春 異国の調べ

 目の前で久紫の瞳が閉じ、眉間に皺が寄った。

「俺は小春が……あの男と口づけを交わしたんダと思っていタ」

 突然やってきた告白に、小春は青筋を立てて固まった。

 なんという勘違い。ちょっとだけ腹立たしい。

 そこでハタと気づいた。あの時志眞が笑ったのは、小春の頬を舐める馬鹿をするためではなくて――。

 小春の視線に気づいたのか、目を開ける久紫。

 力なく笑いあの場にいたのだと肯定する。

「ソウして笑い合う二人に、俺は動揺してしまっタ。忘れるタメに人形を造れば手を傷つける真似までシテ。そんな手を取った小春。……耐えられなかっタ。誰かのモノになるのだとしても、少しダケ俺を残して置きたくて。拒絶されタなら、止めるツモリだった。でも、受け入れられた」

 何かに焦がれる瞳が小春を見つめる。

 あの時と同じ、熱に浮かされた目が。

 けれど小春は逃げることなく、これをきちんと受け止めた。

 病んでいた涼夏に似ながらも、どこか違う黒い眼と灰の眼。

「動揺した……。あの男と口づけたノニ、拒まれなかっタから。本当は拒まれルことを望んでイタ。ソレで諦めをつけヨウと。同情なのカとも考えた。だから、スマないと、忘れてクレと。同時にまだ俺が入り込む余地がアルんじゃないかと、ソウ思って――」

 また両腕が後ろに回り、顔を胸に押しつけられる。

「小春、そう名で呼んでも良いカと聞いた。頷かれて、俺は舞い上がってしまった。心をあるだけ込めたツモリで、名を呼んだ。けれど――小春は離れてしまった。会いに行っても会ってクレズ……。やはり俺では……異人の俺ではダメなのかと」

「っ! 違います! あれは――」

 顔を上げれば額に唇を落とされ、続きを失くしてしまう。

「色んなモノに手を出してミタ。忘れるタメに。小春を、自分が異人でアルことを。けれど幾ら足掻いても、消えナイ。異人の肩書きも……小春のコトも。だが昨日、小春に似た後姿を見つけテ、我を忘れてシマッタ。どうやっても忘れられなかっタ自分を。目覚めて、夢だと思って、落胆シタ。でも、腕に小春がイタ」

