第3話


 その日のアベンチュリン邸の夕食――壁一面が食材や料理の図鑑や食べ物を主題とした小説に覆われた本で埋まっている食堂で数人のメイドが控える中、この家に住む親子三人が珍しく顔を合わせた。


「パトリック……お前がどうしてもと言うから他領の令嬢との縁談を組んであげたのに、相手に難癖を付け続けた挙げ句婚約解消寸前なんて……一体どういう事ですか……?」


 目の隈が酷く、侯爵という割にはあまりに威厳のない――パトリックやパトリシアと全く同じ明緑の髪と目を持つ、やや細身で猫背気味の父親――フィリップが珍しくパトリックに話しかける。

 パトリックは人と目を合わさないように視線を落としてボソボソと喋る父親の事があまり好きではなかった。


「……彼女が刺繍した物があまりに気持ち悪くて、身につけると皆から馬鹿にされると思うと恥ずかしくて……」

「はぁー……馬鹿にしたい奴は好きに言わせておけばいいじゃないですか……」

「父上は国中の人間から『凡人侯』だと馬鹿にされて悔しくないんですか!?」


 父親の他人事な物言いにパトリックは思わず声を荒げる。誰のせいで自分が学校で『凡人侯の息子』だと陰口叩かれていると思っているのか。


 日夜努力して勉学も訓練も学年首位の成績を収めているのに何故自領の民に馬鹿にされなければならないのか――それは父親が暗くて陰気で特に突出した才能もない凡人だからに他ならない。


 そんな怒りを込めて荒げた言葉にフィリップは一切動じない。


「……悔しくはありませんね。馬鹿で使えない低能な人間だと思われていた方が期待されず余計な仕事も持ち込まれずにすみますから……」

「僕は父上とは違う。侯爵になって民を治めていく以上は恥ずかしくない、笑われない存在でありたい……!!」

「そんな、まるで私が恥ずかしい存在みたいに……パトリック、高い地位にある人間だからこそ愚かな弱者のフリをしていた方がいい時もあるんです……それが分からないうちはお前は私よりずっと恥ずかしい存在ですよ、ええ……」

「じゃあ父上はこれをつけてパーティーに出られますか!?」


 恥ずかしい父親に恥ずかしい存在だと言われて耐えきれなくなったパトリックは立ち上がり、コートのポケットに突っ込んでいたグリーンローパーのネクタイをフィリップに突きつけた。

 フィリップはネクタイを手に取り、両面を確認した後パトリックに返す。


「貴族の令嬢が縫う刺繍でそこまで丁寧に縫われた物はそうそうないと思いますよ……メリル嬢が時間と手間を込めてこれを縫い、お前に託したのだという事は分かります……まあ、いくら想いが込められていようと価値がある物だろうと、自分が嫌だと思う物を身につけるのは絶対嫌ですけどね……」

「ほら! 父上も嫌なんじゃないですか!!」

「そりゃ嫌ですよ……私はお前の婚約者につゆほどの興味もありませんから……お前のメリル嬢への愛も、お前のプライドを超えない程度の想いだから嫌だと思うんじゃないですか……?」


 ボソボソとパトリックを煽る言葉を述べた後、表情ひとつ変えずにフィリップは食堂を去っていく。

 パトリシアの(恥ずかしい父から『自分より恥ずかしい』って言われた兄に笑顔しか作れない)と言わんばかりの嘲笑の視線から逃げるようにパトリックもドカドカと足音荒く別の道から食堂を出ていった。



 絶体絶命のパトリックに転機が訪れたのはそれから10日程過ぎた頃だった。0ポイントになってしまうのが怖くて先週は行けなかった。


 今週は行かなければ。嫌われたくなくて行かない、というのも何か違う気がする。そもそもメリルに会いたい。


 毎日学校で陰口叩いてくる同級生達や無気力な父親や辛辣な妹から受けた傷は週に1度1、2時間メリルと過ごす事で大分癒やされていたのだ。


 刺繍の事をスルーして普通の話だけしていれば割とうまくいくのだからこれから先刺繍の話を一切しなければいいのでは? と思うものの、なかなか答えが出ない。


 明緑色の家具を基調にした自室でパトリックが頭を抱えているとノック音が響く。ドアを開けるとパトリシアが微笑みを浮かべて立っていた。


「兄上、今セレンディバイト公がいらっしゃってますよ。私、先程ご挨拶させていただいたのですが……あんな物を襟元につけてなお様になるあの姿、やはり英雄は父上や兄上とは格が違いますわね。後でセレンディバイト公の髪の毛拾って細かく切って兄上や父上に飲ませたら少しは兄上達の捻くれた性格も変わるのでしょうか……」


