第2話

「どうだった? パトリック様は大人しくなったか?」

「ええ、まあ……私が悪口をカウントしているとは思ってなかったようで、とても驚かれてましたわ」

「そうか……まあそうだろうな。俺もお前が悪口カウントしてるとは思ってなかった」


 呆れたように呟きながら先程までパトリックが座っていた椅子にどっかりと座ったのはメリルより10歳上の兄、ゴーディだ。

 金髪をオールバックにした暗い緑の目を持つ30代半ばの紳士は妹に対して苦笑いを浮かべながらも、優しい眼差しで妹を見据える。


 メリルはとても美しく可愛らしい風貌からこれまで色んな男に想いを寄せられた。しかしどの男もメリルの内面――ダークで陰湿な物や魔物の刺繍を好み、それを頑なに譲らない面を知って去っていく。


 ただ去るだけならいいが嫌味を言ったり、笑い者にしたり、罵倒したり――有る事無い事噂を流された事や結婚の適齢期を過ぎた事もあって、メリルはここ数年すっかり縁談から遠ざかった生活を送っていた。


 そんな生活が少し変わったのは半年程前――自領の領主であるペリドット侯から『アベンチュリン家の令息が貴殿の妹を見初めたらしくてな。今メリル嬢に特定の相手がいないのなら一度会ってみてくれんか』と言われてゴーディがメリルとパトリックを引き合わせた。


 その時はパトリックが悪口を言う気配など微塵もなく、メリルに熱心に愛を伝える好青年だと兄妹は判断して婚約を結んだ。

 そしてパトリックは毎週メリルに会いにアルパイン邸に来るようになった。悪口が始まったのはそこからだ。


 ゴーディは倍も年が離れた自分がいては話しづらいだろうと考え、パトリックがここにやってくる時は執務室に籠もっていたのだが、開けている窓からはよく彼が妹の作品を貶す言葉が聞こえてきた。


 若さ故の過ち――と言うには少々程度がすぎると思ったので先週『あいつの悪口が50回超えたら婚約解消していいぞ』と半ば冗談のつもりで言った後、すぐに妹が紙とペンを持ち出して一気に書き出した時は流石に引いた。


 そこまで言った妹の婚約者パトリックと、それを一言一言全部覚えているメリルの記憶力に。


『これまでの合計で42回です。後8回と思うと少し気が軽くなります……ありがとうございます、お兄様。』


 ゴーディは半年間で既に42回悪口を言っているパトリックに更に引いた。同時に焦った。

 言われる側からしたら『50回言われたから婚約解消!』って言われて反省や挽回のチャンスも無いようでは流石に可哀相だし納得もしないだろう。

 最悪、ペリドット領とアベンチュリン領の外交問題になりかねない。


 ペリドット侯とパトリックの父であるアベンチュリン侯の仲が良いという事もあり基本的にゴーディは2人の仲が上手くいってくれれば、と考えている。


 何より毎週、メリルと1、2時間話す為だけにこんな片田舎の小都市に往復1日かけて馬を走らせる――それは並大抵の愛ではない。それだけに少し位チャンスを上げたいとも思った。


 メリルが頑なに自分の好きな物しか縫わなくなったのはパトリックのせいではない。

 何人もの男達から幾重にも積み重ねられたセンスの否定がメリルの心を一層頑なにしてしまった。

 もしかしたら自分や親がプレゼントを受け取った時の一瞬の表情の変化も妹を傷つけていたのかもしれない、とも思う。


 刺繍というものは数時間で出来上がるようなものではない。丁寧で繊細なものであればあるほど何日、何十日と時間をかけて作り上げられていくものだ。

 特に妹の刺繍はモチーフはともかくとても丹精込められた物――だからこそそれに対する罵倒は侮蔑の視線はしっかり心に刻まれるのだろう。

 些細な嫌味もきっちりカウントしている辺り、それは間違いない。


 今の状況はパトリックだけが悪い訳では無い。同情の余地はある。隣領や主との関係を友好に保ちたい。

 ただ、メリルは若くして亡くした両親が残してくれた唯一の家族。嗜好は理解できなくてもゴーディにとっては目に入れても痛くないほど可愛い妹であった。


 これ以上10歳下の可愛い妹の心を傷つける位なら例え主の命令でも従いたくないという気持ちと、単純に50回も悪口を言う若輩者に可愛い妹を渡したくもないという兄心がある。


 幸いペリドット侯は恋愛結婚だ。『50回悪口言われたので婚約解消させてほしい』と言えば分かってくれるような気がする。


 領主として、男として、兄としてゴーディが出した結論は――


『……45ポイント貯まったら警告位はしてやれ。彼はまだ若いし口も悪いが多分根はそこまで悪くない。警告をきっかけに心を入れ替えるかもしれん』


 苦肉の策でゴーディはパトリックにチャンスを与える事にした。未熟ではあるが、けして愚かではない――はずだと願って。


「現時点で47ポイントです。この調子だと来節には婚約解消できそうですわ。でもそうしたらうちの評判が……」

「安心しろ。気持ち悪い魔物の刺繍をする娘の家として十分評判悪くなってる。今更家の評判を気にするな」


 兄の心強い言葉を支えに、後3回、という回数を糧にメリルは気合を入れる。


 メリルも最初からパトリックが苦手だった訳では無い。

 会った当初は彼の容姿も声も見るに耐え、聞くに耐える物であったし自分に愛を訴えコロコロと表情と声が変わる彼は見ていて飽きが来ない――そう思って婚約を受け入れた。


 だがその後のネクタイの刺繍による難癖が続いて婚約を受け入れた事を後悔した。これまでの男と同様、他の面がどれだけよろしくても自分の好きな物を否定してくるその態度だけは飲み込む事が出来ない。