 再度胸に納まる頭。安堵の息が落ちて、小春はとても胸が苦しくなる。

「夢だと……マダ夢を見ているのだと、ソウ思った。共に飯を喰って、会話して……小春が小春のままダと知って……俺を、好きだと……言ってくれて」

「……久紫さん」

 今度は違えず名を呼べば、一度だけ震えが伝わった。

 ――沈黙。

 顔を上げると何かを望む瞳とぶつかる。

 途端、久紫の方が慌てた様子でしかめっ面を作った。

「すぐ邪魔が入ったノハ、正直、腹立たしいガ……」

 きょとんとして、彼の言わんとする場面を思い返す。

 雪崩れ込む、家族たち。

 首を傾げた。

「でも、何故母様たちはあの場に? あの様な……野次馬染みたことを?」

 自問のつもりが、虚を衝かれた顔に迎えられた。

 尋常ならざる様子にますます困惑する。

 すると久紫も同じような顔つきになった。

「…………ナア、小春? 俺がアンタをどう想っているカ……知ってル、よな?」

「…………? ええと、とても便利な、世話役……ですか?」

 意地悪を言っているつもりはないのに、途端に情けない顔をする久紫。

 口元を手で覆い、「また俺ハ……」と小さく後悔を滲ませる。

 何の事か図りかね、問う視線を送れば、惑う様子。

 忙しなく動く瞳を閉じ、考える素振りの後、久紫の手が両肩に置かれた。

 引き離されて、大仰なため息をつかれて。

 けれど上がったのは苦笑。

「信じラれんな。知らずトモ、ココまできて。……例えば、コウして――」

 肩の手が離れて、背に回り、身体が寄り添う。顔は上げたまま。

「抱き締めて。例えば、コウして――」

 すぐさま頬に手が添えられ、滑り、顎を上に向ける。

 触れる温かな感触に目を閉じた。

 前より長く、そして惜しむように離れ、眼を開ければ未だ苦笑の久紫。

「口づけを交わして。こんな風に接しても、わからないとイウのなら言ってヤルさ。何度でも――……」

 誰かを想っているはずの、熱みの帯びた瞳で見つめられ、その黒い眼に宿る自分も、同じ色を宿していて――。

 ずるい、と思う。

 ようやく久紫の想いを理解できて、けれど彼が口にしたのは、小春の知らない、異国の音色。甘く、低く、囁かれる久紫の言葉はまるで理解できないのに、小春の心を絡めて奪う。


 ――噤んでから間を置かず、もう一度、更に長い口づけ。


 息つく間を縫って訪れた新たな柔らかさは、驚く暇を与えず、順応を促す。

「…………ふ……」

 合間から零れる意味をなさない声。これを呑み込むように、抱擁を強める久紫に合わせ、小春の手がその胸元に皺を作る。

 完全に目を閉じては一層明確になる感触。

 身体から心から生じる息苦しさに喘ぐ直前、ゆっくりと解放された。

 吐息混じりの眩む熱から離れても赤いのは小春だけ。

 久紫は悪戯っぽく笑っている。

 彼の瞳はもう澱みを忘れて澄んでいるのに、映る小春だけが熱病を伴う。

 散々逃げ回った熱を恥じて俯こうとしても、近づいてくる美麗な相貌が決して許してくれない。

 再度、唇が寄せられ――


「…………いい加減、人の眼をお気になされたらいかが?」


 呆れ混じりの非難に、小春の熱が他方を向いた。

 久紫は構わず柔らかい感触を頭に落とし、離しては抱き締め頬を寄せる。

 されるがまま揺れる視界の先にいたのは、白布で首から左腕を下げたさつき。

 右手には重そうな荷物を引きずっていた。

「さ、さつき様……その腕――」

 羞恥も忘れ、惚ける小春に許されたのはそれだけ。

 荷物を離し、ずかずか怒り肩で近寄ったさつきは、小春を離さない久紫を無理矢理引き剥がした。


ぱんっ


 勢いよく張られる頬。

 押さえればすぐに腫れ出し、かなり痛いのだが、驚きの方が大きい。

 耳が音をしばらく忘れてしまう。

「――――っ! 何をする、サツキ!」

 慌てて抱き寄せた久紫が、小春の手越しに頬を恐々擦ってくる。

 まるで我がことのように傷ついた顔を浮かべるのを放って、小春は眼を見張った。

「何を驚いてらっしゃるのかしら? わたくしの名を久紫様が呼ばれたこと? それとも頬を叩かれたことかしら!?」

「……いえ、その腕は……?」

 広いおでこも黒い艶やかな髪も、艶やかな赤い着物ですら変わりないのに、痛々しいまでの白いソレに小春は眉を顰めた。

 これをため息を持って迎え撃つさつき。

「これは、自由のための布石ですわ! ね、久紫様っ!?」

 視線を外され、ようやく久紫の方を向く。

 が、当の久紫はさつきの声なぞ聞こえなかったようで。

「すぐ冷やさなければ……小春、戻ろウ」

「え、え、く、久紫さん!?」

 肩に腕を回され、押され気味に歩き出す。

 背後ではさつきが騒がしく何かを叫んでいるのに。

「ま、待ってください。さつき様が」

「平気だ。アノ娘の腕を見ただロウ? アレは自分でやったんダ。大体、怪我人が平手打ちナド、並大抵の神経じゃナイ。関わるだけ無駄だ」

 そこまで言い切って最後に小さく毒づく。

「ちっ……俺の女にナニしやがる」

 聞かせる気がなかったとしても、どきりとする俗な言葉に、小春はまた、卒倒しそうな動悸に襲われた。

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