秋 温かな手

 看取ったと聞いて、死の間際、喜久衛門は独りではなかったのだ、良かった――とのたまった己が憎い。

 棚を背にぽつりぽつりと語る久紫の横顔を見つめ、小春は思う。

 どんなに怒りや困惑を内在させて、名を嫌うように見えても、確かに喜久衛門は彼にとって大切な人であったのだと。



「佐々峰雪乃とイウ女を知っているか?」

 問われて頷けば、

「俺はアノ女が大好きだった。そして――トテモ恐ろしかった」

 そう、語りだす。


 久紫が彼女と出逢ったのは、喜久衛門と共に異国を幾度となく放浪して後。

 幽藍とは別にある、本島での喜久衛門の作業場だったという。

 手伝いをしてくれる、そう喜久衛門から紹介された雪乃。

 当時、今よりもっと人見知りの激しかった久紫だが、雪乃にはすぐ懐いた。

 それは恋の類に似たもので、しかし、故に気づいてしまう。

 雪乃の、喜久衛門への想いに。

 不思議なことに傷つくことはなかった。

 寄り添う二人の雰囲気が、どこまでも穏やかだったせいかもしれない。

 喜久衛門は、彼なりに雪乃を愛していたのだという。

 長い間人形にしか興味を持たなかったために、その想いは不器用で下手で――。

 反面、二人が互いに心情を明かすことは終ぞなかった。

 雪乃の傍にいても、喜久衛門は花街へよく通い、そんな姿を見送る雪乃は決まって淋しそうな顔を見せていた。

 だが、心配する久紫に気づいたなら、安心させるように微笑んで言う。

「あの人は、研究熱心だから」

 だから知っている、わかっていると思っていた。

 ある日、喜久衛門の下に女が一人やってくる。

 騙り、たかろうとする女を彼は冷たく一瞥し、

「悪いが、ワシは生きた女の動きには用があっても、興味は一切ない。全て、人形がためのこと」

 非情ともとれる言葉に、女は口汚く罵って帰っていく。

 女を追い出した喜久衛門は、久紫と雪乃に悪戯っぽく笑ってみせた。

「しつこい女はこれに限るさね」


「…………ええと、それは……?」

 尋ねずとも、鼻の頭を掻く様子に、先ほど皆が妙な視線を送った理由を知る。

 つまり、久紫もこの手を使って、さつきを払ったわけだ。

 確かに効果はあった。否、あり過ぎた。

 すっかり今の今まで信じ込んでいた小春は、遅れてきた羞恥に頬を染めた。

 あの様子では、どうやら皆、真実に気づいていたらしい。

 対象であったはずのさつき本人にしても、もちろん。

 勘違いをし続けていたのは自分だけ。

 まともに久紫の顔を見られなくなって俯く。

 その頭に、苦笑混じりながらも、痛々しい声音が被さってきた。

「ソウ、追い払うための嘘ダッタ。だが、彼女は信じてシまった」


 ――生きた女の動きには用があっても、興味は一切ない。

 その喜久衛門の言葉に微笑み返した雪乃は、その日の夕方、姿を消した。

 喜久衛門は、子どもではないからと久紫を宥めていたが、久紫の目からは喜久衛門の方こそ焦燥にかられていたように見えた。

 そして明けての早朝、雪乃は近くの海岸に打ち上げられた。


 沈黙が落ちる。

 小春は自分たちとは異なる結果に、青褪め震えた。

 しかし、久紫の語りは先を告ぐ。

「雪乃は…………マダ生きていた。彼女が本当に“死んだ”のは、ソレから一年後。師匠が死ぬ、一年前だ」


 海岸から引き上げられた雪乃が目覚めたのは、それから十日ほど経ってのこと。

 丁度喜久衛門が席をはずしていた時。

 久紫の袖を彼女が引いた。

 目覚めに驚き、師に伝えようとする彼を、彼女は止めた。

 細い線のどこにそんな力があるのか、雪乃は痺れるほどの力で久紫の腕を握る。

「いいの、分かっている。あの人は私を見ないもの。生きてる、こんな女を」

 違う――そう言おうとも、届かないと知った。

 どうして目覚めた時、彼女の傍にいたのが喜久衛門ではなかったのか。

 部屋に戻った喜久衛門は、目覚めを喜び抱きしめたが、雪乃が自嘲気味に笑うのを見たのは久紫だけ。

 以来、雪乃は徐々に壊れていく。

 喜久衛門がいなくなれば、しばらくは去った戸を愛おしそうに眺め、ある時は頬ずりまでする。

 これを咎めれば、久紫をあやすように抱きしめて、

「可哀想な子。貴方も置いてかれたのね」

 そんな風に同情する一方、

「貴方じゃ、あの人のような人形は造れないんだもの、仕方ないわ」

 そう卑下して突き飛ばす。

 久紫はその頃、世間の評価に値する人形を造れるようになった反面、そのあり方に悩む時期だった。見透かされた思いで「俺は師匠ではない」と叫べば、雪乃は「そうね」と穏やかに笑うのだ。

