夏 迂闊な口

 夏の暑さは去年より穏やか。

 とはいえ、雨が降れば話は別。

 蒸される暑さに辟易しつつ、朝も早くから久紫の世話に勤しむ小春は、自身も昼餉を終えたところで、いつの間にか彼の姿が消えていることに気づいた。

 久紫の住まう部屋は、大きく分けて三つに分けられる。

 入ってすぐの居間に、右手の作業場、左手は寝所。

 大抵の場合、久紫は居間にいることが多い。横着して作業場ではなく、居間で人形を造ることも多々あった。前に、何故居間で造るのかと聞けば、困惑が浮かんだので、それ以上尋ねるのは止めた。

 久紫の思考は未だ読めないところばかりだが、その実、表情の変化は幼子のように豊かであった。

 これを本人に告げたことはない。

 言えば、物凄い顔をすることだろう。そこに含まれる意味合いは、愉快とは程遠いと容易く予測できた。

「……異人さん、どちらにいらっしゃるのかしら?」

 吹き抜けの居間と作業場にいないのだから、と考えるが、別段、いないからといって問題は――。

 うっかり見渡せば、小春の眼を釘付けにする、麗しの微笑み。

 カラクリが仕込まれた人形・雪乃。

 久紫には「安心」などとのたまったが、やはり少し、いや、かなり怖い。

 それでも惹かれて近寄り覗く顔に、妙な覚えを抱く。

 最初は“雪乃”の存在かと思われたが、小春の思い出にこんな笑みはない。

 こんな――……。


がさり……


 耽りかけた小春の耳朶に、布擦れの音が届いた。

 ビクッと身体を震わせた目が、音源と思しき寝所の閉じた板戸を見る。

 もう一度意味なく視線を雪乃に向ければ、変哲のない柔和な笑みに迎えられた。

 知らず喉を鳴らして、雪乃に視線を送りつつ、小春は板戸に近寄った。

 雪乃が襲ってくるとは思えないが、やはりあの時の恐怖は拭いきれない。


がさごそ……


 また、板戸から音。もしかすると鼠か何かかも。淡い期待に板戸に手をかける。

 その手の話では、開ければ最後とよく聞くものの、開けないで済ませられるほど、図太い神経はなかった。

 意を決して、小春は板戸を一気に引き開けた。

 寝所、の意味を完全に失念して。



 格好に絶句しながらも、動くこともままならず、小春は熱が宿るのを感じていた。

 当の久紫はこちらを気にすることなく、露わにした素肌を布で拭き続けている。

「っな……何を……して……らっしゃるんですか?」

 ようやく口に出来た声は、干からびていた。

 すると向けられる、妙に色気のある久紫の流し目。

 当てられた喉がひぅ……と鳴った。

「ナニ……と言われれば、身体を拭いてイル。寝汗が酷くてナ」

 機嫌が悪い訳ではない、寝ぼけた動きは、くてくてとやたら無駄なものが多く、余計に艶めいてみえた。「そうですか」と板戸を閉じることも出来ず、かといって見続けているのも気まずく、小春は座り込んで視線を床に這わせる。

 なるほど、姿が見えなかったのは昼寝をしていたからか――などと思考を散らそうとしても、目蓋に焼きついた情景は鮮やかさを増すばかり。

「ソウいや幸乃の娘。今日は夏祭りとヤラがあるんだロウ?」

 問われては顔を上げかけ、帯がだらしなく垂れているのを認めては床に戻る目。

「は、はい。ですが、この雨では、延期かもしれません」

 返しながら、珍しいこともあるものだ、と小春は思う。

 久紫が幽藍島に来て一年と半年近くになるが、祭りの類なぞ、行くどころか、興味を示す素振りすらなかったのに。

 ここで、不意に浮かんだ疑問が、何気なく小春の口から出た。

「あの、異人さんは、いつまでここにいらっしゃるんですか?」

 ついでに目線が自然と上がったなら、藍の着物を整え終わった久紫の、固まった表情とかち合う。寝ぼけの一切を放り投げたような、冴えきった瞳。

 乱れのない姿にほっとしたのも束の間、久紫が片眼鏡をしていないのに気づいた。

 投げかけた素朴な疑問も忘れ、片眼鏡の行方を問おうとした小春だったが、

「…………幸乃の娘。……オレは、いない方が良い、のカ?」

「……え、と……?」

 表情は驚きに固まったままだが、声音には若干の痛みが混じり、小春は自分が何を口走ったかを知った。

「い、いえ、決してそういうつもりで言ったわけでは……。ただ、喜久衛門様はよく旅に出ていらしたので、異人さんは――」

「! 俺は――っ!?」

 害意なく答えたはずが、朱の差した顔で声を荒げた久紫は、言葉を続けることなく口元を覆い隠す。

 雨が外に打ち付ける音だけが、響いてきた。

 しばらく目を閉じ、冷静さを取り戻そうとする久紫に、小春は何も言えない。

 どれほどそうしていたのか。ゆっくりと目が開かれ、口元から手が離れた。

「…………俺は、師匠では……ナイ……」

 ため息混じりの掠れたそれを聞いて、小春は気まずい気持ちになる。

 いつからか久紫は、喜久衛門の名を口にすると決まって、怒るような戸惑うような素振りをみせていた。

 最近は特に酷い気もするが、理由がさっぱり分からない。

 出会って最初の頃は、あんなにも崇敬していたのに。

「あ、灰」

「……ハイ?」

 俯く久紫の顔をじっと見つめていた小春は、左目の色が完全な黒ではないと知った。いつもは片眼鏡の反射で分からなかったが、どうやら左目は黒に近い灰色らしい。久紫はそんな小春の目を惚けたように受け止めていたが、それが何を見ているのか気づいては、左目を隠して身を捩った。

