二年目

春 橙の君

 くて、と肩にしなだれかかる重みに、小春の意識は消し飛んだ。


 次に目が覚めたなら、見慣れた天井、屋敷の自室。

 寝巻きにまで着替えさせられており、とりあえず起き上がって井戸の水を汲もうとすると、母の絹江きぬえに止められた。

 大丈夫だと告げても、少ない手伝いも加わって自室に戻される。

 (過保護だわ……)と思いながら、手鏡の中を見て納得した。

 どこからどう見ても、今にも死にそうな、青白くやつれた顔がそこにはあった。



「若い殿方が貴方を運んでくださった時は、本当に、心臓が止まるかと思いました」

 粥を椀に取り分けながら、絹江が大仰なため息をついた。

 人形師の世話役をしているのは知っていたが、あんな若い方だったとは、と呆れ半分悪戯っぽい笑み半分。

「……父様は宮内喜久衛門様のことを?」

 尋ねれば、またため息。のち、首を振る。

「まったく。あの人と来たら、大事なことは何一つ教えてくださらないから」

 小春を仕事相手の世話役に宛がうような父だが、どちらかと言えば、仕事と家庭は分けて考える方だった。気軽に仕事相手の近況を話す姿は想像もできない。

 とはいえ、喜久衛門に限って言えば、母も少なからず面識がある相手。先に教えていても良さそうなものだが。

 これをそのまま伝えたなら、母は「……そう」と何か思い当たったように頷いた。

「誰しも、口にしたくない言葉はあるのでしょうね」

「…………」

 その言葉に浮かんだのは、彼の人形師の弟子。喜久衛門の死に対する父への評価はさておき、では、小春へ伝えた時――その死を口にした時の彼の心情は。

 今になって思い当たった事実に、自分の迂闊さを悔やむ。

 と、そんな小春を気遣ってか、それとも偶然か、絹江がころっと表情を変え、また悪戯っぽく笑って言う。

「でも素敵だったわよぉ、あの方。必死の形相で貴方を抱えて、ここまで運んでくださったんだから。……宮内のおじ様とは大違い」

 最後にぽつりと付け加えられた声は、つい今し方、その死を悔やんだとは思えないほど冷え切っていた。

 小春は幼い頃より、幽霊の類が大の苦手であった。別段、何かが見えるという能力があるわけではないが、とにかく、病の一種と言っても良いほどの嫌いよう。

 生前、これを知った悪戯者の喜久衛門は、ある日、それとなくその類の話が書かれた紙を落とし、小春に留守番をさせた。面白い結果を想像していた喜久衛門だったが、一刻も掛からず帰った住まいでは、小春がぐったりと倒れていた。

「あの時だけは本当に……あのおじ様を殺めたい気分だったわ」

 朗らかささえ感じる黒い微笑に小春の顔が引きつる。

 普段はおっとりした母ながら、幸乃家の実権は父より多分に握っていると聞く。

 怒らせると鬼より怖い、とは誰の言だったか。

 なんと返したものか分からず、硬い愛想笑いだけを貼りつけたなら、絹江は不満げに唇を尖らせた。とはいえ、それは小春の芳しくない反応ゆえではなく、

「まあ、減点は伸介の坊やが一緒だったこと、くらいかしら」

 思わぬ久紫への評価に、小春が慌てて「人形師様は幸乃の家を知らないから」と言えば、ふっと笑んだ絹江が「ええ、分かってるわ」と頷いた。

 放蕩者と評判の伸介とはいえ、絹江が彼を減点にする理由はただ一つ。幼い悪戯にきつく灸を据えた際の捨て台詞、「鬼ババア!」を今でも根に持っているためだ。

 これでもし、あの伸介の初恋の相手が絹江だったと伝えれば、どんな反応を示すか。想像してみたが、どうあっても碌な命運を辿らない幼馴染を思い、小春は沈黙を保つ。


* * *


 一週間経っても小春の顔色は良くならなかった。

 しばらくはあの家に近づけないだろう。

 前の時は町を抜けただけで足が動かなくなった。想像だけでそうなるなら、今回は家の外も満足に歩けないかも知れない。

 一体あれは何だったのか……。

 そう思うだけでもぶり返す怖気と眩暈。逃げるように布団へ潜って思考を散らす。が、今度は目をつむった途端に、例の視線が現れ、跳ねる勢いで起き上がった。

 ……違うことを考えよう。

 眩む目に明るい障子を映す。

 そうして見つけた考えるべき事柄に、小さく眉を寄せた。

 絹江は殊更久紫が小春を抱えてきたことを強調して、うっとり夢見心地の表情になっていたが、現実はそんなに甘くないはず――なのだが。

 町では久紫の後ろを歩くだけで、羨望や妬みといった煩わしい視線に晒されてきた小春。しかしこの一週間、見舞いと称して訪れる令嬢たちは皆、悲哀に満ちた眼差しと慰めるような贈り物を小春へ押しつけてくる。

