冬 負われる精神

 宮内久紫という殿方は、本当に気難しい。

 お茶を一度出せなかっただけで、前より酷い無愛想。

 買出しに町へ下りてきた小春は、干物に向かって大仰なため息をついた。

 幽藍島を管理する春野宮財閥の主な益は貿易である。このお零れを頂戴して成り立つ町は、雪が薄く積もった正月過ぎでも種々の物に溢れていた。

 売れ残った品物はどうなるのか。

 父に聞けば「使えれば本島に回される」とのこと。

 騙し騙しが鉄則なんだ、何事も。

 それが人間関係も円滑にしてくれる――そんな助言も今は役に立たず。

「あーら、小春さん」

 干物相手に物思いに耽っていた背後から、夏以降、ほとんど聞かなかった冷ややかな、けれど甘い声がかけられた。

 振り向けば、艶やかな長い黒髪に広いおでこの娘が一人。

「……さつき様、お久しぶりです」

 頭を下げれば「お久しぶり」と微笑み返すさつき。

 だが、目だけは鋭く小春を捉えたまま。

「久紫様は、お元気かしら?」

「はい、お変わりなく」

 表面上の笑みに、同じような愛想笑いを貼りつける。

 と、転じてさつきの顔が情けないものに変わった。

「あの噂はご存知? 久紫様、よりにもよって、分家の中でも問題児の伸介と恋仲なんですって?」

 はあ、としか返事はできない。

 あれから一度だけ、久紫の家から出てくる伸介を見かけたが、もの凄い形相で逃げていった姿が最後で、以来、訪れた様子はなかった。伸介には色々聞きたいことがあるものの、なにせ掴まらないのだから、小春としても困ってしまう。

「しかも、貴方が手引きしたと聞きましたわ」

「はあ!?」

 いきなり投げつけられた言葉に、身分も忘れて令嬢の顔をまじまじと眺める。

 かつてない小春の無礼な態度を受け、さつきが鼻を鳴らした。

「嘘はお止めなさい。久紫様の世話役の貴方が、あの問題児と仲が良いのは皆知っています。白状なさいな」

「仲が、良い……?」

 生まれて初めて聞いたでたらめに、軽い頭痛を覚える。

 段々さつきの相手をするのも面倒になり、小春は干物を買って戻ることを選んだ。

 別れの挨拶を丁寧にして立ち去ろうとしたのだが、見た目重視の格好をした令嬢は、寒空の下、何故か震えながらついてくる。

「小春さん! 無視なさるおつもり!?」

「おつもりもなにも……伸介とは仲良いわけじゃありませんから」

 わーきゃー、と猿の奇声にも似た文句を背中に、最低限の礼儀を保った返事を挟みつつ進めば、崖上の家が見えてくる。

 途端、恥らうようにさつきが静まり、小春は内心で苦笑した。


* * *


 戸口に手をかけ、開けようとすると、さつきに襟首を引っつかまれた。

 抗議に開こうとした口は手で塞がれた。

「お静かに。久紫様のご尊顔、まずはわたくしが……」

 ふと夏の一件を思い出す。

 さつきにより、かなりの不機嫌を見せた久紫が、今の、上乗せの無愛想ではどんな態度を取るか。

 検討もつかない。

(傷害沙汰にだけはなりませんように)

 祈る小春の前で、戸口を薄く開けて覗くさつき。その目が色に酔いしれたものから、徐々に愕然としたものへ変貌していく。すっかり固まってしまったのを不思議に思い、少し背伸びをして小春も同じように覗いた。

 息が止まりかけた。

 ふらり、去るさつきの背も追えず、小春は隙間の光景に唖然とする。

 部屋奥、窓辺の側。いつも雪乃のいる場所に久紫はいた。

 支えで立つその身を抱きしめるように、ぴたりと寄添って。

 更に白い頬を優しく撫で、長い髪を一房掬い、恭しく口づける。

 小春は、ぴしっ……と己が固まる音を聞いた気がした。

 そうして、最近の久紫の不機嫌事情を察する。

 さつきと出会ったお陰かは分からないが、鮮やかに蘇る、夏の夕暮れ。

 二人の少女の前で意中の男は、人形に艶かしい接吻をしてみせたではないか。

(つまり……嫉妬?)

