秋 馳せる思い

 秋も徐々に深まり、乗じて島のあちらこちらが紅葉に色づき始めた頃。

 久しぶりに帰ってきた父の第一声は、

涼夏すずかは元気か?」

「姉様は……お変わりありません」

「そうか」

 それきり、また島を出るまで、父の口から姉の名が出ることはなかった。

 小春の姉・涼夏は、ある日を境に病を患っていた。

 病んだのは、心。

 以来、治る気配はない。

 時折熱に浮かされた瞳が、窺う小春に向けられては逸れていく。

 何かを探す様子に、小春はそっと、姉の部屋のふすまを閉めた。


* * *


 衝撃の夏からこの秋まで、小春はそれでも久紫の世話役を務めていた。

 ただし、彼を見る目がかなり変質したのは否めない。

 ついでに、自分が久紫をどういう目で見ていたのかも、知ることになった。

 さつきがふらふら出て行くのに、連れ立って出て行った小春は、訳も分からずその夜ずっと泣いていた。翌日、赤く張れた目元にしばらく考えて、胸が締めつけられるのを感じ、ようやく久紫が好きだったのだと気づく。

 遅い、手遅れ、なんてことを考える前に、砕け散った恋だったけれど。

 さしものさつきも、「生きている女に興味はない」とまで言われ、あんな光景を見せつけられては、諦めざるを得なかったに違いない。証拠に、あれ以来、久紫の周りで異変が起きることはなくなっていた。


 今日も今日とて戸口前に立つ小春は、少しだけ目に涙を浮かべていた。

 失恋の痛みという浪漫溢れるモノではなく、人形を愛する久紫のことを思って。

 人間相手なら、祝福も呪うこともできるが、相手は人形。応えない相手へ愛を囁く姿は酷く悲しいモノに映る。いっそ人形が応えてくれたなら――と想像しかけるが、その手の話が苦手な手前、一度過っただけで卒倒しかけたのは、言うまでもない。

 さておき、一方的にしかならない久紫の想いを思うと、その姿を見る度涙が浮かんでしまう小春。

 ああ、報われない恋とは、なんと悲しいものなのか。

 いや、本人たち……久紫が幸せならばそれで良いのかもしれない。

 気を取り直し、深呼吸のち、

「おは――っ!?」

 開けた途端、戸口を背にした二人、否、人形と人形師の姿に息が詰まった。

 顔が見る見る上気するのを抑えられない。

 なにせ、人形の着物を久紫が後ろから脱がしている最中なのだ。

 戸口からの光に照らされた人形の肌は、人間のそれより艶かしい。

 声も上げられず、茫然と見ているしかない小春に、久紫が怪訝な顔で振り向く。

「幸乃の娘……何をヤッテる?」

「あ、いえ、はい。お、おはようございます」

 戸を閉めて挨拶すれば、返事は鼻を鳴らすだけ。

 些か機嫌が悪いようだ。

(もしかして、お邪魔だったかしら?)

 ふとそんな考えが過ぎったが、それはあまりに理不尽じゃないかと立腹する。

 そういうコトを行うなら、小春がまだ来ない時間にして欲しい。

 こちらだって朝からこんな衝撃的な場面に出くわしたくなかった。

 朝一でモヤモヤした不満を抱えかけた小春は、しかし、戸を閉め切った後で目にした人形の背に、おかしな模様があるのに気づいた。

 いや、模様というより、これは……。

「名前、ですか?」

 尋ねるつもりはなかったが、つい口をついた言葉に、久紫は忌々しそうに頷いた。

「雪乃……か。師匠だな、コレは……」

(ユキノ……?)

