初春 橙の狙撃手
その時の音を、どう表現したものか。
膨らませた紙風船より甲高くも重い音が、橙の軌跡を描いて、小春の前から志眞を攫っていった。理解が及ばず軌跡を追えば、みかんの汁を血のように頭から流して蹲る志眞がそこに。
軌跡の源を追えば――。
「ね、姉……様?」
寝間着姿のまま陽の光に照らされた姉の構えは、喜久衛門がいつぞや教えてくれた球技の扱いに似て勇ましい。
代わる代わる志眞と姉を見比べる。つまりこれは、
「姉様が……みかんを投げて……?」
「小春さん!」
名を呼ばれて涼夏の方を向けば、ずんずん近寄り、ぺちりと頬を張られた。
志眞を一投にて伏した力と同じ出処とは思えぬほど、身内贔屓の平手打ち。
一応頬を押さえはしたものの痛みは一切なく、驚くばかり。
「姉様、治って……?」
「ええ、治りましたよ? 治ってますとも!」
ふんぞり返る長い髪の澄んだ瞳の姉に、小春は涙を浮かべかけるが、もう一度ぺちりと叩かれては、きょとんとするしかない。
「それで小春さん? 貴方、どうなされるおつもりかしら?」
涼夏にまで「どう」と尋ねられ、困惑した。
「どう……? いえ、それより姉様の方こそ、何故――」
「私のことは二の次です。そう、最初から二の次なの」
ここで涼夏は自分を見て惚ける志眞を睨みつけ、小春へは優しく微笑む。
「小春さん? 私はほら、この通り。あの馬鹿らしい病から抜け出したの。これでふりだし。わかる? ふりだしなの。あとは本当に貴方次第」
夢ではないかと思う。だって、あまりに突拍子がない。
涼夏は確かに、朝方まで例の澱んだ瞳であったはずなのに。
けれどその彼女が、真っ直ぐ自分を見つめて問うのだ。
ならば、小春の答えなぞ、やはり最初から決まっていて――。
* * *
「実は、ね。一年前の冬……丁度貴方が倒れた辺りかしら? みかん、美味しかったでしょう? その頃から徐々にだけど、“外”がわかるようになっていたの」
舌をちろりと出して笑う涼夏に、小春はまだ夢心地でいた。
二人が今いるのは、幽藍を目指す船の甲板。妙に浮かれた様子の信貴は仕事があるからと本島に残り、絹江はと言えば、涼夏の元気な姿に船内で頭を抱えている真っ最中。病に臥せる姿を一番心配していたのだから、本来であればこの姿を喜びたいところではあるのだろうが……まあ小春も、母の苦悩はわからなくもない。
そんな母と妹の気持ちも知らず、涼夏はこれまでの経緯を忌々しげに語り出す。
結局、破談になったあの滑稽な品評会は、最初から仕組まれていたことだ、と、
「そうして “外”に出てくるようになった私は、あの坊ちゃまが春終わりに訪れた時、不穏な話を聞いたの。膿出しをしたいっていう、ね」
最近、春野宮の経営に不審な点がいくつか表出した、という話から始まり、どうやら先代の眼を逃れた膿が悪さをしている、という結論に到ったという。
それでどうしてあの品評会が開かれることになったのかいえば、坊ちゃま・志眞の提案だった。姉をダシにして妹と婚姻を結んでおけば、幸乃頼りの貴方がたは安泰である――と膿と目星をつけた者たちに打診したのだ。その際、姉云々は当主には秘密、でなければ厳しい叔父は婚姻を許さぬだろう、と念を押して。
志眞から膿と評された者たちも、次期当主には彼が相応しいと思っていたようだ。ここで志眞に従っておけば、後々更に甘い汁が吸えるとも考えて、少し怪しめばわかるだろう罠の上に自ら乗ってしまった。
春野宮財閥の運営は、世間で囁かれるほどワンマンではない。
とはいえ、現当主への秘め事を許せるほど、心が広くも愚かでもなく――。
ゆえに了承すれば膿と見なされ、拒絶すれば立派な側近と認められる、はずが。
「中々どうしてあの坊ちゃま、大した眼力を持っていらっしゃる」
皮肉げに笑う涼夏に、小春は婚姻の拒絶を宣言した時の様子を思い返す。
意見を言えというから本心を答えたなら、志眞が使えないと評した連中から、奇妙な非難が浴びせられた。忙しい自分たちを呼んだのだから、当主の前なのだから、とどれも婚姻を迫るモノばかり。
終いには志眞へ話が違うと詰め寄り、逆に当主から睨まれる始末。
最初から志眞と当主は結託していた。というか、やはりこれすら志眞が最初に提案したことだという。
志眞が選んだ相手は、全て春野宮の膿そのものの連中だったようだ。
だが、その中には一度たりとも非難に加わらなかった、彼の兄たちも含まれていた。何故と問えば、愉快そうに返ってくる「ぼんくらだから」。
――もしかしたら、志眞にとっては膿こそがついでで、この兄たちを名ばかりの重役から降ろすのが目的だったのかもしれない。
後に小春がふと思いついた志眞の考えだが、存外的を射ているような気がして、早まらなくて良かったと身震いするのは先のこと。
