春 悪意なき舌

「敵に塩を送られに来ましたわ!」

 堂々と正面から入って来たさつきは、朱の差した顔を天井の隅へ向けながら、そう小春に宣言した。

 苦笑以外、何を返せば良かったのか。


 あの日、伸介に引きずられる形で去ったさつきは、それから一度も久紫の前にも、小春の前にも姿を見せなかった。食べたモノがモノであるため、身体の具合でも悪いのかと伸介に問えば「あれはそんなタマじゃねぇよ」と一笑されてしまう。

 そうして、小春が十六の誕生日を迎えた、春の終わりの夕方。

 神妙な面持ちのさつきが幸乃家の戸を叩いた。

 以来、前述の勢いで、料理を習うべく通うようになったさつき。

 自身の料理に倒れたのが良い薬となったのか、高飛車さは変わらずとも神妙な面持ちで、小春に指南を乞う姿は微笑ましい――が。

「違います、さつき様。どうしてそこで蜘蛛なぞ投入されるのですか?」

「こ、これはとても栄養価が高いんです! 本来なら触りたくない代物ですが、そう聞かされては!」

「……お願いします。ご自分が口にされるものだけ、お使いくださいませ」

 幸乃家で開催される調理実習も今日で十日目。夕方から夜半近くまで行い、帰りはさつきの家の者が迎えにくる日々が続いていた。

 だが、どうもさつきには奇抜な料理知識があるらしく、今のところ、料理の腕は底辺を水平移動し続けている。本家筋に近いさつきの家には、多種多様の異国の品が届くためか、良い、と聞けば何でも入れたがるのだ。

「蛇の干物に、木の屑……毒々しい草花に、干した……何かしらね、これ?」

 小さなほおずきに似た実ながら、独特の臭いを発するソレに顔を顰めたのは、小春の母・絹江。春野宮の分家令嬢をあまり快く思わない絹江は、しかしさつきに対してだけは別口の笑顔を用意してあるらしい。

