春 惚け眼
久紫の顔を見て、出迎えた涼夏はニヤニヤ笑う。
「あらまあ、中々良い方じゃない? お似合いよ、小春さん」
「茶化さないでください!」
真っ赤になって抗議すれば、「きゃー怖い」と離れていく。
居間の卓を挟んだ向こうでは、小春と共にここまで久紫を支えてきた伸介が、堪えきれずくつくつ笑っている。
茶を持ってきた絹江でさえ、同じように面白そうな顔。
はい、と向けられた茶を唸りながら受け取った久紫。
一つ啜っては絹江へ返して、
「小春ぅ……」
「もうっ! 異人さんもいい加減、酔ってないで離れてくださいよぉ!」
ぎゅうぅ……と背後から抱きしめられたまま座る小春は、また隠すことなく聞こえる笑い声に、恥ずかしさのあまり卒倒しそうな気持ちを味わっていた。
花街で久紫にようやく会えたは良いが、肝心の彼は酔い潰れており、加えて一向に小春を離してくれない。
何度声をかけても、こちらの名を呼び拘束を強めるだけ。
通り過ぎる者たちは、酔っ払いより顔を赤くした少女を面白そうに眺めている。
だが、小春の赤らんだ顔は、決して色のあるものではなかった。
重いのだ。
上背もあるが、引き締まった身体が成せる筋肉は、見た目の重量を遥かに越えて、小春の肩に圧し掛かっていた。
しかも久紫、自分では一切、この体重を支えてくれない。
なんとか倒れることだけはないよう、必死で重みに耐えていれば、青褪めた顔の伸介がやってきた。
「うわ、悪い! ちょっと目ぇ離した隙に……って、小春!?」
小春を認めるなり驚く伸介。
一転、安堵の表情を浮かべつつ、眉根を寄せる。
「お前、婚姻は?」
「もう、皆様なんなのです? わたくしは幸乃のままで――」
「小春ぅ」
酒臭さをふんだんに撒き散らし、肩に頭を擦りつける久紫に言葉を失う小春。
足がガクガク震えてきた。
「し、伸介! それより異人さんが、重いっ!」
助けを求めれば、伸介が慌てて加勢する。
しばらくは酔っ払い相手に、二人がかりで腕を解こうと頑張ってみたものの、結局解けずじまい。それだけならまだしも、二人が頑張れば頑張るほど久紫は小春にへばりつき、通りすがりの注目を集める始末。次第に周囲から「酔っ払い対ならず者」だの「痴話喧嘩」だの、どちらにしてもよろしくない表現が聞こえてきたなら、留まり続けるわけにもいかない。
仕方なしに、とりあえず腰を落ち着けようと、小春の家まで伸介に支えられて帰ってきたのだが――……。
くすくす楽しそうに笑う涼夏は、一人諦めず久紫から逃れようとする小春へ。
「ねえ、小春さん。諦めなさいな。これはバチだと思って、ね?」
「でも姉様、これでは夕餉も頂けません!」
「一食ぐらい抜いたとて死にやしませんよ」
応えたのは無情にも夕餉を目の前で食す、母・絹江。
小春一人を除いて食事を楽しむ親子に困惑しつつ、伸介に助けを求めるよう見やれば、わざとらしく肩や腰を叩く仕草をする。
「やぁれ。これでようやく愛しい妻の下へ帰れますよ」
身重の瑞穂の名を出されてしまっては、小春は途端に何も言えなくなる。
すると代わりとばかりに涼夏が微笑んだ。
「あら良かったじゃない? でもあの伸介が一端に家庭を持つなんてねぇ。しかももうすぐ父親とか。そうだ、近々貴方の奥方にもご挨拶しなくちゃ」
一ヶ月前に“仮病”から脱した姉に対し、最初から驚きもしなかった伸介は、おどけて肩を竦めた。
「止めておくれよ、涼の姐さん。ウチの奥方は嫉妬深いんだ」
「大丈夫よ。どう見たって私と貴方じゃ釣り合い取れないから」
小春は後に知るのだが、親しげな涼夏と伸介、実は昔から親分子分の間柄であったそうな。だからと言って、涼夏の状態を驚かない理由にはならない気もするが。
そんな“親分”の容赦ない評価に伸介は「ひでぇ」と笑いつつ、絹江へは神妙な顔で頭を下げ、小春の方をにまっと見た。
「涼の姐さんや絹江様が言う通りだぜ、小春。まあ、諦めろ」
家までの道中で聞いた、この半年間、久紫の面倒を見ていたという伸介。いつも通りのお調子者を貫いた語りではあったものの、省かれた詳細や見え隠れする疲労感は、一筋縄では行かなかったことを如実に示していた。
それを思えば、無情に出て行く幼馴染へ求める助けは、最早ない。
小春は深くため息をつくと、何度も己の名を呼ぶ顔を振り向いては、頬を染めてまたため息を零す。
吐く息に熱が籠もるのは、仕方なきこと。
* * *
熱い息が髪に触れる。
くすぐったい感覚が肩を撫でる。
目蓋の裏に光を感じてうっすら目を開けば、居間の中心にある卓の下が覗いた。
しばし、ぼーっとしていれば、背中の気配が起き上がる。
向きにして天井から降りてくる声。
「……小春……?」
吐息に酒は若干残るものの、嬉しそうな恐れるような、困惑混じりの、低い音。
まだ寝ぼけた眼を少しだけ擦り、そちらを向けば覗き込む双眸。
「……おはようございます」
挨拶は返されず、代わりに口を覆って小春から飛び退く。
起き抜けにしては、ずいぶん素早い動きである。
呆気に取られることもなく、自身も起き上がったなら擦れる布の音。
見やれば掛け布団が一枚、掛けられていたことを知った。
母か姉だろうか?
どうやらいつの間にか寝てしまったらしい。
一体、どの時点で寝たのか。思い出そうとすると何故か額がひりひり痛む。軽く擦る。肌に馴染んだ痛みは、溶けるように消えていった。
痛みがなくなり、手持ち無沙汰になる。
次の行動を考えあぐね、むぅと小首を傾げれば、もの凄い腹の音が聞こえて来た。己のモノかと思い腹に視線を落とすが、再度鳴ったのは未だ口を押さえたままの腹。
明るい障子を認めて納得した。
「ああ、朝餉の支度……」
頷き立ち上がると袖を掴まれた。
軽く引いても離れない先を振り返ったなら、熱みのある潤んだ目に迎えられる。
「本当に……小春、カ?」
はて?
妙な問いをされたものである。
春野宮の本家に滞在すること半年。変化は肩まで伸びた髪の毛ぐらいだろう。
伸ばそうと思えば、もう少し長くなったはずの髪は、涼夏が目覚めるまでの間、二ヶ月に一回は切っていた。前は一ヶ月に一回であったから、多少なりとも別人に見えてしまったのかもしれない。
――それとも久紫の眼には、小春はえもいわれぬ化け物として映っているのだろうか。碌でもない想像が首をもたげ――止まった。
寝ぼけた頭で考えても埒が明かない。
疑問はさておき、優先すべきは別のこと。
「はい。…………あの、朝餉の支度をしたいのですが」
「ア……す、スマン」
名残惜しそうに、けれど離された袖へ、怪訝な顔のまま一つ首を傾げてから、寝ぼけた頭で炊事場へ向かう。
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