春 真実の味
起きてきた母への挨拶もそこそこに、家から一歩、外へ出る。
町を抜け、崖上の家に続く坂道を上る。
戸口の前まで来て、躊躇一時。
手をかけて開けることまで出来た自分に、小春は心の中だけで驚いた。
「異人さ――ん……と、伸介?」
「よお、小春……」
がふがふがふがふがふ――!
目の前の光景に他の言葉も見つからず、小春は後を追ってきた瑞穂へ。
「……天に召されそうな方は、どちらに?」
「ええと……先ほどまでは、確かにそのようなご様子だったかと」
恋人から困惑気味の視線を向けられた伸介は、似たような顔つきで、囲炉裏端で脇目も振らず握り飯を頬張る人形師を見つめた。
一同の視線を集める久紫の目には、ただただ白い飯と新香が映っている。
差し出された茶を受け取り、熱さにも気を配ることなく、ぐびぐび呑む。
あえて温く淹れていなかったら、今頃大惨事になっていたことだろう。
「……っふ。……幸乃の娘? 具合はモウ良いのか?」
「お茶の味で人の存在に気づかないでください」
片眼鏡の奥が驚きに開かれるのを、小春は呆れたため息で迎えた。
もう一杯、空になった湯呑みに注ぎ、伸介と瑞穂が座る方へ腰を下ろす。
困惑の表情を向ける三人を前に、今度はゆっくり茶を味わう久紫。
「それで、伸介? わたくしは何を行えば良いのかしら?」
恋人越しに冷ややかな目を向ければ、伸介は眉根を思いっきり寄せた。
「何って……とりあえず、飯?」
「ハア……喰った喰った」
茶も啜り終わった久紫が、これ見よがしに腹を擦った。
伸介を見る小春の目が冷たさを増していく。
呼び出した手前、慌てる伸介を庇うように瑞穂が言う。
「申し訳ありません、小春様。伸介様に呼ばれた時、人形師様は本当に、ご加減が優れないご様子でしたから」
「……何が、あったのです?」
静かな瑞穂の声に、いくらか不審は和らいだものの先を促す。
「はい。あの……小春様から人形師様のお世話を言い付かった手前、本当に申し訳ないことなのですが……」
――噂をご存知ですか?
そう聞かれても、約二ヶ月間臥せていた小春は首を振るしかない。
一転して気まずそうな顔をする男二人。
尋ねる前に、瑞穂が話を続ける。
「人形師様と伸介様が、その……そういう噂になってらっしゃるのは、小春様もご存知かと思われます」
当人たちを前に言いのけた瑞穂へ、小春は目を大きく見開いた。
気づかない瑞穂ではないだろうに、些かも臆することなく、
「実はこれを踏まえてまた別の噂がございまして。……無礼を承知で申し上げます。小春様が倒れられたのは、三角関係の縺れだったとまことしやかに――」
「ええ!?」
聞きなれない俗語に小春は更に目を剥いた。
久紫と伸介は互いに顔を見合わせることもなく、別方向に視線を漂わせている。
「人形師様に片想い中の小春様を見て、……恋仲の伸介様が逆上し、小春様を気絶せしめた、と。人形師様が小春様を運ばれたのは、……恋仲の伸介様の立場を慮ってのこと、そう世間では噂されているのです」
伸介様、と呼ぶ度に、瑞穂の声音が震える。
笑いを堪えているように聞こえるが、本気で怒っているのだろう。幾度となく伸介へぶつける視線が冷たい。
なるほど、だから見舞う令嬢たちの視線には、多分に憐れみが含まれていたのか。
納得する反面、小春は“片想い中”に引っかかり、顔を赤くした。
「誰がそのようなデタラメを?」
つい力の入った、引っくり返った声音に、瑞穂は眉根を思い切り寄せる。久紫や伸介も同様の、それ以上の苦い顔。
「……さつきだよ」
伸介がため息混じりに答え、小春は頭痛を覚えた。
「でも……そんな噂を流して、さつき様に何の得があるというのです?」
「それはまあ、小春がいなくなった今、他の女たちへの牽制、だろうな」
「牽制……?」
呟いたものの、「久紫」と親しげに呼ぶ伸介についつい疑惑の眼をぶつける。
「なんだよ、その目は。……あっ! お前、もしかして!」
「へ? あ、いえ、別に貴方と異人さんの関係を疑っていたわけでは――ぅあ」
弁明のつもりが、愕然とする片眼鏡にかち合い、言葉を失ってしまう。
「ユキノの……。倒れる前からナニかオカシイとは思っていたガ……」
「あうぅ……ち、違います! 本当に、そんな疑ってなんか――し、伸介! 貴方、何を笑っているのですか!?」
小春が膝立ちで顔を赤らめ憤慨するのに、肩の震えだけで応えた伸介は、じろりと睨む瑞穂の視線に気づいて固まった。
