冬 眼差しの恐怖

 恐怖に眠れず、仄暗い明かりにようやく平常心を取り戻した。

 小春は赤く腫れた目と青白い顔を、被っていた布団から出す。

 一度天井に投じた目を閉じ、気分の悪さに顔を顰めては髪を握り締める。

 久紫に、言いそびれたことがあった。

 しかし、あの家へ行くのが、彼の眼に合うのが、今はただ――恐ろしい。


 ――昨日の朝方に、

「じゃあ小春、またね」

 ふんわり微笑んで去る志眞の背を、小春は腹立たしい思いで睨みつけた。

(別に貴方に会いに行くわけではありません!)

 春野宮分家一同や他の目がなければ、声に出してきっぱり言っていただろう。

 志眞を帰す有難い船から目を逸らせば、信貴と絹江の心配そうな顔とかち合う。

「本当に良いのか、小春?」

 父の問いに小春は苦笑を返した。

「悔しいですけれど、志眞様の仰ったとおり、わたくしは姉様が大事ですから。それに――異人さんのお世話は、他の方でも充分……できることですし」

 最後は自分を納得させるために言い切る。

 帰ってこない、今生の別れだ、というのではないでしょう?

 そう微笑めば、父母は揃って顔を見合わせ、揃ってため息を吐いた。

 仲の良い様子に小さく笑い、それに、と一つ息を吐く。

 世話役世話役と言っておきながら、最近では久紫自体が気になって、仕事もおろそかになりがち。いっそ少し距離を置いた方が良いのでは、そんな考えまで到っていたのだから、良い機会なのかもしれない。

「…………小春、貴方は良いかも知れませんが、人形師様は」

「はい。ですから今日、お伝えします。大丈夫です、きちんと異人さんが慣れていらっしゃる方々に、代わりのお世話を頼みますから」

「小春、あの、そうではなくて……」

 なおも言い募ろうとする絹江だったが、きょとんと見返せば、言葉を失くしたように詰まってうなだれてしまう。絹江が何を言わんとしていたのか、察した様子の信貴がその肩を叩いた。

「絹江、気持ちは分からんでもない。……いや、どちらかと言えば、私の方がもの凄ぉく分かる立場だが、お前が口を出しては筋違いになりかねん」

「あなた…………」

 疲労感たっぷりの絹江に、信貴が苦労性の微笑みを向ければ、

「いいえ、立場を考えれば分かるのは私の方です! 昔のあなたと来たら本当、仕事一筋、仕事が恋人で、こちらがどれほど苦労して――」

「ま、待て待て、先ほど筋違いになると言ったばかりだろうに」

 一転して攻め立てる絹江に、信貴は助けを求めるように小春へ目配せしながら、顔を真っ赤に染めて宥める。

 初めて見る二人の様子に小春が浮かべるのは困惑のみ。

 どうも冬に小春が倒れてから、絹江の様子がおかしいような気がする。信貴に対して遠慮がなくなっているような……。

 しかし、多少恥ずかしかろうとも、夫婦仲良きは子として誇らしくもあり、

「では、行って参りますね」

 にこりと笑って手を振れば、一度は仲良く振り返したものの、すぐさま絹江が詰め寄る様に、小春は苦笑を一つ零したものである。


 だというのに、また一時の感情を持て余し、大切な言付けを忘れて逃げ帰った挙句、恐ろしさから久紫の下に行けないとは。

 昨日の行動の全てが浮かんで、頬が照るのを止められない。

 想いが通じたのかと思ってしまった。

 唐突ではあったが、嬉しくもあり気恥ずかしくもあり。幸乃の娘と呼ばれ続け、当たり前に受け止めていた耳に、囁かれた名は耐え難いほどに甘く、切なく胸を締めつけられ――。

 けれど、「スマない、忘れてクレ」そう言われ、視線を交わせば浮かぶのは熱病。

 不自然な連なりを小春なりに繋げてみれば、出された結論がある。

「どなたを……想われてのことでしょうか?」

 呟いた己の言葉に、胸が悲鳴を上げる。痛みに歪む顔には涙さえない。

 あの時の空気に久紫も呑まれてしまったのだろう、だからこそ謝られた。向けられた視線の熱は、小春が姉に見つけたものと同様、誰かを恋い慕う澱んだもの。

 否、あの謝罪さえ、その誰かに向けられたものかも知れない。

 久紫が誰を好こうと、小春は構わないと思っていた。

(いいえ。今でもそれは変わらない。でも、誰かと重ねられるのは……)

 決して小春を見ない視線は、通り過ぎるだけの、遠くを一心に見つめるだけの視線は、姉だけで充分――。

「嘘です……。姉様だとて、嫌です。あんな、澱んだモノ……」

 その涼夏が治るかもしれないから、小春は本島へ向かうのだ。慕う久紫の世話役という、役目を放って。


 ことり……


 音に驚いて見やれば、いつぞやのみかんと――白い手。

 すぐさま布団を被って丸まり、先ほどまでの鬱屈など忘れて、襖からひらひら覗く、その手を凝視する。

 と、優雅な動きで襖の奥へ下がってしまう手。

 恐ろしさはあるものの正体を確かめるべく、丁度襖の隙間を覗ける位置に移動したなら、黒い瞳とかち合った。上がりかけた悲鳴を何とか呑み込めば、小春の挙動を眺めていたと思しき瞳が、柔らかく笑みを浮かべる。

