冬 沈む本心

 幸乃信貴の目利きは、何者にも代え難く希有である。

 彼が春野宮に仕えるようになった経緯は、今となっては当人以外知る者はなく、当人も笑うばかりで語らないため、子細は誰にもわからない。それでも、ある日ふらりと先代の横に現れた青年の能力が、今の春野宮の確固たる地位を築くのに欠かせなかったのは、誰もが知るところだ。

 そう、春野宮以外にも、彼の手腕は既に知られており、引く手も数多。

 年を重ねた分だけ、誘いの地位も報酬も、増していくばかり。

 しかし、当の本人はいくら好条件を突きつけられても、春野宮に留まり続けた。

 偏に、先代への恩義ゆえに。

 そんな春野宮の先代は、少しばかり前に逝去する。

 慌てたのは側近たる彼に長い間寄り掛かり過ぎた、肥えし本家の膿ども。

 引き続き留める手はないか、愚考する彼らに一計を案じた者がある。

 柔らかな人好きのする笑み。

 本家の子息の中で、兄たちより次期当主に近いと噂される彼は、言う。

「時代錯誤ながら、人質、というのはどうでしょう?」と。


* * *


 こちらに来てからというもの、掃除どころか作法の一つも習えと言われず、小春は暇を持て余していた。監視役と思しき険しい顔の手伝いに、自分は何かした方が良いのではないか、そう尋ねれば、意外なほど晴れやかに微笑まれ、

「いいえ。小春様に作法なぞ、必要なしとお見受けいたします」

 また、険しい顔に戻る。

 だからとぼんやり月なぞ眺めていれば、絡みついてくる腕があった。

「そんなところに座りっぱなしじゃ、身体が冷えてしまうよ?」

 いつでも笑みを絶やさない男の囁きにも慣れ、諦めに似たため息を吐く。

 静かな抵抗と腕に手を乗せれば、逆に包まれてしまった。

「へぇ? ずいぶん綺麗な手になったじゃないか」

 言葉通り、小春の手は家事から長く離れていたため、あかぎれが薄まっていた。

 あれほど嫌っていたものでも、なくなると少しばかり寂しい。そう思わせるのは、あかぎれた手が確かに、小春の生きた証しであったせいかもしれない。幼い日より、家事の手伝いに勤しみ、痛みや憂いを引き起こしながら、同時に、必要とされる勲章のように刻まれた証し。

 今の小春には望めない、ひやりとする、厭う痛みの名残は心に突き刺さるのみ。

 生から離れた手は、本来のきめ細やかな滑らかさの、死に近い冷たさを保つ。

 その手触りを楽しむように、志眞は抱きしめたまま小春の手を弄んだ。

「小春ってさぁ。肌、綺麗だよねぇ」

「…………ありがとうございます」

 本家に来てからこの方、短い髪を恨めしく思わない日はない。髪がもっと伸びていれば、首筋へ落ちる不躾な唇を、少しでも邪魔してくれただろうに。

 笑う揺れが小春にも伝わり、月が歪んだ形になる。

「……志眞様」

「何かな?」

 首を捻れば倒され、志眞の胸に身体が押し付けられた。

 自然と見上げる形になれば、仇のように嫌う顔が眼前に広がる。

「貴方は……嫌ではないのですか? このような……策略染みた婚姻が」

 頬を撫ぜる手にも構わず見つめ続ければ、笑んだ唇が目蓋に落ちる。

「そうだねぇ……。確かに婚姻なんて、窮屈だし、面倒だ。女の加減を一々気にしてやるなんて、馬鹿らしいだろう?」

「……それでは、わたくしは女人ではない、と?」

 不思議そうな顔で見れば、志眞は心底おかしそうに抱く腕を強めて笑う。

「まさか。君は最初から女であったよ? でなけりゃ、こんなことはしないさ」

「っ!」

 上向く顎下をざらりと舌が這う。

 しばらくじっとする志眞に合わせ、小春も身動き一つせず。

「……ふぅん? みかんは来ない、か。どうやらあれは、小春の唇に触れようとするとやってくるらしいね?」

 小春の下唇をなぞった指を志眞が舐め取れば、みかんがそのこめかみを打つ。

 かなり力の入った一投だったようで、ぼとりと床に落ちたみかんは拉げていた。

 またくつくつ笑う志眞は、なおも小春を胸に抱いたまま。

「何の話だったっけ?……ああ、そうそう。婚姻の話だ。面白いこと訊くよねぇ、小春は。私が嫌じゃないかって? どうしてそう思うのか、すごく不思議だけれど」

 逃げられないように、しっかり腕が這わされ抱きしめられる。

 頬を這う手が首を伝って肩を掴んだ。

 頭に、目元に、額に、鼻先に、頬に、順に柔らかな感触。

 悲鳴も上げない小春に、志眞は耳にも唇を落としながら、

「こんな風に小春で遊んでも、誰も咎められない、なんて、君が好きな私としては、充分良縁だと思う――だっ!?」

 どこから飛んできたのか、続々襲うみかんは、計算されつくしたように汁すら小春には付けず、志眞が小春から離れるまで、彼の顔面のみを殴り続けた。



 酷い目にあったよ、と汁塗れになってまで笑う志眞を、それでも絆されることなく嫌う己を、一人、小春は考える。

 理由は明白。

 傍目には小春を口説いている風にしか見えないが、その目はいつだって何が益かを小春に問うてくるのだ。

 正直、息が詰まる。

 肉親のためにここまで来て、望まぬ縁談に落ち着こうとする小春とは対照的に、志眞はそんな小春の内情をひっくるめて、玩具程度にしか考えていない。

 このまま婚姻を結べば――……

 先を想像すればあまりにおぞましく、青褪めた顔で己の身を抱く。

 しかし、涼夏が治るのなら……と、自暴自棄とさえ思える気持ちも同居していた。

「想い、想われ、なんて、疲れるだけ……」

 軽く、重い、呟き。

 ぽて、と小春の頭に乗る物がある。

 軽い衝撃はあったが、微々たるもので、何事かと去らぬ重みを手に取った。

 目の前まで運べば、みかん。

 まるで小春を責めるように、橙の無表情は冷たく見つめ続ける。

 それにどういう訳か重なる影は、似ても似つかないのに。

 次第に歪む視界を止める術さえなく、小春は崩れてしまう。

 額に押しつける冷たさは、あの日の手よりも、ずっと、冷たい。

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