 無駄だ、諦めろと言われている気がして、久紫は雪乃の看病を止めた。

 数日後、喜久衛門の下を訪れた久紫を待っていたのは、雪乃の死。

 白い布を取り払えば、熱病に浮かされた柔らかな表情が現れる。

 衰弱死だったと告げられながらも、呼べば起き上がりそうなほど穏やかな相貌。

 式を終え、打ちひしがれる喜久衛門に、久紫が掛けられる言葉などなかった。

 だからだろう。

 眠りについた雪乃の長く艶やかな黒髪を、無残に切り落とした喜久衛門を目の当たりにしても、ただ驚くばかりでいたのは。

 唖然とする久紫に向かい、喜久衛門は驚くほど正気を宿した眼で頭を下げた。

「久紫よ、人形の肌を――ワシには出来ぬ、お前の腕を、貸してはくれまいか」

 頼み事など一度もされたことのなかった久紫は、たやすく頷いてしまった。


「出来上がった人形の顔を見て驚いタ。アノ人形は、“雪乃”の死に顔にソックリだった。そしてアノ髪は違え様もナイ“雪乃”の……」

 雪乃の経緯を聞き、思う。

 果たしてその喜久衛門は、“雪乃”の死後、幽藍へ訪れた喜久衛門だろうか?

 変わらずふざけた態度の好々爺に、小春は胸元を握り締める。

 同時に、どちらも喜久衛門だったのだろうと結論を出した。

 そして、きっと――――。

「……いぶかしム俺に、師匠は晴れ晴れと笑って。その後はイツも通り、花街へ行ったりシテは、馬鹿をやって。……非情とも思えるホド“雪乃”の話題も口に出さず、造り出したアノ人形にさえ、関心を寄せず――そして、倒れた」

 自戒するようにまた俯いて目元を押さえる。

「長いコト、傍にイタんだ。寝てりゃ治るというノに、気づいたら寝所から消えるなんてザラで。人をからかっている、ソウ思ってた。だから、水が呑みたいとイウのに、マタ脱走する気かと問えバ、一瞬驚いた顔をして、バレたか、と」

 深いため息が漏れた。泣いているような、胸を押しつぶすような吐息。

 だが、こちらと合わされた瞳は、潤みもせず乾いていた。

「アリガトウ、と言われたんだ。仕方ないと背を向けた時に。スマナカッタ、アリガトウ、と。似合わナイ言葉に俺は振り向きもセズ……」

 振り向いていたら、どうなっていたというのか。

 小春は、しかし、察する。

「……喜久衛門様は蝕まれていたのですね。雪乃様と同じく、心を」

 囁きに熱が含まれてきた。

 これに久紫は慌てた様子で小春の背もたれを除いて寝かし、布団を首下まで掛ける。額に押し当てられた手はひんやり心地良い。

「ソウだ。師匠の葬儀が終わってカラ遺品を整理する中で、日誌を見つけタ。……他人の日誌なぞ、そうそう見るものではナイな」

 一体何を見たのだろうか。

 優しく額を撫でる顔は、苦悶に満ち、今にも泣きそうで。

 そっと、その袖を掴んだ。

 少しばかり見張られた瞳に、神妙な面持ちを向ける。

「わたくしは死にません。まだまだやりたいこともありますから。大人しく寝てれば治るのですから、ね?」

「ソウ……だな」

 額から離れた手は、もう一方の手と共に袖を掴む小春の手を包む。

 優しげな仕草に頬を染めた小春は、これは熱のせいと自分に言い聞かせる。

 そうして、次に告げたのは、

「でも…………やはり傍にはいないでください」

 途端、ハの字に曲がる久紫の眉に苦笑する。

「忘れられては困りますが、わたくし、これでも女人のつもりですから」

「アあ……。いや、違うゾ? 今のは深い意味はナクて、忘れて……いや、ソウでもなくて」

 しどろもどろになる、初めて見る様があまりにおかしくて、小春の目尻から一つだけ涙が零れた。

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