新緑 熱に沈む眼

 そこだけ熱を持ったような目元を、小春は何度も冷水に浸して洗い続けた。

 志眞が纏う香木の匂いがついた着物は、気持ちが悪いとそのまま捨てる。

 倹約で知られる幸乃家だが、小春の行動を咎める者は、誰一人、いない。


 爽やかな風貌、人好きのする笑顔。

 けれど、弦の如く細められた瞳から覗く光は、値踏み・打算が見え隠れする。


 小春は、そんな人間を、志眞を知るより前に知っていた。

 それも、この家、父の紹介で。

 「小春ちゃん」と呼ぶその男は、続いて必ず言うのだ。

 笑みを絶やさず、愛しいとでもいうように。

 後で、非情に傷つけ裏切るくせに。

 「お姉さん――涼夏さんはいるかな?」と。


* * *


 父が来たことで、志眞の見送りから解放された小春は、本来の仕事である久紫の世話役へ戻る。

 少しばかり足が遠のいたせいか、それとも志眞を優先させたせいか、何となく後ろめたさを感じて足が重い。

 そんな小春の背を、夏間近のからりとした海風が崖上へと押していく。

 戸口に立って、深呼吸。

 億劫な面持ちを叩いて直し、

「異人さん、こんにち――わっ!?」

 入ってすぐに後ろを向いた。

 なにせ久紫の傍らで、着物の前をはだけさせた雪乃が寝かされているのだ。

(だから、どうして、こう……!)