 何故と聞き返したいものの、口を開けば両手をそっと握られて、

「いいの。何も言わないで、小春さん」

 と咽ぶ涙を堪えるかの如く、去ってしまうのだ。

 さすがにさつきは来なかったが、まだこちらの方が分かりやすい。

 ただし、人形にかまける久紫を再確認し、逃避に走ったとはいえ、その衝撃も覚めやらぬ内に、小春が運ばれたのを知れば、因縁を付けられるのは間違いないが。

「……天変地異の前触れかしら」

 優しい令嬢たちに、小春は感謝よりも、得体の知れない恐怖を感じた。


* * *


ことん……


 そんな不思議な音に目を覚ましたのは、倒れてから一ヶ月後。

 まだ朝というには早い時間の小さな音に、寝ぼけた顔で起き上がる。

 特に変わったことはない――もう少し寝よう。

 そうして布団を被ろうとすれば、寝る前にはなかった丸い物体に気がついた。

 薄闇でも分かる橙のソレ。

「…………みかん?」

 よくは分からないが、手にとれば間違いない質感と香り。

 考えようによっては、幽霊の類と騒いでも良さそうなのを、しかし小春はあまり考えもせず、寝ぼけたまま、皮を剥き剥き食べていく。

 床からは抜け出せたものの、案の定、外に出ただけで足が竦んでしまった小春は、久紫の世話役を他に頼み、家で養生を続けていた。

 我ながら、なんと脆い精神か。

 そう嘆くものならば、

「なにを仰いますか。小春? 貴方と来たら幽霊の類以外なら、誇れるほど図太い神経をしていますよ?」

 と絹江に窘められた。例に、ミミズを素手で引っつかんだやら、物取りに無茶な体当たりをしたやら、顔を覆いたくなる遍歴を上げられる。

 次いで表情を和らげ、

「それに、この一年、ほとんど休みなく働いていたのですから」

 言われて気づくのも本当に間抜けな話だが、久紫が来てからずっと、病に伏せる暇もなく、働いていたのを知る。

 だからだろうか。

 寝ぼけた頭も拍車をかけ、なんとなく、このみかんもご褒美のような気がした。

「……あ、皮」

 いくら寝ぼけていようとも橙の残骸を食べる訳にはいかず、くず籠を探すが、炊事場へ置き忘れたのを思い出す。

 仕方がないと立ち上がり、肌寒い空気に一枚羽織って炊事場へ。

 小さな籠にみかんの皮を放った。

 わざわざ来たのだから、残飯用の壷にでも入れれば良いものを、満足そうに籠を持ち上げて部屋に戻る。

 その途中、白い影が前を横切った。

 これには寝ぼけも一瞬にして冷めてしまう。

 しかし、すぐに正体が思い当たる。

「姉様……?」

 けれど、それはそれでおかしな正体だ。長い間臥せっていた姉の歩く姿に、小春はくず籠を抱いたまま首を傾げる。


* * *


 みかんはそれから一ヶ月間、決まって早朝に置かれていた。

 試しに起きて待つが、どうしても眠ってしまう。

 一度寝入ると、大抵朝方までぐっすり安眠できる小春は、日中覗いても変わらぬ姉の彷徨う視線にも、みかんの答えを得られず、悩める日々を送っていた。

「でも……美味しい」

 本来なら不気味なモノ、と口にするのも躊躇われるみかんは、程よい甘さで小春好みの味。一口食べてはもぐもぐ味わいつつ悩みつつ。

 時刻はまだ日が昇って間もないほど。近づく春につれて、日の入りが早くなったのを、出てくる欠伸を噛み潰して感じる。

 皆が起きるまでもう少し。

 さてどうしようか、そんな風に迷っていると、

「小春様」

 庭に面した窓から小さく名を呼ばれた。

 他を起こさないよう気遣う声音を小春は知っている。

 窓を急いで開けると、少し年上の三つ編みの少女が、何やら青い顔で迎えた。

「瑞穂様、どうかなされたのですか? こんな早朝に」

「様は止めてくださいませ。……伸介様からご伝言をお預かりしております」

 眉根を寄せる柴又しばまた瑞穂みずほは、伸介の家の手伝いをしている娘で、小春の幼馴染。

 ついでに伸介の恋人でもある。

「至急、人形師様のお宅へ、と。私からもお願い致したく」

「何か……ありましたか?」

 臥せる小春が久紫の世話役を、と頼んだ内の一人の言に、妙な胸騒ぎを感じる。

 言葉を探す沈黙。

 一度伏せられた瞳がしっかり小春を見据え、

「あの方……このままだと天に召されるかもしれません」

「…………は?」

 沈黙の意味は果たしてあったのか。

 包まれることなく伝えられた「死」に、小春は束の間呆気に取られた。

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