秋 片眼鏡の揺らぎ
気遣い、心配、全てが鬱陶しい。
大人しく寝て治せと言うのなら、お願いだから独りにして頂戴。
しかし、ここは久紫の家。出て行けと言われる身は己で、言う資格のある人形師は傍らで、労わる視線を投げてくる。
幸い、倒れてからずっと、呼べば応えてくれる手伝いのお陰で――彼女が絹江へ連絡に向かう間を別にすれば――久紫に頼る機会はほとんどない。
それでも彼が小春の傍に居続けるのは、偏に信用がないせいだ。
「……小春さん、また脱走しようとされたのですってね」
刺を存分に余すことなく含ませ、見舞いに訪れたさつきの第一声がこれ。
ぶり返した熱にふいっと顔を背ければ、深々とため息がもたらされる。
「何を考えていらっしゃるやら。久紫様の看病なんて、羨ましい……もとい、貴重な体験をご自分からふいにされるなど」
林檎の皮を滑らかに剥き、小春に小さく切り分けたのを渡してくる。多少歪な形ではあるが、広がる甘さは熱に心地良い。
さつきがどうぞと渡すのを、久紫も躊躇いながらではあるが口にした。
林檎では味はさほど変わらぬというのに、驚きに開かれる瞳と、艶やかに笑むさつきを見比べ、内心良かったと思いながらも、顔はふてくされたまま。
「もう大丈夫だと思ったんです」
「素人判断も甚だしいですわね。……その実、小春さん、長引かせたいだけなのでは? そうすれば久紫様、ずっと傍にいてくださいますものね」
ああ羨ましい、と顔を背けるさつきに、
「……ソウ、なのか?」
乗る久紫の笑いを堪える様に、妙な苛立ちを覚えた。
「違います。全然、全く、そんなつもりはございません!」
「まあ、いいですけれど? わたくしとしては、脱走なんて無茶はなさらず、早く治って欲しいものですわね? まだ習得していない技もありますし?」
突き放すようにそう言われては、小春としても大人しく頷くしかない。大丈夫? と問われるよりも、優しく響く皮肉は、さつきなりの案じ方なのだろう。
そこへ控えめな音が部屋の板戸を叩いた。
手伝いの女が現れ、久紫とさつきが部屋から出て行った。
* * *
支えられながら清拭と着替えをしていれば、板戸の向こうが騒がしい。
うるさい声は伸介で、窘める悲鳴染みた声は瑞穂のものだろうか。
さつきや久紫の叫び声まで聞こえて、楽しそうで、少し羨ましかった。
「すぐに良くなりますから」
驚いて見れば、手伝いの女がにっこり笑っていた。
心情が顔に出ていたのかと火が出る思いに駆られる。
「良くなる前に、家に帰りたい……」
「それは……奥様次第ではないでしょうか」
膝立ちで向き合い、こてっと女の肩に頭を預ける小春に、多少同情を含んだ声がかけられた。
倒れた当日、手伝いを引き連れてやってきた絹江は、小春の身を慮り、しばらくこの家に滞在できないか、と熱にうなされる小春を差し置いて久紫に相談した。あっさり了承した久紫も久紫だが、絹江はその後も、外に出ては身体に障るからと帰宅の許可を出してくれない。
確かに幸乃の家はここからだと町より少し遠いが、支えがあれば帰れるくらいには回復してきたと思うのだが。
熱を吸った寝巻きを脱ぎ、ひんやりと心地良い新しいものに袖を通す。
「だーからっ! ちょっとくらい大丈夫だって!」
突然、伸介の声が鮮明に聞こえてきた。
丁度背にした板戸を見返れば、それがぐらりと内側に倒れてくる。
唖然と固まった手伝いとは裏腹に、小春はぼんやり板戸の上に積み重なった、伸介と久紫、瑞穂を見やった。
暴れる伸介の首を久紫が絞め、瑞穂は助けるどころか、その頭に袋を被せている。
さながら殺害風景。
と、伸介を押さえつける久紫と目が合った。
一瞬驚きに固まって後、
「――ス、スマンっ!」
伸介ごと、もの凄い勢いで居間に戻っていく。
何事かと己の姿を見れば、着替えの最中。
けれど手伝いが板戸を背にするよう計らってくれたため、両袖を通した姿では、背中が少しばかり見えた程度だろう。
熱も手伝って、そう騒ぐほどのことでもないように思われた。
