春の訪れ

春 停滞の合間

 幽藍島に降り立ち、懐かしさを噛みしめる前に小春が見上げたのは、崖上。そこにある久紫の家は、ここから見えるものではないと知っていたが、それでも向かわなければならない場所と見定める。

 ――まずは謝罪から始めよう。

 あの日を境に、何も語らず久紫を避け続けていた自分。理由は己の心根一つのことだったが、ゆえに久紫にとってあの行動は、単純にあの日のあの出来事がきっかけだったと思われてもおかしくはない。

 無意識にそっと唇へ指を寄せる。

 触れはせず、かざすだけだったが、それでも巡る熱と共に思い出すのは、決して嫌ではなかった、寧ろ好ましさだけが増した感触。

 それなのに、久紫の中では避ける理由と成り果ててしまうのだ。

 やはり自分は愚かであったと後悔ばかりが募った。

 あの時の久紫の考えはわからないが、せめて、それが理由ではないことは伝えたい。一方で、今更謝罪をしたところで、本気で嫌われていたら――。

(……どう、しましょうか。その可能性だってあってもおかしくないのに。なのに、わたくしと来たら)

 不意に浮かんだ想像で視線が地に落ちた。

 自分でも驚くことに、どうやら小春はここに至るまで、嫌われている可能性に全く気づいていなかったらしい。あれだけ避けておいて、これだけ日も経っているのだから、少しくらい浮かんでも良さそうなのに。元より気難しい久紫ならば、あり得ない話ではないはずなのに。

 どこまで自分本位、自分勝手に、久紫を想い続けていたのか。

 ここに来ての気づきは、小春の気持ちをより一層重くさせた。

(……いいえ、そうだとしてもよ、小春。それでもきちんとお伝えしなくては)

 言うと決めたのは、他の誰でもない自分自身。

 気後れを振り払うように一度頭を振り、荷下ろしを指示する絹江へ声をかける。

 港から崖上ならば家に戻るより近い。

 そう思っての提案に、絹江は少しだけ驚いた顔をしたが、ふんわり微笑んでは了承してくれた。

 ――興味本位で着いて来る気配を見せた、涼夏の首を小脇に抱えつつ。

 いくら回復していると本人が宣言していても、演技していたとて床払いは最近。幽藍に着くまで頭を抱えていたとしても、やはり、無茶をしないか心配しているのだろう、と絹江の行動を無理矢理こじつける小春。

 絹江の目に夜叉が宿っていようと、涼夏の手が助けを請うように宙を掻こうと、振り返ることなく真っ直ぐ崖上――久紫の家を目指す。



 久しぶりの幽藍の景色を眺めながら歩けば、山の所々に薄紅の桜が覗く。

 そこから花びらが舞うのを追っては、改めて帰ってきたのだと深く息をついた。

(最後に訪れた時は冬の初めでしたのに。……もうすっかり、春になってしまって)

 気づけば半年も本島にいた。その間、閉塞的な本家からは一歩も外へ出られなかったせいか、季節の感覚が未だ戻らず、不思議な気分を味わう。

 それでも吹く風は暖かで、小春が生まれた日の訪れをもうすぐと報せてくれる。

 つい一ヶ月前までは考えられなかった、住み慣れた場所にいるという実感は、前へ進む度に増し、本島で負った疲労をほぐしてくれるようだ。

 次第に軽くなる足取り。

 海岸沿いを行けば誰とも会わず、崖上に続く坂道を登り出せば、戻ってきたのだという思いが一層高まった。

 ――しかし。

(なにか、おかしい……?)

 あと少しで辿り着く、そのはずなのに違和感がある。

 半年離れていたとはいえ、ここまで違いを感じるものなのか。

 嫌な予感から焦燥に駆られ、早足で登り切ったなら、

「え…………」

 目の前に広がる光景に絶句する。

 そこに在ったのは遮る物のない青空と――炭に沈んだ家の輪郭。

 全焼後、雨風に晒された続けた風体は、小春の鼻に焦げついた匂いを嗅がせた。

「異人さんは……そんなっ!?」

 黒い残骸に慌てて飛び込もうとし、はっと我に返っては坂道を、先の町を見る。

 悲観に走るのはまだ早い。

 逸る鼓動を胸に、小春は今一度、志眞の企てを思い出す。

 ――彼に良い縁談をあげたんだよ。

「さつき様……」

 きっと彼女の家に久紫はいるはずだ。


* * *


 適齢期の娘が、既婚者の男を訪ねて、彼の妻である女の家に赴く――。

 傍目からではどの角度から見ても、立派に痴情のもつれ、修羅場である。

 もちろん、普段の小春であれば躊躇うところではあるが、崖上の光景はそれを凌駕するほどにすさまじかった。

 そんな小春を笑顔で迎えたのはさつきの家の手伝い。小春の顔色が青ざめていることに気づくなり、「お茶をお出ししますので、少しお休みください」と慮る彼女に、小春はそれよりもと久紫の行方を尋ねた。これまた作法も何もあったものではない、不躾な問いかけ。けれど手伝いは眉を潜めるより先に、小春以上に血の気を引かせると、慌てて小春を外へ追いやった。

「困りますよ、お嬢様。今、屋敷でその名は禁句なのですから」

「で、ですが、さつき様とご婚姻を結ばれたと聞いて」

 これに納得した素振りで一つ頷いてみせた手伝いは、殊更小声で言う。

「ああ、お嬢様は本島に行ってらしたんですっけね? あれ、破談になったんです。しかもそのせいでさつき様、本島に行かれてしまって」

「破談……さつき様が本島へ?」

「ええ、ええ。そのせいで旦那様と奥様が酷く気を揉んでおられまして。本当は人形師様を幽藍から追い出したいところでしょうが、本家と幸乃家の手前、個人の内情でどうこうできませんからね」

 だから禁句なのだと手伝いは言う。加えて、しばらくはこの屋敷に近づかない方が良いと忠告を受けた。

 人形師を擁護する幸乃の娘が来ては、主の癇癪が面倒だから、とも。

 手伝いの砕けた物言いには呆気に取られつつも、話しぶりから久紫自身は健在であることを知り、一先ず安堵した小春はもう一つ尋ねる。

「では、瑞穂様はいらっしゃいますか? 少しお話をさせていただきたいのですが」

 ほとんどの時間、家の手伝いか人形師の世話役をして過ごす小春にとって、同年代で話せる友人と言えば瑞穂くらいなもの。小春以上にそつなく仕事をこなす瑞穂ならば、短い時間であっても、この半年にあったことを教えてくれるはず。

 それに、彼女ならば恋人の伸介経由で久紫のことを知っているかも知れない。

 そう考えてあげた名に、手伝いは瞳を和ませて答えた。

「瑞穂様……ならば、ご実家の方にいらっしゃいます」

 さつきの兄である伸介の恋人とはいえ、瑞穂は彼女と同じく、この屋敷の手伝いの一人であったはず。それなのに畏まった口調。

 小春が不思議そうに見れば、手伝いはただただ苦笑する。

 瞳の嬉しそうな色を濃くして。

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