冬 削がれる思い

 そう長い時間でもなかったはずだが、船の揺れに慣れてしまったのか、陸に足を着けた途端、小春の身体がふらりと傾いだ。

 その肩を当たり前のように抱き留めたのは――

「大丈夫かい、小春?」

 払う気力もなく見上げれば、相変わらず気味の悪い、志眞の笑顔がそこにある。

 思い出されたのは昨日の、さつきとのやり取り。



 さつきから出た名を乾いた舌がなぞった。

「志眞……様、が?……何故?」

 小春が知っている限り、優男に見える志眞という人物は、人好きのする笑みを絶えず浮かべている割に、益にならぬことを自らするほど優しい性格ではない。

 当初は志眞に好印象を持っていた様子もあったさつきだが、回を重ねる内に潜む本性に気づいたのか、眉根を寄せて首を振った。

「わかりません。ただ、今回の涼夏様の件とて、志眞様と共にもたらされたお話と聞きました。分家のわたくしが言うのも何ですが、あの方が関わっている以上、何らかの謀があるのでしょう」

「その……さつき様が婚姻を結ばれる、お相手の方というのは?」

「……不甲斐ないお話ですが、わたくしも知りません。ただ、両親はとても良い縁談だから、と微笑んでおりましたが……」

 さつきの顔が苦虫を噛み潰したように歪む。

 彼女の親が滅法甘いのは知っているが、反面、“可愛いさつき”という型から彼女を逃がさないよう必死なのも知っている。

 調理実習を続ける中で、一度だけ現れたさつきの両親の使い。幸乃家ですら驚く金額を押しつけて、さつきにこれ以上、包丁や火といった“凶器”を使わせないで欲しい、と言うのだ。

 これに怒ったのは、さつきと、何故か絹江。

 猛抗議の果てに、今までの調理実習がある。


* * *


 短い髪に触れる手がある。

 放っておけば、今度は右手を撫でてくる。

「…………いい加減、お止しになってください」

「良いじゃないか。ここには、私と君だけなのだし」

 正座する小春の後ろで寝そべり、先ほどから癇に障る手遊びを楽しむ志眞は、起き上がっては小春に寄り添う。二人きりの今、払い除けることも可能ではあるが、悔しいかな、小春がいるのは春野宮の本家。

 下手に騒いだものかどうか、悩む小春の肩にしなだれかかり、

「それにしても遅いねぇ。幸乃殿と奥方。どうしたんだろう、ねぇ?」

「っ!?」

 首筋に口づける柔らかさを感じ、あまりの怖気に仰け反って身を捩る。

 屈辱に赤らむ小春の顔を見た志眞は、愉しそうにくすくす笑った。

「面白いねぇ、小春は。嫌なら嫌って、ちゃんと言わなくちゃさ、伝わらないよ?」

「……言わなくても、態度で分かっては貰えませんか? わたくし、貴方がとても、誰よりも嫌いです」

「ありがとう。私は初めて会った時から、君が好きだよ」

 頬に伸ばされる手をきっちり払い除ける。

 行き場を失った手が次に置かれたのは、崩された正座の足。着物から覗く肌。

 悲鳴を上げる暇なく引きずられ、寝転がされた先、目の前には志眞の顔がある。

 冗談にしてはあまりに恐ろしい体勢に、すぐさま起き上がろうとする両の腕が押さえつけられた。

 足掻こうとも、縫いつける手のひらはびくともしない。

 青褪める小春へ覆い被さるように、ぺろりと唇を舐めた志眞の顔が近づき――


 べしっ


 軽く沈んだ。

「ひっ!?」

 けれど驚いたのは小春だけではなく、

「…………みかん?」

 興ざめした声と共に身を起こした志眞が持つのは、紛れもないみかん。

 一体どこから飛んできたのか。見渡したところで、襖も障子も閉じられたまま。

 惚けていれば、小春の耳に待ち望んだ人の足音が聞こえてきた。

 志眞と二人きりの状態から解放される、そう安堵する暇もなく、

「小春、そのまま寝てたら問題あるんじゃない?」

(よくもそんなことを……!)

 白々しい台詞に、小春は唇を噛み締めながら身を起こした。

 志眞は自分が引きずり倒したことを忘れたかのように、指摘されて居住まいを正す小春へ満足そうに微笑むと、相手を出迎えるように襖を開く。

 あまり見ない志眞の行動に眉を潜めた小春は、すぐにその理由と出くわした。

 てっきり父母だけと思っていた足音は、しかし、ぞろぞろ続き、その顔がどれも知らない者とくれば、小春は身を硬くするしかない。先頭を歩いて来た両親も、困惑と憤慨を混ぜた、おかしな顔つきをしていたなら、なおさらだ。

 勢ぞろいした者たちは、一様に小春――もしくは志眞を見、

「どう思われますかな?」

「よろしいかと」

「ふむ。私も良いと思いますが」

「あれはどうでしょうね」

「何、いくらもせず治ろうというもの」

 あかぎれた手が無遠慮な目に注視されて、小春は青筋を浮かべた。

 しかし、小春の気持ちなど完全に無視した品定めは続き、最後に厳めしい顔つきの老人が小春を一瞥する。

 緊張は瞬きの間。

 喋ることもなく去った老人が出て行くのに、またぞろぞろと人が去り、残ったのは父母と、険しい顔をした見知らぬ女が一人。


* * *


 初めての幽藍の外だというに、本家での生活は窮屈極まりない。

 父母と涼夏、気の置けない手伝い数人で、同じように過ごすと思っていたのに、志眞が入り浸るばかりか、監視のような手伝いが一人、ずっとこちらの挙動を窺っているのだ。

 涼夏を治すはずの医者は、まだ来ず、結局正月を越えてしまった。

 その際にもまた、ぞろぞろと人がこちらに来ては去り、あれから会話の一つもない父母の顔が、またも不快に彩られる。

(…………異人さん、きちんと食べてらっしゃるかしら?)