「……人形師様との接点といえば、小春様しかいらっしゃいませんけれど、失礼ながら小春様が伸介様をわざわざ紹介するわけ、ありませんものね」
穏やかな表情を常とする瑞穂のキツい目に、全員が黙り込む。向けられた当人は、それこそ自分が笑っていた小春のように動揺する。
弁解しようとする素振りを見て、「まあよろしいですけど」とすげなく拒絶した瑞穂は、打って変わったため息をついた。
「実は、さつき様はもう一つ、大変なことをなさったのです」
「大変?」
「はい。小春様に頼まれ、私たち手伝いは人形師様のお世話をさせて頂きましたが、三日も経たずにさつき様がいらして」
「――アトはワタクシに任せて、アナタ方は家にお戻りなサイ。手伝い風情が口応えするモノではありませんワ」
忌々しげに久紫が引き継いだのを聞き、小春は己の考えのなさを呪った。
度々小春に茶々を入れていたさつきだが、人形師の世話役自体に口を出すことはなかった。いや、正確には、口を出せなかった、と言うべきか。
以前、家柄を理由に小春を「娘ごとき」と言い捨てたさつきだが、その家と拮抗する立場の幸乃家当主の任命の前では、彼女もまた「娘ごとき」でしかない。そのことは、世間知らずのようであっても分家という身の上から、さつきも重々承知していたのだろう。
だからこそ、その小春が世話役の務めを果たせないとなれば――。
幽藍住まいの手伝いを除けるなど、さつきにとっては造作もない。
後は聞かなくてもよく分かる。
深窓の令嬢であるさつきが、知りもしない世話役に徹したところで、得られるものは自己満足くらいなもの。何より、久紫の様子がそのことを物語っている。
不可解なモノへの恐怖に、身分という存在をすっかり忘れた、己の責任だ。
気づきもしなかった失態に、小春は久紫の下手に回り、深々と頭を下げた。
「申し訳ございません。わたくしが浅はかだったばかりに」
「……幸乃の娘……」
呼ばれて顔を上げれば、物凄い不愉快な顔。
怒鳴られても仕方ない。覚悟を決めて視線を返す。
と、急に久紫の顔が和らいだ。
虚を衝かれ、ぽかんと腑抜けた顔になる。
「具合は、モウ大丈夫なのか?」
先ほど尋ねられたのと同じ類の言葉に、小春ははっとして慌てて答えた。
「はい、大丈夫……です」
ちらりと久紫の後ろに佇む、微笑の人形を見る。
軽く冷えは過ぎったものの、変わらぬ雪乃の柔和な笑みは、不思議と小春に温かさをもたらした。
(喜久衛門様の匠の業なのでしょうか。それとも“雪乃様”に似てるから?)
もう一度視線を久紫に戻せば、不可解と言わんばかりの顔に迎えられた。
どうしたのだろうと開きかけた口は、
「小春さんっ!?」
という悲痛な叫びに遮られた。
振り返れば広いおでこのさつき。震える手には蓋をした丼。
小春を凝視したまま近づいた令嬢は、苦々しげに吐き捨てる。
「もう具合は、よろしくて? もう少し、休まれてはいかが?」
「さつき、様……? その……器は?」
しかし、小春は顔を顰めて丼を指差すのみ。
この様子に胸を張って、さつきは蓋を開け放つ。
異臭が漂い、久紫、伸介、瑞穂が顔を背けた。
「もちろん! 久紫様の朝餉ですわ!」
「…………こ、これは……汁物……ですか?」
見れば、ぐつぐつ泡立つ、得体の知れない液体。
「まさか! これは親子丼ですわ! はっ、何をなさいます、小春さん!」
逃げる前に触れれば、仄かに温かい。
(……汁物でもなく、この温度で、こんなに煮立つというのは一体?)
前に聞いた憶えはあったものの、さつきの料理の腕前がこれほどのモノとは。
久紫の方を見れば、首を振られ、それを咎めてさつきが叫ぶ。
「小春さん! 何をどさくさに紛れて久紫様と見つめ合ったり――」
「さつき様……失礼っ!」
激昂に丼を持つ手を緩めた隙をつき、奪って中身を指で一掬い、そのままさつきの口につっ込んだ。
「っん! んんっ! むーっ!?」
顔を赤らめて抗議するのも聞かず、呑み込むまで待つ小春の指が離れる。
と、ほぼ同時。
さつきが卒倒した。
愛しい久紫の前で泡を吹いて白目を向く異様な姿に、申し訳ないと思いつつ、ぞっとする小春。己も充分、奇異の眼を集めているという自覚がないまま、得体の知れない丼の処理にかかる。
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