秋 見知らぬ天井

 逃げる女を引きとめた男は、有無を言わさずその唇を奪った。

 最初は抵抗を見せた女も、次第に受け入れていく。

 絡みつく熱を孕んだ情景は、数度離れては交わりを繰り返し――……。

 息切れに男の胸へしなだれかかり潤む女が、

「本当に腹立たしい方。どうしてこんなにお上手なのかしら?」

 問えば、

「そりゃあ、お前相手に手は抜けないからな」

 という軽口が返される。

 そうして見つめ合い、また重なりかける唇。

 だが、こちらの視線に気づいたなら、男女は音が出そうな動きで固まった。

「…………こんばんは。伸介、瑞穂様」

 膝上の存在も頭からすっぽり抜け落ちてしまいそうな情景に、小春は頬を染めながら、見せつけてくれた幼馴染たちを睨みつける。


* * *


 茶化しながら誤魔化しを装い、逃げようとする二人を呼び止めた小春は、久紫を運ぶ手伝いを頼んだ。

 翌日、昨夜遅かった理由を尋ねられ、馬鹿正直に答えれば、母・絹江は堪え切れないと笑う。

 調理実習をしに来たはずのさつきは、額を押さえてため息混じり、

「あんっっの、愚か者!」

「愉快なお兄様がいらっしゃると大変ねぇ、さつきさん?」

「絹江様、わたくしはあれと血が繋がっているなど、一度たりとて思ったことはございません!」

 普段から伸介を実兄と認めてないと豪語し、憤慨して胸を張るさつきに、絹江は涙を流して更に笑った。

 顎がはずれるのではないかというくらい、一通り笑い終えた絹江は、一転、表情を変えて小春の方を向いた。示し合わせたかのように、さつきの怒りも恐ろしいほど鎮まる。

 じ……と己を射る視線に、小春はたじろいだ。

「ええと、どうかされましたか?」

「どう、と来ますか。……お二人のご様子を見て、小春はどう思いましたか?」

「な、仲直りされて、とてもよろしゅうございました……?」

「……絹江様、駄目ですわ。貴方のお嬢様は、相当抜けていらっしゃる」

 絶望的だと顔を覆う二人に、これではどちらが親子か分からないと、途方に暮れる小春。

 これにさつきが指を差した。

「羨ましい、とは思いませんこと!? わたくしもあんな風に――」

「…………伸介と、ですか?」

 もの凄く嫌そうな顔を浮かべれば、今度は絹江が半眼で睨みつける。

「人様の男なぞ誰が許しますか。人形師様とのことです、人形師様! 大体、祭りにまで託けて、何もないとは嘆かわしい」

 小春は結託して頷き合う二人に混乱した。

 さつきの諦めを察したとはいえ、愛人云々でこの前盛り上がっていたのに、これはどういう了見だろうか?

 俗物過ぎる物言いに、大仰なため息をつき、ついでに頭を押さえてみせた。気だるい感覚が手の平に圧し掛かる。

「何か、など……。あるわけありません。異人さんは生きている女人に興味はない、そう仰っているのですから……」

 諭すような言葉は、しかし、少しは伏せられるかと思ったさつきの半眼に、尻すぼみになってしまった。


* * *


 祭りを終えて幾日経つと、秋口となる。

 緑の葉は徐々に色を変える準備に勤しむが、これを窓辺に頬杖ついて眺める小春は、妙な熱っぽさに動けずにいた。気だるさは随分前から感じていたものの、ただの不調と甘く見ていたのが間違いか。

 空に吐息を漏らせば、人形造りに没頭していたはずの久紫が問うてきた。

「ドウかしたのか?」

「……いえ」

 返事をしたは良いが、元気のない様子に空気が動いた。

 向くのも億劫と空を眺め続ける額に、前髪を上げて手が置かれる。それでも放っておけば、唸る声が隣から聞こえてきた。

「熱がアルようだナ」

 労わる手から逃れ、渋々身体ごと視線を動かせば、眉を顰めた久紫の神妙な面持ちにかち合う。普段であれば、近い位置とその表情に染める頬もあっただろうが、今は何もかもが億劫だった。