 幽藍がある方角の、寒さに遠い空を見上げ、小春はさつきから聞いた久紫の話を思い出していた。さつきの料理はともかく、手伝いの料理に手をつけなかったというのは、初めて聞く話であった。

(実はわたくしが出す料理にはたまたま入っていなかっただけで、あの方、かなり好き嫌いが激しかったのでしょうか?)

 さつきが聞けば、間違いなく「貴方は何を聞いてらしたの!?」と憤慨しそうなことを考え、

「……変、ですね。わたくしは今、世話役でもないのに、こんな心配」

 心を移すべきは涼夏の治療のはずなのに。

 気づけばすぐに思い起こされる片眼鏡の面影に、小春はふぅと息を吐いた。

 何かを問うような、けれど恐ろしい瞳を、あれほど拒絶し逃げ続けた自分。どれだけ明るい予想を立てても、久紫はもう、自分を嫌っている気がしてならない。

(いいえ、これで良かったのでしょう)

 久紫の世話役を逃げ出した辺りから、散々周りに「鈍い」と言われ続けた小春だが、さすがに察せたことがある。

 本家の団体が、折々に小春を見に来る理由。

 あれはきっと、志眞と婚姻でも結ばせる気なのだろう。

 渋い父母の顔を見続ければ、嫌でもわかる。

「小春」

 呼ばれて随分と柔らかく後ろから抱きしめられた。

 惚けたように見上げれば、人好きのする志眞の笑み。

 嫌がる素振りもなく大人しくしていれば、少しがっかりした顔が浮かぶ。

「やれやれ。君と来たら最近、全く嫌がってくれなくて、私としては興ざめも良いところなんだけれど?」

「……呆れているだけです。みかんの攻撃をあれだけ受けて、よくもまあ……恐ろしいとは思わないのですか?」

 眉根を寄せてやれば、ふんわり笑って、

「ああ、あのみかん、おいしいよねぇ。でも、もう少し酸味が強い方が、私は好きだな」

 小春を抱きしめる腕が多少力を増し、逃れかけた目元に唇が寄せられる。

 これも受けるのみにすれば、楽しそうな笑い声。

「ねえ、もしかして、嫌がらなければ私が君から興味を失くすとでも?」

「……まさか。少しは妥協しなければいけないと、そう思ったまでです」

 ふぅん、と笑い、もう一度、今度は耳の下を噛むように口づける。

 冷ややかなそれにも目を閉じ耐えれば、離れてくすくす笑う声が響く。

「本当、小春って打算的で好きだよ。私たち、良い夫婦になれそうだ」

 察していたとしても、告げられればそれなりに怖気は走るもの。やはり、と思う反面、別の言葉が口をつく。

「世迷言を……何故わたくしが、貴方などと夫婦にならなければいけないのです?」

「それこそ世迷言だよ。わかっているのだろう? 賢い賢い君の事だから。大切な姉様を治すための、代償だと」

 開放され、寄り添う志眞を払わず、離れもせず、小春は俯く。

 くすくすと耳障りな音がいたぶるように、耳元へ寄せられた。

「君、さ。彼、好きだったろう?」

 ぞくりと泡立つ囁きに、一度だけ震えた。

 ようやくいつもの反応をする小春へ、更に笑みを深めた志眞が告げる。

「さぞかし悔しいよねぇ? それなのに、私と夫婦にならなきゃいけないなんて。それはそれは気持ちが揺らぐよねぇ?」

 向き合う形で肩に手が添えられ、とん、と内に引き寄せられる。

 額をその胸に預けたなら、子を寝かしつけるように背中が優しく叩かれた。

「でも、私はね。考えたんだ。君が気持ちを置いたりしないように、彼に一片たりとも遺せないようにするには、どうしたものかと、ね」

 嫌な予感に顔を上げれば、額に唇が落とされ、また胸に戻される。

「だから、彼に良い縁談をあげたんだよ。ほら、君と一緒にいたあの……さつき、って分家。彼女との――」

 知らず、ぎゅっと志眞の袖を握った。

 小春の目は見開かれていた。

「彼女の親、ねぇ。その縁談、とても気に入ってくれてね? なんでもあのお嬢さん、かの人形師にえらくご執心というじゃないか。やあ、良かった良かった」

 何が良いものか。

 突き飛ばし、けれど揺らぎもしない、腹立たしい顔を睨む。

 満面の笑みに迎えられ、叫びもせず、無言で訴えた。

 さつきは、諦めたのだ。自分の意思で。慕う、久紫のことを。

 それなのに、久紫との縁談なぞ組めば、彼女がどれだけ傷つくことか。

(異人さんだって――)

 しかし、訴えは急速にしぼんでいく。

 これを受けて、志眞がまた、小春を胸に取り戻す。香木の匂いに吐き気を覚えながら、もしかすると久紫は別段、困らないのかもしれないと思い直した。

 言伝も満足にできない自分には、彼の思いを察し、語る資格などない。

 さつきとは付き合いが長くても、久紫とは短い。

 決めつける要因も、表情は分かりやすくとも内面の分かりにくい彼では、たやすく揺らいでしまう。

 くすくす笑う頭上を憎らしく思いながらも、小春は香木の匂いに身を任せるのみ。

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