによりこの男の嫁になるという悲惨な状況を理解し、

「やだ大変! それじゃあ急がなくっちゃ!」

「え? あ。あ! そ、そういうことですね?」

 ノーカが仕事の虫――のんびりとした田舎に於いて例外的な仕事の虫であることは周知の事実で、その恩恵にあやかっている若夫婦としては理解が無いわけではなかった。何より年若いなりに独立してやっていけるあたり、柔軟な対応である。

「――じゃあアンジェさんはこちらへ、まずサイズを計りますから。その間に――」

「他に何か、この辺りで購入する予定のものはありますか?」

「女性に必要な生活用品……家具の類か?」

「じゃあまずはガタックのじいさんのところですね、あの人店開けてないかもしれないからちょっと連絡取っておきましょう、他は?」

 問われ、ただの必需品しか思いつかないノーカは、

「……それなんだが、新婚生活で特に必要な物に心当たりはあるか?」

 その問いに、若夫婦は顔を見合わせ、

「――キングサイズのベッド」


 

 ――それから。

 アンジェは若夫婦から購入した普段着に着替えさせてもらい、彼女は薄い保護服の上にデニムのズボンと白シャツの簡素な装いとなった。翼があるし飛ぶだろうからと、上着の背中部分は開いたものを選び、下肢は覗かれることも想定してズボンを多めに、スカート時に下着が見えない装身具も一式。その仕様で他にもノーカと共に生活し農業その他をする都合の仕事着も購入、それをさっそく先程愛車の荷台に詰め込んだ。

 その後、同惑星に住む木工職人の元を訪れるもキングサイズの作り置きは無く、ベッドの発注自体が極めて稀な為、完全受注生産のオーダーメイドで注文だけし、後日送って貰うことにした。

 それまでの寝床は、部屋にハンモックを吊るす事にし、他に彼女用の家財道具として衣装ケースとクローゼットをその場で購入した。服はこれから増え続けるだろうと若夫婦からのアドバイスである。そして、

「――服だけじゃ片手落ちじゃろうが。鏡は? 化粧品はどうした?」

気難しげなクワガタムシ――型の宇宙人の、木工職人の指摘で大きな鏡の付いた鏡台を追加購入し、そこに収める化粧品の購入に向かった。


 隣の海洋惑星。青一色、まばらに緑と茶の小さな大陸が浮かぶ星。

 その海に浮かぶ巨大なシャコガイの建築物。

 特に耐水性の高い素材で外殻を覆った大型宇宙船、それをそのまま家として活用している。中は女性用のケア用品、肌、髪、他、生理的なそれも含めた美容品の類に、海洋資源を用いた宝飾品を一部趣味で作っている。

 居たのは烏賊イカの胴を頭に着けた、乳白色の人間の腕と足に胴体を持つ水棲系の宇宙人種のご婦人だ。

 ノーカはアンジェと共に中に入ると、豪奢な紺のデイドレスを着て店子に座っていた彼女は摩れた視線でしかし気風良く笑みを浮かべ、円熟した唇で愉快気に煙管キセルを吹かしながら、

「――あらやだ、本当に結婚したの? まあおめでとさん。それで……ここには何をしに来たの? 新婚ほやほやの彼女へのプレゼントかしら?」

 やはり、情報が出回っているようだ。それをノーカは確認しつつ、自身より一回り年上の頭足類な宇宙人類の女性からの揶揄と祝福を受け、

「ええ。そんなところです。宇宙から落ちて来たの拾ったんだがその所為で彼女は今何も持っていないので。だから、彼女に合う化粧品の類を見立てて購入させて欲しいんです」

 それから、おそらくとノーカは、

「……必要であれば、その使い方の指導もお願いしたい」

「……なに、その子、そんな美人なのに化粧したこと無いの?」

 ノーカは答える代わりに視線を隣にいるアンジェへ送ると、

「それをする必要がない世界に居ましたので」

「どんな世界よ……」

 教育用の仮想現実か、生物兵器としての活躍の場、もしくは大きな試験管。

 それがノーカの脳裏に過るが口には出さず。

「まあいいわ、新婚さんへのサービスとして教えてあげる。……これからお得意様になってくれそうだしね?」

 珊瑚の死骸や貝殻、石灰質のそれらに海底から切り出した岩、海水から抽出した貴金属などでレイアウトされた一室、宇宙烏賊の婦人はその店子の小さなレジカウンターから出てアンジェをそこの椅子に着かせると、彼女手製の美容品、化粧品を一つ一つ、顔と烏賊の胴の隙間から束ねた髪のように垂らした二本の長い触椀、そしてその下の体に生える人型の手、その両方で優雅に扱い、アンジェの肌での質感、使用感を確かめ始める。