 もう一度だけ息を吐いてから、窓枠に体重をかけて立ち上がった。

 ぐらり、視界が揺れるのを受け止められ、鬱陶しいとばかりにこれを払う。

「大丈夫……です。夕餉の仕度は……しますから。安心して……ください」

 なおも支えようとする腕を拒絶し、小春は壁づたいに戸口付近の炊事場へ向かう。が、途中寝所の板戸が開いてるのに気づかず、そのまま倒れ込んでしまった。

「幸乃の娘っ!?」

 慌てる久紫の声と肩に触れる温もりに、途切れる意識の中、小春はただ独りであることを願う。



 こんな屈辱があって良いのだろうか。

 熱みを帯びた顔を不機嫌に歪ませ、差し出された匙の中身を飲み込む。

 生ぬるい物が喉を通り過ぎたのに、苦々しいため息を吐いた。

「世話役が……世話をかけるなんて……」

 次の粥を匙に乗せる久紫が、これに反論する。

「仕方ないダロウ? そんな身体で無理はできナイのだから」

「それはそうですが……」

 あむ、と忌々しげに出された匙を口に入れ、おざなりに噛んで飲む。

 熱に倒れた小春が目覚めたのは、何故か久紫の家、それも寝所だった。

 恥ずかしさにすぐさま動こうとしたのだが、身体があまりにも重くだるい。

 それでも意地になってもがいていると、様子を見に来た久紫に諭された。

 なんでも流行り病を貰ったらしい。

 それも、本来は小春より小さな子どもが罹るものだという。

 久紫にうつる心配がないとはいえ、寝床まで占領した挙句、温い粥を啜るにも手助けがなければいけないとは。

 一人では上半身を起こすこともままならず、積み上げた座布団に背を預けた格好で、こうして久紫に食事の手伝いまでさせて……。

 病に沈む身体より、現状が小春の気持ちを重くさせていた。

「はあ……せめて他の人だったら良かったのに」

 何故、秘かに想い慕う相手に、こんな苦労をかけなければならないのか。

 そんなため息混じりの呟きに、完食を見届けた久紫が口をへの字に曲げた。

「悪かったナ。ヘタの横好きデ」

「そういう意味ではありません。……もう、本当にどうして……」

 押さえたい頭も熱に沈む手では触れられず、小春は上を向いて目を閉じる。

 看病という点において久紫は、喜久衛門を看取ったというだけあって、申し分ない能力を発揮している。小春の腹を満たした粥とて、久紫の作。何から何まで至れり尽くせりで、だからこそ、小春は苛立っていた。

 黒い髪も短く、手もあかぎれで、令嬢たちのような華やかさもない小春にとって、誇れたのは家事と健康。怪奇に怯えるのは別として、幼い頃より長い間寝込むような病気に一切罹らないのが、ささやかな自慢であったのに。

 それ故の幼子が罹るよりも重い症状と家事すら満足にこなせない状況が、誇る全てを砕いてしまう。

 と、自分よりいくらか冷えた感触が額に降りて来た。

 億劫に目を開けば久紫がまた、手測りをしている最中。

 労わりも、今は全てが鬱陶しい。

 身を捩るように動かし、額の手を払えば、久紫の顔に困惑が浮かぶ。

(そんな顔しないでください)

 鏡のように、いや増して困惑より嫌悪を示せば、傷ついた悲しそうな顔になる。

 望んでもない哀れむそれに、小春の苛立ちは募るばかり。

「分かっています。わたくしとてこんな醜態――」

「シュウタイ? 病に臥せルのは、いけないコトなのか?」

 すぐさま反応した久紫は、責めるような眼で小春を睨んだ。

 受けて立つように見据え、

「違います。でもわたくしには、とても耐えられる状態では」

「耐える? おかしなコトを言うな? 動作も億劫なクセに、何がドウ耐えられないというんだ? 寝れば治る程度なら、大人しく寝てるノガ筋だろう?」

「確かにそうですけれど、前に倒れた時だってこんな風に、いつまでも寝ていたわけでは」

「前とハ状況が違う。熱のある状態で動こうとスルのは、馬鹿か無鉄砲だけダ」

 鼻白み断言されれば、我ながら情けない声で叫ぶ。

「ば、馬鹿ぁ!? 酷いではありませんか、病人に向かって!」

「フン! 病人なら病人らしく、黙って看病されていれば良いだろうガ。寝てれば治るというのに、醜態だの耐えられないだの、くだらナイ!」

 あまりの言いように応戦しようとする小春だが、急に襲う気分の悪さに前のめりになる。背もたれを失っただけで、頭が鈍痛を訴えた。

 言い争っていたはずの久紫は、慌てた様子で支えてくる。

 この様子に、気持ち悪さに滅入りながらも、

「……ほら、こうしてご迷惑ばかり掛けて……これを醜態と言わず、なんと申しましょうか?」

 尋ねれば、返ってきたのは沈黙のみ。

 味気ない勝利に小春はまた、目を閉じた。

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