 どこかで聞いた響きに、自分の苗字だ、と納得する。

「へえぇ。この方、雪乃さんって仰るんですね」

「人形に方やサンはいらんだろう」

 愛する相手にあんまりな尖った声。

 久紫ほど濃くなくとも、人形好きな小春は少々むくれる。

「酷い言い様ですね。木で造られているとはいえ、形となれば、名前くらい――」

 言いかけて、そういえばと思い出した。


 帰ってきた父が久紫の元を訪れ、完成した人形を持っていく手筈になった時。

「この人形、名前はあるのかね?」

 尋ねる父を胡乱気に見てから、きっぱりと久紫は言ったのだ。

 「ナイ」と。


「もしかして、異人さん、お人形に名前を付けない主義ですか?」

 結局、父に「いろはにほへと」と番号を付けられ、持っていかれた人形の末まで思いを巡らせていると、

「主義というか……モノに名付ける酔狂な趣味はナイ。第一、師匠だって付けてなかっただろうガ」

 人形を愛してるくせに奇妙な言い回し。

 けれど、思い起こされるのは喜久衛門のこと。

「喜久衛門様は……確かに付けてはいらっしゃいませんが」

「ダろう?」

 それ見たことかとせせら笑う響きに、無性に腹が立った。

「けどそれは、お人形を手にした方が付けるのが良いと、末長く可愛がって頂くためだと仰っていました!」

 つい声を荒げてしまった後で驚く視線に気づいた。だがそれも束の間のこと。

 人形の服を元に戻しながら、

「師匠と俺は違ウ。求める方向性も、理由も……」

 呟く声には、喜久衛門の話ではこれまで聞いたことのない、冷ややかさがあった。


* * *


 外の空気を吸ってくると出て行った久紫を見送って後、小春は雪乃と名前が分かった人形の元へ。

 久紫の言っていた、方向性が気になった。

 恐る恐る、美しい手を取ってみる。

 玉の肌とはこういうのを言うのだろう。

 滑らかな出来栄えは、喜久衛門ではなく、久紫のものだと分かる。

 対して、柔らかな笑みは間違いなく、喜久衛門のもの。

 最初見た時ははっきりと分からなかったが、久紫には柔らかい造形は作れても、感情表現に欠ける部分がある。逆に、喜久衛門は作る人形全てに多彩な感情はあるものの、どこか人形の硬質さを残した質感があった。

 双方の足りないものを掛け合わせて造られた人形は、小春の目に特別なものとして映った。

「……雪乃さんって、とても愛されているお人形ですね」

 吐息のように囁くと、柔和な顔が、更に華やいで見える。

 羨ましい気もする、綺麗な微笑み。

 師匠と弟子が、その時持ち得る全ての技術を駆使して作り上げた人形だ。

 だからこそ、久紫も惹かれて――

「でも異人さん、雪乃さんのお名前は知らなかったみたい」

 目線は人形に合わせながら、小春は小首を傾げた。

 それ以前に久紫は人形に名を付けず、モノとまで言いのける。

(先ほど言っていた、理由が関係しているのかしら?)

 考える。けれど、詮索するつもりはない。それは世話役の務めではないから。

 両手で包んでいた手を離し、髪を一つ撫でてみる。

 手触りは――

「これは……人の髪?」

 珍しいと思った。

 喜久衛門にしろ久紫にしろ、髪の毛は植物を加工した物が主。

 その理由は前に喜久衛門が「人の髪ってのは、情があり過ぎるからな。出所も不明な場合が多いから怖くて使えないんだよ」と、冗談めかして言っていた。

 尤も、冗談めかしていたのは声と表情だけで、眼は暗い光を湛えていたのだが。

「背中の文字……異人さんが気づかなかったのは、肌以外、全て喜久衛門様が?」

 尋ねたところで返ってくる答えはない。

(雪乃……ユキノ……ゆきの……)

 妙に引っかかる、苗字と同じ響きの名。

「ゆ――」

「幸乃の娘」

 口にしようとした名に、苗字が被さる。

 驚いて戸口を向けば、久紫が居心地悪そうな顔をして立っていた。

 先ほどの非礼を詫びれば、いいんだと首を振り、

「資料が欲シイ。案内して貰いタイ」

「はい、只今」

 草履を履いて久紫に向き合う。

「どちらまで?」

 微笑みながら尋ねると、露骨に視線が外された。

 とても言いにくそうな顔で、諦め混じりのため息と共に告げられたのは、

「…………………………師匠が好んでイタ場所なのダガ」

 ひくり、小春の自然な笑みが、愛想笑いへと変化を遂げた。

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