 そのついでに、それら保湿剤や、体に優しい自然由来のそれらを使う手順を教えながら、実際に少しやらせて見せ、化粧筆を始めとした道具の使用感から扱い方、そしてそれらの落とし方にまでアンジェにアドバイスした。

 図々しくも素っ気ない年増臭さで、しかし甲斐甲斐しく世話を焼くその仕草は、歳の離れた姉のようである。

 その間、ノーカとしては全く見るものの無い店内、どうしようもない手持ち無沙汰のが終わると、ノーカは年上の女性から受けた厚遇に、アンジェに変わって腰を曲げ頭を下げ丁寧に礼を言い、

「――あと、家具と服以外で夫婦生活に必要な物に心当たりは?」

 と訊ねると、烏賊の婦人は、一瞬硬直した眼で二人を見つつ、

「……料理の腕じゃないの? 無いならまずその知識?」


 というわけで、次は本屋に向かった。

 本屋といっても本物の書店ではなく、これまた近所の星に住む宇宙考古学者――趣味の研究者が暮らす家だった。

 それは惑星の大半が荒野と砂漠地帯で埋もれた、砂と風と岩の惑星である。

 惑星表面では一割程度しか水は見えないが、その地下世界には広大な水脈が洞窟と共に広がっている。

 砂漠の中、ひょっこり砂の上に顔を出している、古びた岩のほこら風の家、門のその奥にある、小さな図書館染みた蔵書資料が平積みの山に囲まれた部屋。

 爬虫類型宇宙人種である老齢の紳士がそこにノーカらを迎え入れた。

 彼は当然婦人会に所属しておらず、ノーカはここに来るまでにしたそれを多少詳しく説明すると、

「……目出度めでたいことだが、お前のような男がまたずいぶん奇特な事をしたもんだ」

 難色を示す言葉の割りに、ほぅ、と気遣わし気に、ややくたびれたような溜息を理知的に吐き出す。

 彼は縦の瞳孔をしぱしぱ瞬きしながら、特段驚く様なことはせず、ノーカとアンジェのことを、さほど興味が無さげにしている。

 妙に騒がれたり、妙に世話を焼かれたりするより、遥かに心安らぎながらノーカは、その言葉に応じ、

「自分でもそう思います。今日は先生には本を借り受けたいのですが」

 トカゲ人類は、既に自分の手元、何かの歴史資料に目を移しながら、興味なさげにも一応振り向き、

「……なんだ?」

「料理の本です……これからは独り身ではなくなるのですから、本腰を入れて手を出そうかと思いました」

「……なるほど? 殊勝なものだな。昔もそうだったが、料理くらい出来ないようでは自分の妻と子供から何を言われるか分らんからな。……そこ、右の棚にまとめてある、自由に持って行くといい。……私にはもう用がないものだ……返さなくて構わん」

「分りました。ですが丁重に扱わせて頂きます」

 礼儀と厚意に誠意を示すノーカに、また老齢のトカゲ紳士は、理知的な溜息を漏らした後、しかし不機嫌では無さげにその深緑の尻尾を揺らし、鱗を擦り、図書の倉庫のような家の深部へと向かって行った。

 そこに残されたノーカとアンジェは該当の書籍を借り受けようと、平積みの山の断崖の中からまずどれを引き抜こうかと悩んだ。

「……紙で出来た本、ですか?」

「ああ。珍しいか?」

「……初めて見ます」

 そうだろうとノーカも思う。彼女の来歴に関わらず、紙の本は。

 ノーカも棚からそれで出来た本を手に取り、ページを捲って中身を確かめる。

 今の時代、宇宙渡航に際しての質量を減らす為、特に情報は何らかの形で収縮される。その形で持ち込むのは、データ端末が使えない何らかの緊急時に備えたマニュアルくらいであろう。