そして、もう一つ気になることを問う。
もしも自分が頷いてしまったら、どうしたのかと。
首を振る確信でもあったのか尋ねれば、色濃い笑みが橙の汁塗れの顔に浮かんだ。
「いいや? 確信なんか最初からないよ? 私――いや、当主も、君が春野宮に来るのなら、膿を抱えたままでも良かったんだ。彼らはいつでも排除できるし、なにより幸乃との関係が強固になる。けれど誤算があってねぇ。当の幸乃殿に反対されてさ。君が良いというならともかく、そうでなければこの話はなしにして貰いたい、と。せっかくダシである姉君を、本当に治せそうな医者まで用意したって言うのに、最後の最後で困った条件を付けられたものだよ」
「つまり……あの婚姻は本気で?」
「もちろん。そのために色々根回ししたくらいさ。ま、幸乃殿はそれを知らないんだけど。……知ったら後が怖いかな? でも――」
ここで志眞は小春の頬を撫で、
「幽藍は春野宮のもので、君ら家族が今後もあちらに住むのなら、彼とて今までと変わらず春野宮に仕えてくれるだろう。馬鹿な奴らだよねぇ。婚姻なんかしなくても、君たちは最初っから人質なのに。それすら気づかないなんて――痛っ!?」
懲りもせず寄せられる顔に、みかんがぐりぐり押しつけられた。
「……作戦とやらは終わったのでしょう? お願いですから、これ以上私の妹に触れないでくれません?」
ふふふ、と毒々しい思い出し笑いをする涼夏に、小春は隠れてため息をつく。
企てを聞いて後、涼夏の意識は完全に回復していた。けれど面白そう、もとい、不穏な話を放ってもおけず、病んだ演技を続けていたらしい。
もっと早く言ってくれれば、こんなややこしい目には合わずに済んだのに。
そう文句を言えば、
「病に臥せるか弱い女人をダシに使うなんて……。貴方なら許せて?」
鮮やかな笑顔は絹江に似て、底知れぬ暗さを秘めている。
だからこそ、涼夏には言えないことがあった。
みかんを投げつける度、煌く志眞の眼が、最終的に涼夏を完全に捉えていたことを。小春を見る時の眼とは明らかに違う光は初めて見るもので、それだけに恐ろしく、伝えるのも難しい。
と、幽藍の方角のみを眺めていた涼夏が小春の方を向き、淋しそうに笑った。
「ねぇ、小春さん。恋、してる?」
脈絡のない話に、涼夏が病む前の姿を呼び起こす。
……多少美化されているものの、あまり変わらない破天荒さ。
病に臥せているのを長く看ていたせいか、線の細い人と誤認していたようだ。
小春の長い沈黙をどう受け取ったのか、涼夏は続ける。
「私ね、病んでたくせに、あの人に一度も想いを告げたことはないのよ?」
相思相愛。
そんな風にまで噂されていた二人の真実に、小春は驚きから姉を凝視する。
「好きだって、愛してるって、何度もあの人に言われたわ。それだけで幸せだったの。自分の想いも当然、彼に伝わってて。だから、想われてる、そう勘違いして」
罰だったのかもね、と涼夏は笑った。
「私からそんな言葉を吐いて置けば、たぶん、病むこともなかったんじゃないかって思うの。後悔とか、くだらないものが回って、押しつぶされたりとか、ね」
一度涼夏の視線が下に落ち、上がっては艶やかに笑う。
その後で、急に透明な顔をみせた。
「だから小春さん。誰か想う人がいるのなら、とっとと伝えて頂戴ね? 私みたいになった貴方なんて、見たくないもの」
最後にはやっぱり笑って、勝手なことを言う。
けれど小春はおずおず問うた。
「その方が誰か、別の方を遠くに見ていても? その方が……既婚者でも?」
「……ずいぶん手強い恋をしているのね、貴方。臥せっている間に、どれだけ面白いことになっていたのかしら?」
至極残念そうに茶化し、
「そうねぇ……。気分次第じゃない? 私の場合は散々愛を囁かれといて、一片も返さなかったから、ああなってしまったのだし。とりあえず、会ってみれば良いじゃない。駄目ならお友だちとか、ね。いや待て、告白してからのお友だちって、気まずいわよねぇ?」
悩み始めた涼夏を他所に、小春は久紫に会うことだけを想い浮かべてみる。隣にさつきがいても胸は騒がず、けれどやはり、誰かを重ねて己を見られるのは苦痛。
と、沈む小春に関係なく、悩む涼夏がはっと顔を上げた。
「いやいや、でも、とりあえず告白しとけば、私はある程度特別、よね?」
いやしかし、と続ける言葉は聞かず、小春は目が覚めたような顔つきになった。
そう……誰を想い、重ねていようと、語る言葉は全て己のモノだ。
想いを告げる、そんな深刻なものでなくとも良い。
癪だけれど、志眞が以前、言っていた言葉を思い出した。
――ちゃんと言わなくちゃさ、伝わらないよ?
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