 一緒になったら自分の好きな物が潰される――自分が駄目になってしまう気がする。


(後3回……後3回だけ)


 兄から言質は取った。後3回悪口言われたらすぐ婚約解消してまた自由に好きな物を縫って過ごさせてもらおう。どうせ自分の嗜好など誰も分かってくれない。兄ももう私を嫁がせるのを諦めるだろう――


(自分の好きな物に難癖つけてくる人と結婚するより、一人でいた方がずっと気楽だわ)


 のんびり穏やか隠居生活を夢見て、メリルは立ち上がった。





「後3回悪口言ったら婚約解消? 面白い事をおっしゃいますわねメリル嬢も」


 木々に囲まれたアベンチュリン領の主都、サイ・ヴァルトにあるアベンチュリン邸にて憔悴しているパトリックを見るなり彼の妹であるパトリシアは何があったのか問いかけた。


 兄と同じように綺麗に切り揃えられた明緑の髪と瞳を持つ妹は一連の話を聞かされると明緑色の鉄扇を広げ、クスクスと笑いながら上記の言葉を述べる。


「不意打ちがすぎる……せめて10回の猶予が欲しい……」


 パトリックはテーブルに突っ伏したまま力なくぼやく。その姿がまたパトリシアの笑いを誘った。


「ほほほ……何故悪口言ってくる相手に猶予を持たせねばならないのです? むしろ猶予無くスッパリ兄上を突き落としてくだされば面白かったのに……チャンスを与えるなんてメリル嬢も甘い方。それにしても、ああ……普段から人の物を馬鹿にして生きてらっしゃる哀れな兄上の惨めな姿を見ていると愉快でなりませんわねぇ……!!」


 パトリシア自身、刺繍ではないが自分が同じ嗜好を持つ者向けに書いていた小説をパトリックに勝手に読まれた挙げ句色々難癖つけられた事があるので、今の兄の姿は滑稽でしかなかった。


 仲がそれほど宜しくない自分の作品を否定するならまだしも、大好きな相手の作品まで容赦無く否定した挙げ句に拒絶されて憔悴しているのだからもう笑うしかない。


 『作る度に貴方が毎回毎回難癖つけてくるので、もう何も縫えなくなりました』と相手に泣かれて徹底的に拒絶されなかった事が惜しいとすら思う。

 それでも『一度婚約すれば家族同様、相手を批判し続けてもずっと関係を続けられる』と思っていたらしい兄に見事な一撃を決めたメリル嬢には拍手と声援を送りたい。


 いつもならここで『こんな落ち込んでいる僕にそんな声をかけるお前の神経を疑う』などといった嫌味の応酬が始まるのだが、パトリックは俯いたまま顔を上げない。  


 そんないつもと違う兄の様子にパトリシアも拍子抜けしたように鉄扇を閉じる。


「兄上……相手の好きな物や苦手な物を受け入れられない、スルーも出来ないようでは今後結婚できても近いうちに破綻してしまいますわ。兄上はいつも見栄をはって好き勝手やってますけれど、恋愛ばかりは自分勝手ではいられませんのよ」


 パトリシアは僅かながらの情を見せた後クスクスと笑いながら去っていく。途中、高笑いまで響き渡る。

 そんな妹の罵倒と助言と高笑いを聞いていたのかいないのか――憔悴したパトリックは机に突っ伏してただただメリルを想う。


 メリルは見た目も声も雰囲気もパトリックの理想だった。そう、嗜好のセンス以外はまさにパトリックにとって理想の女性なのである。

 美しい萌黄色の髪と目も、優しい顔立ちも、おっとりした声も。好きなお茶やお菓子を食べている時の微笑みも。きょとんとしている顔だって誰より可愛い。


 半年前のパーティーで見かけた美しい人に目と心を奪われた。まさに運命の相手――に今、辛辣にフラれかけているのだ。他でもない自分自身から放たれた悪口のせいで。


(まさか、そんなに気にしていたなんて……)


 パトリックの口の悪さは、家族と気心のしれた人間限定である。そしてこれまでその口の悪さを真正面から咎められた事はなかった。


 妹だけは真正面から言ってきたが妹も相当口が悪いのでお互い様だと思っていたし、メリルも結構ズバズバ言ってくるからお互い様だと思っていた。


 幸い、もう遅いと言われた訳ではない。後3ポイントある。まだ遅くない。今後一切彼女の趣味嗜好に口出ししなければいい。しかし――


(自分や他の人間が縫った物を身に付けてバレるのは嫌だ……かと言ってこれ以上無地のネクタイで婚約者がいるのに縫ってもらえない奴だと皆に馬鹿にされるのも嫌だ……)


 ネクタイやスカーフ、ハンカチなどの刺繍にはパッと見で目につかない場所に縫った者の名あるいはブランド名を記名する。


 人が縫った物に他人の名を刺繍するのは縫った者に対して最大の冒涜になるし、仮に自作自演をした所でそれを見る度に自分が惨めになるのは目に見えている。


 他人視点でバレるのも嫌だがパトリック自身、そんな後ろめたい気持ちを持ちたくなかった。


 1つだけでいい。他の誰でもないメリルが刺繍した気持ち悪くないネクタイが欲しい――そう思うのは贅沢なのだろうか?


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