 そういう発想に至る妹に捻くれた性格とか言われたくない――とパトリックは心底思った。

 それと同時にセレンディバイト公が今、この館にいる――という事実にずっと沈んでいた心が久々に浮かび上がる。


 セレンディバイト公は若くして国に巣食う魔物を屠り敵国の侵入を阻む、このレオンベルガー皇国の若き英雄である。

 黒い衣服を纏い黒の槍を振り回す眉目秀麗、智勇兼備の黒の公爵に憧れる者は老若男女問わず多い。

 パトリックもパトリシアも皇国最強の英雄に憧れる一人だった。


 パトリックは父親の『皇都でトラブル起こされると困りますので……』という方針で皇都ではなく自領の魔導学校に通っている。

 その為皇都に行く機会は滅多になく、セレンディバイト公もこの領地に来たとしても魔物討伐を終えるとすぐに帰っていく。


 最近は皇都の辺りが色々と騒がしくセレンディバイト公も色々あったようだが――数年に一度会えるかどうかの英雄をひと目見たい、とパトリックは応接間のドアをノックした。


 父親の『どうぞ』という合図でドアを開くと、壁一面が本棚になっているパトリックの私室同様、明緑を基調にした応接間のソファにはやはり背中を丸めた父親が座っている。

 そしてそのテーブルを挟んで向かい側のソファには黒いジャケットスーツに漆黒のマントを羽織った黒髪灰眼の美丈夫が座っていた。


「ああ……パトリック卿か。久しいな」


 国の英雄の声掛けが耳を通り過ぎるがパトリックは自分にかけられたありがたい声より英雄の襟元についているブローチに目が釘付けになる。


(何だあれ……)


 銀色のそれは耳が丸まった猫の背からヨレヨレの細い羽らしき物が出ているから恐らくはセレンディバイト家に加護を与えると言われる蝙蝠の羽を持つ漆黒の大猫ペイシュヴァルツを象った物だったのだろう――という事はパトリックにも分かった。


 ただ、今セレンディバイト公が付けているブローチらしき物は平民が少し気取った場でつけるような、下級貴族が普段遣いしそうな安っぽさが否めない。

 そして何か熱い物の傍にでも置いたかのように耳や蝙蝠の羽だっただろう部分はダラりと溶けて固まったように垂れている。


 きっと誰もが眉目秀麗で威厳漂う英雄の襟元を見て思うだろう。(何だあの変なブローチ)と。実際パトリシアも「あんな物」と称していた。


「あの……付かぬ事をお聞きしても宜しいですか? そのブローチは一体……」


 妹は華麗にスルーしたが、パトリックは国の英雄が何でそんな物を付けているのか気になった。

 心に思った事を良い事も悪い事も言いたくなってしまうのがパトリックの悪い癖だが、流石に国の英雄相手には一応言葉を選ぶ。


「これは漆黒の大猫ペイシュヴァルツを象ったものだが……」

「すみません……息子は人に悪口言うのが癖なんですよ……そのブローチのいびつさが気になって仕方ないんでしょう……つつしむ事を知らない息子で本当にすみませんね……」

「父上! 僕は歪だなんて一言も……!」


 余計な一言を添える父親に怒りつつ、パトリックは恐る恐る英雄の方を見る。英雄はさして気にした様子もなく己がつけているブローチを見据えている。


「……確かにこれは安っぽいし、所々溶けてしまっている。端から見ればかなり歪な物に見えるだろうな」

「あ、あの……何故そのような物を見に付けていらっしゃるのですか?」

「これは私にとって、とても大切な物だからだ」

「でも、笑われ……」

「私はこのブローチを身に着けていて笑われた事など一度もない」


 真っ直ぐにパトリックを見据える英雄の眼力にパトリックは何も言えなくなる。気を悪くさせてしまった、と足が震えるパトリックをよそに英雄は言葉を続けた。


「……パトリック卿、笑われるのは身に付けている物がダサいからではない。それを身に付けている本人が見下されているからだ」


 辛辣で鋭い言葉がパトリックの心に突き刺さる。彼自身が一番認めたくなかった事実を容赦なく突きつけられ、完全に言葉を失う。


「現に貴公の父親も身につけている物は全て一級品だが分不相応だと馬鹿にされている。逆に強者はダサい物を身に付けていたとしても笑われる事はない。自分より強い者を馬鹿にすれば逆に自分が笑われるからな」

「パトリック……これが強者の考え方です。貴方も強者を目指すなら相手のセンスを捻じ曲げるより自分が強くなって周囲を黙らせる方が早いと思いますよ……」


 眼の前で思いっきり自分を馬鹿にされているのに一切動じず息子に説教してくる父親に引きつつ、パトリックはうつむいて応接間を出る。


 入る前の高揚感はどこへやら、羞恥心や劣等感がずっしりと心にのし掛かってきた。自分の部屋に戻っても微塵も心は軽くならず、引き出しにしまっていたネクタイを取り出す。

 それはメリルが一番最初に刺繍してくれた、ドラゴンゾンビのネクタイだった。


 圧倒的な力で君臨する国の英雄ならばこのネクタイと付けても見事だと褒めそやされるのだろう。

 それに引き換え自分は覇気も威厳も無い、侯爵の中でも凡人と馬鹿にされる、誰にも誇れない恥ずかしい侯爵の息子。


 そんな父親からも諭される位ちっぽけな自分がこんな気持ち悪い魔物の刺繍のネクタイなんてしたら絶対に馬鹿にされる。


 馬鹿にされる――けど。


『……パトリック様、どうか無理なさらないでください。私の刺繍したものを見に付けたら仰られる通りきっと貴族の方々に笑われますわ。でもこれが私なんです』


(メリル……)


 自分が馬鹿にされるのが嫌だからメリルを馬鹿にするのか? これ以上メリルを傷付けるのか? 好きな物しか縫いたくない、という彼女に無理を言って――悲しませるのか?


 本当に恥ずかしいのは――好きな人の作品を貶し続けた自分自身だというのに。


 まだ彼女にちゃんと心から謝ってもいないというのに、自分がいかに馬鹿にされないか、嫌われないか、自分の事ばかり考えて――


 数十秒葛藤した後、ネクタイをギュッと握りしめたパトリックは先程までよりずっと力強い足取りで自室を後にした。


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