 人形とは言え、とても気まずい。

 文句を言いたいところだが振り向くのも恥ずかしく、頬の熱さを逃がすように手を当てる。

「幸乃の娘……。チョット来い」

 とはいえ、いぶかしむような声が掛けられたなら、振り向かない訳にもいかない。

 おそるおそる視線を戻した小春は、久紫が雪乃の腹をぐいっと力一杯押すところを目撃した。壊れるのではないかと驚きに青褪めて近づけば、白い腹がぱかりと扉の要領で開く。

「ひっ……え、これは……」

 書物で見た人の身の内にあるという臓腑に似た、赤や白といった糸の類に、小春はこっそり久紫を盾にして、まじまじと眺める。

「ああ、コレは――」

 小春の方を振り向いた久紫は、まさか肩越しに覗いているとは思わなかったのだろう、一瞬、虚を衝かれたような様子を見せた。

 愛想笑いを返せばため息を吐き、雪乃の腹の糸を一つ、指で持ち上げてみせる。

 すると、雪乃の腕が持ち上がった。

「カラ……クリ……? 喜久衛門様は、カラクリを?」

「ダな。アル動作をさせる、もしくはこちらがスルと、反応を返すヨウに出来ているミタイだ」

 腹に糸を帰せば下がる腕。

 久紫は雪乃の腹を閉めると、今度は上半身を座らせた。

 何をするのかと思えば、雪乃の背中に抱きつく。

 そうして、ふぅ……と雪乃の耳元に息をかけた。

 己の身に起きたことではないが、艶めいた仕草に小春の顔が朱に染まる。

 と、久紫の身が少しばかり身じろいだ。

 どうしたのかと見やれば、回した彼の腕に、雪乃の手がしがみついていた。

 悲鳴を上げかける小春。

 だが、久紫の変わらぬ様子に、ゴクリと呑み込んで見守る。

 すると上がる、ギギギギギ……、かたかたかた……という音。

 ゆっくり、雪乃の顔が久紫の方に向けられ、その肩にかくんっと持たれかかった。

「これって……」

「ドウやら、抱きしめて耳元で風が起きると動く仕組みラシイ。アク趣味極まりない……が」

 久紫がもたれる頭を捩って退けると、雪乃はまただらりと腕を垂らして俯いた。

 もう一度寝かせて着物を調える久紫だが、そこには苛立ちが混じる。

 尋ねることも憚られる雰囲気から見るだけに留めれば、こちらを振り向いて、

「コレで安心したカ?」

「……へ?」

 気遣う片眼鏡の美麗な顔に、小春は間の抜けた返事をしてしまった。

「……もしかして、わたくしのため……だったのですか? 今の」

「他に誰がイル? 聞いたゾ? 伸介から、アイツは幽霊の類が死ぬホド嫌いだカラ、もしかすると、ココにはモウ、来ないかもしれナイ、と」

 これには眉根をついつい寄せてしまった。

「来ないって……来てるじゃないですか、こうして」

「…………確かに、ソウ、だが……」

 同じく眉を寄せる久紫だが、その顔が段々と不機嫌に染まっていく。

 小春は何故か、すごく申し訳ない気分になった。

「あっ、でも、はい、安心しました。これで心配なく来られます」

「ソウか……」

 なるべく愛想笑いにならないよう気をつけて笑むと、心なしか安堵した表情が返ってきた。

 途端、柔らかな微笑に、小春の顔が耳まで赤くなってしまう。

 これを咎められては堪らない。

 そう思った小春は、いつもの仕事を、いつもよりテキパキこなしていった。


* * *


 夕方、帰ってきた小春を待ち受けたのは、艶やかな黒髪と広いおでこが印象的なさつきだった。

「いつか来る旦那様のためにも、わたくし、頑張らねばなりませんの、よ!」

 調理実習で力強く聞こえてきた言葉に、小春は驚いて目を丸くする。

「いつか来る……? さつき様は、異人さんに食して貰おうとしていたのでは?」

「馬鹿を仰いな。いくら久紫様が優れた人形師で、世に認められた方だからといって、財閥の、分家といえど令嬢と釣り合いが取れると思って?」

 ざくっとまな板ごと切り落としそうな、力の入った包丁にハラハラしつつ、鼻白む台詞に混乱する。

「で、でもそれでは、何故、異人さんにあそこまで入れ込んで?」

 小春が知る春野宮さつきという令嬢は、美人で高飛車で、そして努力が嫌いな類の人間だ。だからこそ、こんな風に腕を磨くのは、きっと久紫に認めて貰いたいからだろう、そう思っていたのに。

「ふふふふふ……決まってるでしょう? 春野宮は貿易を主な益としてるのです。旦那様も春野宮に婿入りするのですから、当然、島を出るでしょう。その時、良い方がいると、華やいだ生活が約束されますの」

「ふふふ。つまり、人形師様は愛人候補だったのかしら?」

「あ、あいじん……?」

 楽しそうなさつきと、何故かいる絹江の様子についていけず、小春は眩暈を覚えてしまう。

 けれど同時に、妖しい笑い声を上げて鍋を掻き混ぜるさつきに暗い影を見た。

 ――かすかな、しかし、悲哀に満ちた影を。

 その正体まで判別できず、眉を寄せかけた小春。

 が、直前に気づいたなら、制止を叫ぶ。

 鍋の中では、教えた憶えのない、得体の知れない干物がくるくる泳いでいた。


* * *


 結局料理を駄目にしたさつきが帰って後。

 覗いた部屋で、彷徨う視線もなく微笑を浮かべて眠る姉の姿に、小春はそっとため息をついた。


 数年前、父・信貴が連れてきたのは、この島にはいない、垢抜けた青年だった。

 小春は初対面からこの男を嫌ったが、姉・涼夏はどんどんのめり込んでいく。

 端から見ればお似合いの二人。

 けれどこの時、信貴の表情が険しかったのを、小春は今でも鮮明に覚えている。

 そして突然訪れた別れは、あらかじめ春野宮が仕組んだ、青年への罠。

 彼は間諜であった。

 詳しいことは小春に分かるはずもなく、ただ、春野宮が長年築いてきた“繋がり”を寸断するのが役割だったと、人づてに聞く。

 悲惨な末路を辿る。そんな風にも聞いたが、どうでも良いことだった。

 涼夏が、病んでしまったのだから。


 二人がどんな間柄だったのか、詮索好きがあれこれ言うのに、小春は耳を塞いだ。

 涼夏、と呼ばわる声たちも遠いものとして受け入れた。

 ある日、信貴が「すまない」と、潤む視線の涼夏に、ずっと謝りつづけていたのを見つけても、小春はあまり関心を持てなかった。

 ただただ、姉様は壊れてしまったのだと、空虚な思いだけが積み重なっていく。

 そんな中で、小春は志眞と出会った。

 人好きのする笑みを絶えず浮かべた彼に、一度だけ、尋ねたことがある。

 「楽しいですか?」と。

 一瞬、惚けた表情を見せた彼は、次には晴れやかな顔で答えた。

「君のような子がいるから、時折楽しくてしかたないよ。でなけりゃ、こんな場所、さっさと消してしまいたいところだ」

 本家というだけで与えられる賛辞の数々を、無駄だと、志摩は嘲り笑う。

 平穏に暮らす人々を前にして、唾棄すべきだと。

 人を殴りたい――そんな衝動に駆られたのは、この時が初めてだった。

 そして、涼夏を病みに追い込んだ者を、自分が心底憎んでいるのだと気づいたのも、この時。


「――はる」


 呼ばれた気がして、はっと顔を上げる。

 だが、迎えたのは眠る微笑。

 しばらく見つめていると睫毛が揺れ動いた。

 開かれる瞳。

 ぎくりと身体が強張った。

 彷徨う視線は天井を舐めるように動き、次いで傍らで息を呑む小春を掠める。

 どろりと濁った、熱病の眼。

 背中を気味の悪さが駆け抜けた。

 求める対象が自分ではないと知りつつも、恋焦がれる、かつての姉からは想像だに出来ない瞳が、小春は大嫌いだった。

 澄み切らない瞳に映るものを想像すれば、吐き気に襲われる。

 涼夏の中には未だ、彼女をこんな風に変えてしまった男がいるのだと示されている気がして。

 小春はそっと、微笑を携えたまま室内を巡る視線に、襖を閉める。

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