夏 生きた女

「オカシイな、と思ったコトはないか?」

 始めにそう切り出されて、小春はようやく顔を上げる。

 火照りに潤んでいた瞳が困惑を宿せば、久紫はやれやれと首を振った。

「作り置いた料理が消えてタ、とか。前かけが憶えのナい場所に落ちてイタ、とか。買出しには足りてたハズの材料が、早くに底をツイた、とか」

 上げられて思い当たる節は全て。

 驚いた顔の小春に、久紫は疲労感たっぷりのため息をついた。

「でも、どうしてですか? 異人さんには気づかれないように……あ」

 この家で暮らしているのは久紫だが、所有権は幸乃家にある。

 全ては人形師として高名な喜久衛門の弟子で、自身も名を上げつつある実力の持ち主を今の内に手懐けんがため。

 投資、とでも言うべきか。

 だからこそ、提供される衣食住に不安要素があってはならない。

 手練れとはいかないまでも、一通り家事をこなせる小春が、久紫の世話役に抜擢されたのも、そのため。彼の師である喜久衛門と懇意にしていたからこそ、父に選ばれた――と、少なくとも今の小春は、自分の役目をそう理解していた。

 ゆえに、度々起こる異変には口を噤んできたのだ。

 その在りようが、苦手とする怪奇現象に似ていようとも、役目のため、と。

 打算が透けそうな失態に、慌てて口を塞ぐ小春。

 だが久紫は、隠されていたことに対して怒る素振りもなく、

「気づかナイも何も、俺の目の前で行われてイタんだ」

 深々と疲労の息を吐いた。

 あれは春の終わり頃だ、と久紫は語り始めた。


 小春が帰ってから、戸が叩かれているのに気づいた。

 崖上のこの家には日頃から、世話役の小春と数人の使いが訪れるだけ。

 てっきり小春が何か忘れ物をしたのだろう、勝手に開けるだろう、といつものように、戸を背にしたまま、人形の具合を確かめていると、


「また、戸を叩く音がスル」

 淡々とした語り口ながら臨場感溢れる様に、怖い話の類が苦手な小春は青褪め涙ぐむ。けれど、逃げはしない。幽霊の類ではない、という久紫の前置きを信じていたから。

 ――だとしても充分、怖いのだが。


 作業に集中できないと次第に苛々してきた久紫は、思い切って戸を開けた。

 だがそこには誰もおらず、代わりに白い文が戸の隙間からはらりと地面に落ちた。


「何が書いてアッタと思う?」

 尋ねられ、今にも泣き出しそうな顔で首を振る。

「タダ一言。“お慕いしております”、とな」

 更に青みを増す小春とは対照的に、久紫は段々肩を怒らせる。


 次の日、また同じような文が届いた。

 今度の文面は“この想い、いかほどか、貴方様に届きましょうや?”。

 知るか! と怒鳴りつけたところで、相手はない。

 また次の日も、“夢で貴方様にお会い致しました。きっと赤い糸で結ばれているのですね”。

 吐き出せない怒りに息が詰まったのは、初めてだった。

 それから十日ほど同じような文が届き、久紫の機嫌は比例して悪くなる。

 どうにか捕まえようと思うのだが、この犯人、計算なのか間抜けなのか、散々好きだなんだと抜かしておきながら、肝心の名前を書いていなかった。

 となれば、隠れて実行犯として捕らえるべき、そう考えて小春が帰って後、家の影に隠れて犯人を待つ。


「で、来たんダ」

「どなたが? まさか、さつき様が……?」

 出した名で不機嫌さを増した久紫に、正解かと思いきや、

「イヤ、男だった」

「へ?」


 戸の前、例の文と丼を持った小男の姿を認めた時、久紫の心は決まった。

 コイツを葬り去るしかない、と。

 久紫は自分の腕力に自信があった。

 伊達に師匠の伴として、重い人形や材料を背負ってきたわけではない。あとで全て師匠のお茶目な冗談と聞いた時は、卒倒しそうになったものだが。

 それはさておき、小男はあっさり久紫にとっ捕まり、ついでに容赦のない拳と蹴りを受けた。

 変態め! と罵倒する久紫だが、小男はそれよりも落とした丼に青褪めたという。不可解なその様子に尋問をしようとしたその時、甲高い悲鳴が久紫の耳を貫いた。

 今度はなんだと見れば、おでこの広い、艶やかな衣に身を包んだ少女の姿がある。

 見たことのない相手の出現に驚く久紫には目もくれず、何やら激昂する少女は地へ伏す小男まで真っ直ぐ向かうと、その勢いのまま怒鳴り散らし叩き出した。

 自分以上に殺気立つ少女を前に、捕り物真っ最中だったことも忘れてぽかんとする久紫。そんな様子に遅れて気づいた少女は、小男そっちのけで顔を赤らめた。


「イヤですわ、ワタクシったらはしたない……と」