「モウ……帰っていいゾ?」

 更に痛む声音に、小春は何か声を掛けようとしたものの、結局形には至らず。


* * *


 次の日。

 降り続く雨に辟易しながら家を出ようとした小春は、伸介の苦い顔に迎えられた。

 久紫からの伝言だと告げられたのは、「しばらく来ないでくれ」という短いもの。

 けれど、無愛想な久紫からでは難しかろうと、数人手伝いを頼んだ。

 するとこの日の午前中には、さつきと伸介と瑞穂の三人が尋ねてきた。

 居間に通せば思い思いに座る。

 小春の前にはさつき。左に瑞穂、右に伸介。

 てっきり、この機に乗じてさつきが暴走するのではと構える小春だったが、

「まだまだお料理の腕を上げねばなりませんから」

 そう言うだけのさつきは、反面、鋭い視線を向けてきた。

 あれからまだ、さつきは久紫の元を訪れていない。料理の腕も、小春並みとはいかないまでも、あとは要領の問題。味付けには、さほど違いはなくなっていた。

 いぶかしむ小春に、同じような顔つきの伸介が首をしきりに傾げる。

「なあ小春よ。久紫の奴、どうしたんだ? 顔を見にいけば、布団の化け物だったぞ、ありゃ」

 返事も聞かず戸を開け、数度叫び呼んだ伸介の下に、布団を被ってずるずる現れた久紫は顔も明かさず、小春に伝えて欲しいと短い伝言を託したらしい。

「どう、と聞かれても……」

「何か、思い当たることはございませんか? 私も気になっております」

「もちろん、わたくしも気になりますわ」

 三者の同様の視線に、小春は昨日の出来事を一つずつ思い出しながら語りだした。



 そうして返ってきた反応は、どれも一様の絶句。次いで一言。

「「「酷い」」」

「ええっ?」

「黙りなさい。いつまでここにいらっしゃるんですか、なんて間抜けな質問、よく出来ましたわね」

 ぴしゃりと言われ、小春は眉を寄せる。

「しかも最近、喜久衛門の名前聞いて機嫌悪くなるの知ってんだったら、最初から言うなよな」

 呆れ混じりの伸介には少し腹が立った。

「それに小春様? 人形師様が片眼鏡をかけてらっしゃるのは、何かよほどの事情がお在りなのでは? 隠してるものをじろじろ見るのは、あまり感心されることではありませんよ?」

 トドメとばかりの瑞穂の言には、気まずさだけを浮かべる。

 久紫の様子を思い出せば、自分の失態だと反省できるが、この三人に責め立てられる謂れは果たしてあるのだろうか。

 ――特に、伸介。

 視線を向ければ「なんだよ」とやや及び腰になる。

「ま、まあ何にせよ、だ。ちゃんと謝ってやれよ? 結構繊細なんだぜ、アイツ。この前だって小春来る前に花街行こうぜって誘ったら、すげなく――」

「へええ……」

 瑞穂の壮絶な微笑みに小春は頭痛を覚えた。さつきからは冷ややかな一瞥のみ。

 慌てて取り繕おうとする伸介だったが、先に瑞穂が立ち上がった。

「別に良いんですよ? 伸介様は春野宮のご子息ですから、手伝い風情の私がとやかく言う謂れは、ありませんものね」

 “様”と“手伝い風情”を殊更強調して、笑みをどこまでも深める瑞穂。見たこともない姿に、呆気に取られる小春とさつきに対しては、しずしず頭を下げて、

「申し訳ございません。仕事に戻りますので、お先に失礼させていただきます」

「あ、瑞穂!」

 一度も目を合わせずに出て行く恋人に、伸介は慌ててその背を追うが、目前でぴしゃりと襖を閉められてしまったなら、猫だましの要領で尻餅をつく。

 情けない姿に、さつきの冷たい声が刺さる。

「酷い、ねぇ? 人のこと、言えた義理かしら。――でも小春さん?」

 同じような冷ややかさながら、こちらには苦笑を混ぜて言う。

「この愚か者の言ったことも一理あるわ。確かに久紫様、繊細ですから……貴方の行動次第では、ずっと籠もったままになってしまうでしょうね」

「わたくし……の?」

「わたくしもお暇しますわ」と立ち上がるさつきの、思わぬ言葉に困惑する小春。

 惚ける伸介に声を掛けつつ、

「深く考えずとも良いのです。貴方が幽藍で一番長く、久紫様の傍にいるのだと、それだけを肝に銘じておけば」

 垣間見えた淋しそうなさつきの背に、小春はようやく察した。


 さつきは久紫を本当に好いていて――けれど、諦めてしまったのだ。

 愛人と冗談めかしていた、あの時から。

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