 途端、安堵に力が抜けてしまう。

 瞳は惚けた小春を見届けるなり、隙間から消えた。

 しばし、動けず。

 ぎこちなくもようやく動作を取り戻した小春が、まず最初にしたことといえば、置かれたみかんに手をつけること。

 あの時となんら変わらぬ甘い味が、小春の鼻腔をつんと衝く。

 また、ぼろぼろ零れ落ちる涙。

 しかして、気分は驚くほど澄み切っていく。

「…………ありがとうございます、姉様」

 理解はできない。だが確かにあの瞳、あの笑みは、病む前の姉の、からかうような優しさに満ちていた。


* * *


 それからもみかんは置かれ続け、けれど涼夏の病みは変わらず。

 安堵する甘みに癒されながらも、家の手伝いをしようとも、小春は決して外へ出ようとはしなかった。時折窓を叩く音があっても耳を塞ぎ、絹江や手伝いが、何者かが会いに来たと伝えても、拒絶だけを繰り返す。

 一度だけ、縁側でぼんやり庭を眺めているところに、名を呼ばれた。

 恐ろしく切ないそれに慄いて向けば、玄関先に久紫の姿。

 縋るように呼び止める声も聞かず、すぐさま部屋へ逃げて布団を被る。

 遠いはずの玄関から、熱みを多分に含んだ音が鮮明に届き、それをあやすような母の声音に、ただ祈った。

 どうか彼をこの家に入れないで、と。

 やがて静かになった矢先、大きく開いた襖に震えれば、絹江の呆れた顔がある。

「異人さん……は?」

 怯えに掠れた声をかければ、

「お帰りになられました。小春――」

 窘める響きに布団を再度被り直す。隠すことなくため息を吐かれ、それでも小春は心の中で、久紫に会わずに済んだ礼を母にする。

 あの瞳を見なくて済むのなら、例えどんな酷い言葉で罵られようと耐えられる、そう思った。


* * *


 それから一ヶ月ほどが過ぎ、涼夏と共に本島へ向かう前日。

 何故かさつきが訪れた。

 否、来訪を突っぱねる暇もなく、乗り込んできたと表した方が正しい。

 おろおろする手伝いの女たちとは裏腹に、絹江は彼女を微笑んで歓迎し、憮然とした顔の小春には「逃げないように」と釘を刺す。いつもの笑みの合間から覗く、烈々たる気迫に押され、しっかり頷いてしまった。

 応接間の卓越しに、変わらぬおでこの広さと艶のある髪のさつきが、絹江にも引けを取らない目つきで小春と目を合わせる。

 そうして思い出すのは、この一ヶ月、さつきだけが訪れなかったという事実。

 困惑に尋ねようと開いた口は、さつきのため息に引っ込んだ。

「……こういう場合、久紫様をお慕いする者としては、喜ぶべきなのかしら?」

 じろりと睨まれて、目を逸らすと卓が力一杯叩かれた。

 驚いて視線を戻せば、思ったより力が出てしまったのか、さつきが痺れる手を振っており、と思えば案じを許さない涙目にキッと射貫かれる。

「で? 一体何が――いいえ! いいえ、どうせ貴方のことですもの、きっと仰ってはくださらないのでしょうね」

 心底悔しそうに吐き捨てる。喜ぶべきと言いながら、さつきからは苦々しい雰囲気しか感じとれない。

 ここで一つ、大仰に息が吐かれた。ため息に似て、己を諌めるようなそれ。

「まあ、貴方がどういうおつもりか、そんなことはどうでも良いわ。一つ、面白くも苛立たしい事実、教えて差し上げます」

 長い髪を梳き、

「わたくしが不肖にも己の技量も弁えず、ただ貴方がいないという理由で久紫様の下へ馳せ参じた時のことです。あの方、来る度にわたくしと貴方を間違えて……。加えて、わたくしの料理ならいざ知らず、貴方が信頼する手伝いの食事も碌に口にされなかったのですよ!?」

 ぶるぶる拳が震えている。殴られそうな剣幕に、小春はただただ呑まれた。

「しかも度々、手伝いたちに聞いていたそうです。“幸乃の娘は、まだ具合が悪いのか?”と!」

 知らしめる風に身を乗り出すさつきに圧倒され、小春は瞬きもできない。

「…………数え上げれば屈辱は、まだまだまだまだ……とにかくっ!」

 ばんっと先ほどより大きな音を立てるのを、痛くないのかしらと心配する。

 しかし、これは杞憂であろう。

 先ほどのように痛がる素振りなど微塵もなく、代わりに激情のみが目に宿る。

「……必ず、帰ってきなさい?」

 諭すような静かな声音。

 言われなくてもそのつもりだ。

 ――だが。

「嫌な、予感がするのです。実はわたくし、このほど婚姻を結ぶ運びとなったのですが……。この縁談、どなたからもたらされたと思われます?」

 婚姻と聞いてさつきの心情を思い、眉を寄せた小春は、これをもたらした人物の名を聞いて、顔の色を失くしていく。

「……春野宮本家のご嫡男、志眞様からです」

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