「……それもあるが、大半はデータの保存に特化したバックアップ機能、それを取り付けたハード・・・カバーだ」

 温度、湿度に始まる機器の劣化、内部データの相互保管など、外的内的にのそれだ。見た目はただの書籍それだが、本の形をして見えているそのほとんどが本型の端末だ。

 そこまでするのは珍しいが、一般的な本、雑誌も、データを入れたメモリ、ダウンロードの販売が主体である。

 その中で、今回の目的である家庭用料理のレシピ。

 今は料理といえば都会では自動料理機オートクッカーの立体射出プリントである為、人が手で作る手順を踏んだものはほぼ歴史的資料になる。更には広い宇宙、広い人種、それぞれの口に合うものなのか――情報の煩雑化は極まり、ネットの海を探れば人が手で作るレシピぐらいは出て来るのだが、それはもう料理素人には判別できない。

 ノーカとて田舎で十年近く独り暮らしをしていれば多少の手料理くらい出来たが、それは人に薦められるかといえばそうではないという自覚はあった。

 なので、過去に出版社が責任もって世に送り出したそれを探し、トカゲの紳士が整理していた山からそれは程なくして見つかった。

 その後、トカゲの考古学者に今度は二人して丁寧に頭を下げ礼を言った。



 外に出て、車の前、これまでの前例に倣い、

「服と家具、女の身の回りの化粧品、料理以外に、夫婦生活に必要な物はなんだと思われますか?」

 と、ノーカが年老いたトカゲの考古学者に問い掛けると、彼はその皺の酔った目元で穏やかに言った。

「……美しい時間だ……」

「……美しい……」

「時間、ですか?」

 片言のようになぞるノーカとアンジェに、考古学者は悠久の時に思いを馳せるように、

「――それは景色……夫婦としての思い出だよ」

 おそらく、考古学者がその胸の内に抱えたそれを思い出しながらの言葉に、ノーカはこれまでで一番悩んだ。それは哲学的とも、益体の無いポエムとも、またはロマンとも言うかもしれないがしかし――トカゲの学者は既婚であり、既に独り身、その言葉は確実に意味のあることだろうとノーカは思った。

 夫婦として偽装し過ごすのなら、そこは要点として抑えるべきだろうと。

 しかしそんなものはまだノーカたちの間に一つも無い。ならばこれからそれを得るべきなのだろうが、それはいったい、如何なるものであればよいのか。

 だが、ノーカの脳内にそれらに相当する行為は何もなかった――

 そんな内情をこの年老いた考古学者は言わずとも彼の経歴から察していたのか、その理知的な眼も静かに、

「……これらは即物的なものではないよ、時間の経過や、価値観の醸成によって徐々にそう見えて行くか……ふとそうだと気づくものだ……まあ、気付いた時にはそれを既に失っていることも多いがね……」

 と、二人に・・・ゆっくり語って聞かせた。

 年長者の金言として、それをノーカは心に留めた。そして、偽装でもこれから夫婦として過ごすのなら、最悪、自分がそれを得られなくとも、彼女さえそれを得られれば良いという旨を、アンジェを一瞥するだけにし、その心の中だけで止めることにした。

 その、何らかの覚悟か決意かをした顔に、トカゲの学者は眩し気に目を細め、

「……ふ、まあ、いつか君たちは美しい時間の中にその身を置いているだろうよ」 それにノーカは答えず、そしてアンジェも答えられるわけがなく。しかしその了承の旨を簡潔に、努力します、とだけ伝えた。

 

 二人が星を去っていく、と、昔を懐かしむよう相好を崩し、二人を砂塵舞う空の彼方へと見送った。

 ノーカは眼下のその彼を見下ろす。総じてロマンチストであるという考古学者達だが、彼は今もまだ、彼の家に飾られた今はもう居ない妻と子の写真に、その学問と同じ時を見出しているのかと。ただの写真であるそれが、彼が言う“美しい時間”であるのかと、推考を重ねるのだが。

 ノーカには、実感できない。これから始まるアンジェとのそれは当然にしても、これまでの自身の人生の中でも、一度も。しかし、自身が眺めていた他の家族、特にレナ達一家のその“景色”と同じであることには察しが付き、そして、それをこれからアンジェと、たとえ偽りでも作り出さなければならないのかと、じわじわ頭を悩ませていた。

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