 易く雪乃に触れる、小春に対しての――。

 眩暈がした。

 それならそう言えば良いのに。

 そんな風に思いながらなおも見つめていれば、今度は掬った髪を忌々しげに握り締める久紫。頬を撫でる手も、同様の力により白くなり、柔和な微笑みを射抜く目は、一転して憤怒に満ちたものとなった。

 まるで他に現を抜かす伴侶を憎むが如く。

 そんな修羅場とは縁遠い家庭の小春だが、一つだけ分かることがあった。

 遠慮なく戸口を叩き開け、

「異人さん! 雪乃さんが壊れてしまいますっ!」

 藁靴を脱ぐのももどかしく、驚く久紫の身を雪乃から引き離した。

 突然の凶行に、反応も出来ず倒れる久紫。起き上がるより先に雪乃との間に入る。

「何を考えてらっしゃるんです!? 最初で最期の合作、そう仰ったのは、異人さんではありませんか!」

「ユキノの娘……? いつから……」

 呑気に惚ける様に、余計腹が立った。

「いつからだって良いでしょう!? 人の手を二回も叩いて、触るなと壊れると怒鳴ったのはどなたですか!?」

 ここまで声を荒げたのは初めてだ。喉が痛い。頭が煮えたぎる湯の如く熱い。

 顔を真っ赤にして怒る小春に、久紫はただただ驚きを向けていた。


* * *


 のろのろ外に出て行った背を見届け、小春は雪乃に、おずおず触れる。

 怒鳴り散らしたおかげか、近頃抱えていた憂鬱は幾分晴れたが、それ以上の妙な罪悪感が残ったのも事実。

(そもそもわたくしが、雪乃さんの手入れをしたのが間違いなのかしら)

 ため息が漏れる。

 しかし、久紫は人形の手入れはできないという。

 造ったら造りっぱなしでは、あんまりではないか。

 雪乃をどうにか一人で下ろし、向かい合う形で座る。

 俯く微笑の両頬に両手を添えて顔を上向かせた。

「良かった……ヒビ、入ってませんね」

 安堵の息をついて、雪乃の近くにある小棚から飴色の櫛を取り出した。

 握り締められた黒髪が痛々しい。

「全く、異人さんたら……これが本物の“雪乃様”だったら一大事ですよ」

 うなだれる雪乃の後ろに座り、乱れた髪を梳いてやる。数度引っかかったものの、すぐに滑らかな通りが取り戻された。

「雪乃さん。雪乃さんは“雪乃様”をご存じですか?」

 応えはないと分かっていても、小春は楽しげに語る。

「あの方は喜久衛門様をとても好いていらっしゃいました。……今頃、どちらにいらっしゃるのでしょうね」

 泣いてはいないだろうか。悔やんではいないだろうか。喜久衛門の最期を看取ったのが自分ではないことを。

 巡るのは、この雪乃によく似た、懐かしいあのたおやかな微笑み。

 雪乃は、“雪乃”にどこか似ていて、どこか違っていた。

 合作だからか、それとも――。

 もし、この雪乃を喜久衛門一人で造り上げていたとしたら、どうなっていただろう。浮かんだ疑問に髪を梳く手が止まった。

 “雪乃”から喜久衛門への想いは、幼かろうと充分理解できた。けれど、喜久衛門がどう思っていたのかまでは……。

「喜久衛門様は、“雪乃様”と来られても、花街に通われていたような……」

 度々、伴もなしに花街へ消える喜久衛門。

 その背に向けられる、淋しそうな笑みを思い出す。

 幼い頃の記憶でも、拒絶の意思が感じられた、喜久衛門のあの行動。

 おかしい、と考える。

 あんな拒絶をしておいて、何故、喜久衛門は雪乃を造ったのか。

 思考に沈む意識を目の前に移せば、艶めく黒髪の、淋しそうな背中。

 ふと思い立ち、抱きしめてみる。

 そうすることで、あの時“雪乃”を置き去りにしながら、雪乃を造った喜久衛門の気持ちが、多少なりとも理解できるのでは、と期待して。

「雪乃さん……喜久衛門様は、何故、貴方を?」

 囁く。

 と、小春の腕が急に掴まれた。

「っ!?」

 訳も分からず振り解こうと見やれば、掴んでいるのは雪乃の手。

 ぞわり、小春の背筋が凍る。

 混乱に混乱を重ね、思考が完全に止まった小春の顔の横で。


ギギギギギ……

かたかたかた……


 不可思議な音と共に、白い微笑がこちらへ向けられた。

 悲鳴も上げられず、青褪め凝視する小春の目尻に涙が浮かぶ。

「幸乃の娘!?」

 戸口を開けて呼ばれても、振り向けない。


 真っ黒な瞳が、こちらをじっと、見つめるものだから。

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