「……まさか、さつき様ですか?」

 小春の驚きに久紫は渋い顔で頷く。


 さつきは自己紹介をした後、文の経緯を事細かに久紫へ説明した。

 町で貴方様を拝見して以来、この胸のトキメキが治まらないの。

 最後に加えられた言に、久紫はコイツが元凶かと青筋を浮かべ、はっきり言った。

 俺はお前が嫌いだ、と。

 けれど、さつきは身をくねらせて、


「お前、ダなんて、未来の旦那様ミタイな台詞……嫌い嫌いもスキの内だって、分かってますわ、と言われた時、本気で殺意が湧いた」

 久紫から、ぎりっ……と力一杯噛み締める音が届く。

 小春はといえば、常時余裕ばかりちらつかせて、艶めくさつきの知らない姿に、ただただ呆気に取られるばかり。

「丼には得体の知れない料理モドキが入ってた。アレを作ったのは自分だと胸を張っていたぞ、アノ娘。幸乃の娘より料理が美味いのだと豪語していたが……」

 久紫は眉間に皺を寄せ、苦い薬でも無理矢理呑まされたような顔をする。

「断言してヤッタ。お前のソレが料理と認識されルなら、幸乃の娘が作ったのは、神の域に達した芸術に等シイとな」

 褒められて嬉しい反面、そこまで称されなくては釣り合いの取れない料理とは?

 悪寒が背筋を通る。

「スルと今度は、幸乃の娘の料理に毒されてシマッタのね、待っててアナタ、必ず救い出して差し上げます、などとのたまう。さっさと帰ったカラ、終わったとバカリ思えば、夕暮れ時にナルと、作り置きの料理を全て捨て、毒染みた丼を置いてイク。前かけが忘れてアレバ、崖に投げ捨てる。風呂を借りに町へ降り、帰ってミレバ、材料を勝手に使って得体の知れナイ汁を出す――」

「……………………………………………………」

 言葉は終ぞ、口から漏れやしない。

「ソレでモウ来るなと、目の前で文を燃やしてヤッタんだが……」

 さぞさつきは傷ついたのではないか。少しだけ可哀想に思えば、

「ソウよね、ワタクシは今ココにいるのだから、文なんて野暮だったわ。……なあ、幸乃の娘? アレは病気か何かか?」

 こっちが聞きたいくらいだ。

「……? でもそれなら何故、わたくしに文を託されたのでしょう? さつき様はもう文は送らないと言われたのに?」

 小首を傾げる小春に、答えは後ろから戸を叩き開いて現れた。

「もちろん! 牽制のためですわっ!」

 知らず夕焼けになった空を背負って登場したのは、目をギラつかせたさつき。

 草履を丁寧に脱いでから、

「小春さん! あなた、図々しくてよっ!? わたくしの久紫様の家にいつまで居るおつもり!? たかだか世話役風情が、いつまでもいつまでもっ!」

 家事のために短くした小春にはない、顔にかかる長い黒髪を除けながら、叩きつけるように言う。

「春野宮家の一人として忠告して差しあげます! 有名な人形師のお近くに、御当主に認められた信貴様ならともかく、その娘ごときが居て良いことなど、一つもありませんわ! 早くお帰りになったらいかが?」

 立場の違いを示すようにさつきが胸を張る。

 ずいぶんと勝手な言い草に、小春は唇を軽く噛んだ。

 この家は幸乃家の物だが、この島自体は春野宮家の管轄下にある。春野宮本家に仕える父とこの島に住まう分家の力関係は、拮抗しているように見えていたとしても、娘同士の立場は明確だ。さつきに「娘ごとき」と言われても、小春に反論できる余地はない。

 だが、世話役風情などと、知った口を聞かれるのが腹立たしい。喜久衛門の頃より、乞われてではあるが長く務めてきた役目だ。小春は誇りすら感じているというのに。

 と、目に入る、さつきの綺麗な手。

 腹立たしさが一瞬で朽ちていく。

 先ほど手を取られた時に感じた久紫の、女に勝る美しい肌は、小春のあかぎれた手を否応なく際立たせた。

 さつきの手なら、あの肌に似合うのかもしれない。

 なんとなく、そう思う。

 のろのろさつきに言い負かされた風体で立ち上がり、一歩、踏み出す。

 と、

「いい加減にシテくれ!」

 苛立つ声に振り向けば、真っ直ぐ射る久紫の黒い、しかし異国の瞳。

 ただし、その強い怒りはさつきに向けられており、

「モウいい、はっきり言ってやる! 俺は――」

 久紫の手がぐいっと引っ張ったのは、合作の人形。

「生きた女に興味はナイ!」

 そう宣言した久紫は、一転、愛おしそうに人形の唇を舐めとり口付けた。


 生々しいソレに、色々崩壊したさつきの悲鳴さえ遠く聞こえたが、小春はぐらりと身体が傾くのを辛うじて止めた。

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