「……いかがされたのでしょう?」
手伝いに顔を戻せば、笑いを堪えているような、困ったような、不思議な表情に迎えられた。
* * *
本来であれば着替えを覗こうとした伸介が謝るのが筋。
しかし、頭を深々と下げるのは、顔を朱に染めあげた人形師。
「スマン、本っっ当っに、スマないことをした!」
「異人さんが悪い訳では……それに見たといっても、少しばかり背が見えただけでしょう?」
「ほうほう、じゃあお言葉に甘えて背中だけでも――って、じょ、冗談だ!?」
対照的に近づこうとする伸介の首に、瑞穂が容赦なく腕を回す。
あの夏祭り以来、小春に目撃された恥ずかしさも手伝ってか、伸介に対する遠慮の一切を瑞穂は無くしてしまったようだ。良いことと思われる反面、いつか本当に旅立たせてしまうのではと小春は苦笑する。
「それに同じ背でも、雪乃さんの方が艶めいてらっしゃいますし」
悪戯っぽくそう笑うと奇妙な沈黙が流れた。
小春に集中した目はどれも哀れむようなもので、頭を上げた久紫に至っては、珍妙な表情が浮かんでいて……。
「……わたくし、何かおかしなことでも?」
「いや、うん、まあ、なんだ。それならお言葉に甘えて、俺が拝見――っが!」
そそくさと美貌の人形へ向かった足を素早く久紫が払う。
「アレは俺にとって貴重な合作ダ! 勝手に触れるナ!」
あまりの剣幕にくすくす笑えば、久紫は口を押さえてうなだれる。何かしら後悔した様子に首を傾げた。
とそこに、かなり呆れた面持ちのさつきが手を叩く。
「皆様? 小春さんは病人ですよ? 少しはお静かにしてはいかが?」
* * *
「どひゃひゃひゃひゃ」と伸介の下品な笑い声が遠ざかる。
再び寝所で置いてけぼりにされた小春は眉を顰めていたが、戻ってきた久紫の様子を見るなり、熱に染まる赤い頬を青ざめさせていく。
碌に目も合わせず口元を押さえてうなだれたまま。
もしや、己の病がうつってしまったのではないか。
「異人さん、お加減でも?」
「イヤ、そういうワケでは……」
だが、俯かれたままでは、説得力など欠片もない。
病人扱いもいい加減飽きてきた小春は、ここぞとばかりに、
「具合が悪いのでしたら、早くお休みになってくださいませ。わたくしも大人しく寝ていますから、そうまでして付き添われなくても大丈夫です。世話役を世話して貴方様が病にお倒れになられては、どうすれば良いやら」
攻め立てるように言えば、久紫の顔が上がり口から手が離れる。
「イヤ、大丈夫だ」
言葉通り、常とそう変わらない顔色に安堵する小春だが、心配した分、上乗せした不満が口を尖らせた。
「……そんなにわたくしは信用なりませんか?」
半眼で尋ねれば目を思い切り逸らして、また俯き口を押さえる久紫。
意地でも動かぬ様子に、小春は頭の痛い思いを抱く。
そうしてまた、口を開きかければ、
「頼む。傍にイさせてクレ」
口元を離れた手が、今度は目元を押さえた。
吐息混じりのそれに、小春はみるみる顔が赤くなるのを感じた。身体が妙な緊張感を伴って固まってしまう。どうしたのだろうと問いたい反面、病の熱とは別の熱に絡まる舌が上手く回らない。
こんな状態の時に顔を上げられたら――。
しかし、小春の心配を他所に久紫はそのまま、ため息を深く吐いた。
「師匠は俺が席を立った時に死んデしまった。まるでソレを待っていたヨウに。だから……死なないでクレ」
「異人……さん?」
懇願に覗いた片眼鏡の奥で、影が揺れていた。
本当は黒に近い灰が、黒よりなお暗い光を湛える。
(――――そう、でした)
言葉を失くした小春は、沈んだ視線を受け止める。
最近では名を口にしても、懐かしさよりも寧ろ、怒りと困惑を混ぜた様子を見せることから、完全に失念していた。
彼の師、宮内喜久衛門は流行り病で死んだのだ。
久紫が看病をしている最中に。
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