「さつきさん、毒薬よりも媚薬の方がよろしいのでは?」

「き、絹江様! いつからそちらに!? いえ、わたくしは薬ではなくお料理を」

「さつき様、どさくさに紛れて、奇怪な粉を入れないでください!」

 途端、鍋から噴き上がる煙。

 母と令嬢共々咽せる小春は、勝手口まで駆け寄ると急いで戸を開けた。

 煙に目をやられ、歪む視界。

 咳き込むこと数度、不意に影が掛かった。

「こんにちは、小春」

 物静かな男の声に、小春はぽろりと一つ、涙を零して立ち尽くす。


* * *


 無言で睨む小春に、帰ってきた父・信貴は苦い愛想笑いで拝んでみせた。

「頼む。本来ならば私がお相手すべき方なんだが、仕事が……な?」

「…………分かりました。いつまで、ですか?」

 仕事なら仕方なしと大仰なため息をついて了承すれば、信貴は更に苦い笑い。

「明後日まで……」

 頭痛に顔を顰め、元凶を見れば、真っ赤な顔をしたさつきに、何事か微笑み語りかけている。

「ほ、本家のご子息様が、何故このようなところへ!?」

 引っくり返った悲鳴に、料理を習いに来ておいて人の家を悪く言わないで欲しい、と小春はもう一度ため息をつく。


* * *


 小春、小春、と犬猫を呼ぶ気安さに振り返れば、人好きのする笑顔の優男。

「小春。私は団子を食したい」

「……はい、志眞様」

 愛想笑いも作るのが面倒とつっけんどんに返す小春に、春野宮はるのみや志眞しまは、なお笑う。

 珍しい薄茶の髪を緩く結い、新緑の着物を纏う姿は、見る者を魅了するらしい。

 春野宮の本家の三男である志眞は、分家令嬢たちに随分人気があるらしく、行く先々で黄色い悲鳴が上がる。

 しかし、久紫と共に歩いている時とは違い、彼女らは決して近寄らない。

 小春に向ける視線にも妬みの類は感じられない。

 手の届かない存在。それが彼女たちの総意のようだ。

 ――憧れを向けられるような、大層な人格者でもないのに。

 表には出せない小春の評価を裏付けるように、団子を一口食べて志眞は言う。

「小春。これは団子と呼べるのかな?」

 笑みを絶やさず、言外に「まずい」と評する志眞に、疲労感だけが蓄積される。

「お団子です」

 返せば、くすくす笑い、その団子をまた口に運ぶ志眞。

 本当なら今頃、小春は久紫のところで昼餉の支度をしているはずだった。

 突然の世話役を他に頼めたは良いが、またさつき辺りが暴走していたら。

 それを思うと、早くこの男が去らないか、見つめる瞳に剣呑な光が滲む。

「小春? 言いたいことがあるなら言えば良い。私たちは腹の探り合いをする仲ではないのだから」

 向けられる邪気のない笑み。

 確かに分家ならともかく、志眞の機嫌を損ねた程度で追い払われるほど、幸乃の家は春野宮にとって軽くはない存在だ。

 しかし、そもそも小春はあまり志眞自身とは、慣れ合うつもりがなかった。

 嫌いなのだ、この男が。

 あくまで沈黙を保つ小春に、志眞は機嫌を損ねるどころか、更に笑みを深くする。

「本当、私は君のそういうところが、好きだよ」

「……………………………………………………ありがとうございます」

 仇敵をねめつけるに似た視線すら、志眞は楽しげに受け止めた。


* * *


「げ、本家!」

 そんな声が聞こえたのは、散々案内をせがまれ、ようやく帰ると志眞が言った時。

 黄昏もとうに越えた路地にて、たむろしていた一人が大袈裟に反応した。

「おや分家の。こんなところで、奇遇だねぇ?」

 にこやかな笑みに毒をこっそり混ぜた顔つきに、伸介は小春の方を見た。

 疲れに首を振れば、伸介は眉根を寄せる。

「お前……今日来なかったのはそういうことかよ」

「小春? この分家と何か約束でもあったのかい?」

 大袈裟な驚きを受け、小春が殺気立った目で伸介を射抜く。

 口を覆うがもう遅い。

 仕方ないと隠すことなくため息をつき、

「今、人形師様のお世話をさせていただいております」

「ああ、宮内久紫殿か」

 ぽんっと手を打つ様に、今度は小春と伸介が驚きに目を剥いた。この男が人の名前を――特に、自分と利害関係がなさそうな相手の名前を憶えているとは、夢にも思わなかった。

 二人の反応に、志眞はくすくすと馬鹿にするような響きで笑う。

「全く、幽藍の情報は本当に遅いね。宮内殿はかなり有名なんだよ? もっとも、分家なら知ってるはずなんだけど……。まあ、正月にすら本家に来ない君が知らないのは、無理からぬ話、かな?」

 分家の中でも本家筋に近い者は、正月や盆に、顔見せとして本家の元に馳せ参じるのだが、何かと問題の耐えない伸介は呼ばれもせず、また、本人も下らないと行かない。

 咎めるというより、からかう笑い声に、伸介の口がへの字に曲がる。

「行ったところで……窮屈なだけだ」

 ぼそり、呟いた言葉に、志眞は急に真面目な顔をした。

「ま、そうなんだけど。でも情報が遅いっていうのは、難があるよねぇ。君は君で良い手腕を持っているのに」

 覗く好意の光に、伸介が心底嫌そうな表情を浮かべる。

 小春ほどではないにせよ、伸介もこの男を苦手としていた。

「……ところで分家の。彼らを追わなくて良いのかな?」

 唐突に話を変えて、志眞の目が伸介の後ろを示す。

 つられて見れば、たむろしていた仲間が遠く、逃げるように駆ける姿。

 「うへぇ」と妙な声を上げつつ、形ばかり志眞に頭を下げた伸介は、仲間の背を怒鳴り散らしながら追いかけていった。

 残された小春は呆気に取られ、志眞は心底おかしそうにくすくす笑う。

「本当、分家だが、彼は好きだねぇ」

 ともすれば嘲る物言い。顔を顰めた小春が無言で帰路に戻れば、やはり咎めもしない志眞が、笑いながら後に続く。


* * *


 小春、と名を呼ばれ億劫そうに振り向いたのは、幸乃家の敷地に入ってすぐ。

「なんです――」

 顰めた顔で問いかけた言葉は喉を通らず、変わりに悲鳴が小さく鳴った。

 両頬に這う手と付きあわせた額、至近の笑み。

 一体何の冗談か。両手で胸を押そうと、手を外そうとしても、効果はない。

 それでも足掻く小春の混乱を楽しむように見つめながら、志眞は語りかける。

「今日はありがとう。とても楽しかったよ。本当、君といると癒されるね」

 背中が粟立つ囁きに小春が青褪めた。

 頬に添えられた手が離れると同時に、胸を突き飛ばして離れようとした手首が逆に掴まれ、引き寄せられる。

 目元に柔らかな感触。次いでは、ちろりと濡れたものが触れた。

「――――っ!」

 悲鳴を上げかけるが、乱暴に抱きしめられ、背と頭に回された手が、暴れる小春をあやすように撫ぜる。

 息が出来ず赤くなる小春の耳元に囁きがもたらされた。

「私は明日帰るけれど……次は、宮内殿のところへでも、案内してもらおうかな」

 嫌な予感にびくんっと一度震え、急に大人しくなった頬を、志眞の手が満足そうに撫でた。

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