春 寄り添う二人

 どう話しかけたものか。

 晴れ渡っていたはずの空は曇天に変わり、その下の閑散とした海岸を歩く男の背に、頬を染めた小春は戸惑っていた。


 わざわざ二人きりにして、様子を覗き見していた肉親含む者どもは、開き直って「さあ、続きをどうぞ」とのたまった。出来るわけないと叫ぶ前に、久紫が彼らを一瞥して後、外へ出ようと誘われた。断る理由もなく、青ざめる一団を横に先を進む背に大人しくついていく。


 そうして辿り着いた灰色の海辺。

 さて、困った。

 何せ告白した後の邪魔。

 返事も聞けずに、増して他の話題も見つけられず、途方に暮れる。

 しかも勢いで告白したのは良いが、よくよく思い起こせば久紫のあの瞳、あれは誰かを想っての熱だと理解していたはず。

 先走り過ぎたと後悔だけが募るばかり。

 悩める小春の視線が不意に崖上へ寄せられた。

 そこに浮かんだ名前があったなら、気まずさは失せ、問いかける。

「…………異人さん、雪乃さん……は?」

 全焼。この目で確認した事実は、今頃になって小春の胸を締めつけた。

 あの場所は人形師の世話役を務めてから、ずっと、小春の居場所だった。

 別段他に居場所がなかったわけでもないが、幼少の頃より知った場が消えるのは寂しく、切なく、虚しい。幽藍の店はほとんど老舗で成り立っているため、なおさら喪失感が増すのかもしれない。

 不変――そんなことは決してないのに、人の移ろいや四季の流れは知っているのに、いつの間にかそう思っていた、今は亡き場所。

「…………燃えた」

 痛むような返事は、それでもなお進む背から発せられた。

 胸がずきりと痛む。あれだけ傷つくのを嫌っていたのに、家と共に燃えてしまったのでは修復さえ叶わない、雪乃。

 前を行く藍の背と、曇天を受け鉛の陰りを寄せては返す波。

 目の前の光景は、二年前、久紫と雪乃に初めて逢った時と似ていた。

 しかし、踏みしめる砂の温かさは冬ではなく、春。

 そして、久紫の隣には誰もいない。

 彼が背負っていた人形は彼が幽藍に“連れて”きた、唯一の思い出だったのに。

「……異人さんと喜久衛門様が作り上げた、雪乃さん……」

 熱に浮かされた晩。昔を語る苦痛の中にも柔和な響きがあった――気がする。

 最期がどうあろうとも、久紫にとって喜久衛門と“雪乃”はかけがえない人で、もちろん、彼の人形も大切だったはずで。

 今は亡き微笑みを思って俯く。

 すると、コツンと柔らかく硬いものにぶつかった。

(何が?)

 そう思い、額を軽く押さえて顔を上げる。

 迎えるのは熱病に沈みながらも、苦しそうな悲しそうな久紫の瞳。

 喉が鳴りかけ、退きかけた己を叱咤する。

「…………小春。頼むカラ、俺も名で呼んでクレないか? ドウもその、異人サンという呼び名はとても……遠くて」

「ぅえ……で、では久紫様と――」

「久紫、で良い」

 あっさり引き寄せられ、抱きしめられる。

 小春は顔が沸騰する気分を味わいつつ。

「で、ですが、やはりここは」

「伸介は呼び捨てナのに?」

「あ、アレはそういう役柄というか、その、なんと申しましょうか……そ、それでしたら、久紫さん、というのは如何でしょう!?」

 如何とはどういうことだと思いながら、顔を上げれば少し淋しそうな久紫の顔。

 物思いに耽っていた分、回らない頭が真っ白になっていく。

 それなのに抱きしめる腕の温もりははっきり伝わる始末。

 混乱するのに必死な小春へ、久紫がため息をついた。

「…………仕方ない、譲歩してヤル」

 またきゅっと小春の身体が胸に押しつけられた。僅かに残る酒と久紫自身の香りに、小春はただただ酩酊したように頬を染めるのみ。

 一体久紫はどうしたというのだろうか。まだ酔いが醒めないのか?

 普段、人の動向を見ては、目利きの父と同程度の鋭さを発揮する小春だが、久紫に関してはそれが揺らいでしまう。

 ともすれば襲う胸の高鳴りに、倒れそうな身体を久紫の着物を掴んで耐える。

 そんな小春を知ってか知らずか、久紫の腕が支えるように更に身体を引き寄せた。

「コの半年……ずっと、小春のコトが頭から離れなかった。あの男に嫁ぐと聞いてカラも。……イヤ、一層増して。けれど、家が燃えた。恐ろしかっタ。アノ家があったからこそ、小春は俺の傍にいたんだと……依り所がなくなった気分で」

 熱の籠もった低い囁きに、小春は誰も来ませんように、とそれだけを願う。

「色んなモノが俺に言うんだ。モウ、小春を忘れてしまえト。お前は違うんダと」

「……いじ――あ、すみません」

 少しだけ緩まった腕から顔を上げ、投じられた視線に惑って呼び間違った。恥ずかしさに下を向きかけ、逃げてはいけないと再び上げれば、息を呑むほど哀しい微笑がそこにある。

「最初に違和感を抱いたのはイツだったか。……小春が俺を異人と呼ぶ度、他を名で呼ぶ度、胸が痛んだ。人形ですら名で呼ぶのに。名で呼んで、髪を梳き、頬を撫で――」

 離れた右手が小春の頬に添えられ、その髪を梳いていく。

「髪……伸びたんだナ。その時間さえ、俺は知らナイから、俺は幽藍の者ではないカラ」

 たぶん生涯でこの時ほど、短い髪を恨めしく思う時はないだろう。

 髪が長ければ、労わるような指にもう少し長く触れて貰えるのに。

 はしたないと思いつつ、心地良さに目を細めれば額が合わされる。

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