夏 恋文

 照りつける陽が、じりじり小春の肌を焼く。

 買い出しのため町に下りただけなのに、風通しの良い崖上とは段違いに暑い。

 店先で涼みつつ、用を済ませたなら、暑さから逃げるように崖上の家に向かう。

「小春さん」

 と、その背に声がかかった。

 何事かと振り返れば、甘味処でこちらを面白そうに見つめる、涼やかな顔たち。

 小春の顔にうんざりした心情が薄ら載るが、仕方ないと娘たちに近づく。

「何か御用ですか、春野宮のお嬢様方?」

 いくらか愛想を引っ張り出して笑いを貼りつけた。

 言外に用がないなら呼ばないでください、という意味を込める。

 それには気づかない素振りで、三人の娘のうち、広い額を惜しげもなく晒す、一番身なりの良い少女――春野宮さつきがくすりと笑った。

「大変そうね」

「今日は暑いですから」

「あの方はお元気?」

 少しだけ熱に潤んだ瞳。

 さつきのその様子に、小春はほとんどどうでもよさそうに、

「ええ、お変わりなく」

 小春の返事を聞くか聞かないか辺りで、「きゃー」やら「良かった」やら騒ぐ娘たち。それだけ答えれば用は終わっただろうと、小春は再び歩きかけ、

「小春さん、お願いがあるのだけれど。良いかしら?」

 艶めいた、からかうような微笑が向けられた。

 同じ年頃ながら、まだ幼さが抜けない顔立ちの小春と比べ、美人と称されて申し分ないさつきの表情に、一瞬どきりとする。

「この文、届けてくださらないかしら?」

 幽藍島は春野宮財閥の所有する島だ。分家とはいえ春野宮の令嬢のお願い――命令を、父は側近ながら、どうしてその娘にしか過ぎない小春に断ることができよう。

 互いの立場を完璧に把握しているさつきに、小春はただ、頷くのみ。


* * *


 軽く戸を叩いても返事はない。

 小春は構わず戸を開けると、とりあえず買い出した品々を所定の位置に。

 障子を開けきった崖上の家には、涼しい風が入ってくる。土地柄、滅多に強風に襲われない上、虫もそうそう入ってこない造り。

 暑さにやられた頭で、(夏の間だけでもここに泊めて貰えないかしら)とぼんやり考えかけるが、次の瞬間には、あまりに浅はかな想像をしてしまったと、顔を真っ赤にして己を叱責する。

 現在、この家の主として住まうのは、立派な殿方なのだ。――前の主も殿方は殿方だが、幾分とうが立っていたため、その辺はあんまり深く気にしていなかった。

 うっかり性別を失念するくらいには、精神が未熟だったとしても、小春とて一応は女である。身体は特有の丸みを帯びて久しい。

(それに……)と預かった文を見てため息をつく。

 こんなものを預かって、そんな馬鹿な真似をすれば、さつきに、引いては春野宮家に睨まれてしまうだろう。

(……もしかして、コレは牽制のつもりなのかしら?)

 苦笑が漏れた。

 気を取り直し、さて、久紫はどこだろう、と三間に区切られた狭い室内を、火照りを冷ましながら探す。

 季節を一つ経て、だいぶ打ち解けてきたその姿は、すぐに見つかった。

 戸口の真向かいの障子横の壁を背に、風通しのために開け放たれた障子に負けないほど、大口を開けて呑気に寝ている異国の男。例の片眼鏡をつけたまま、無防備に惰眠を貪る様に、小春の口の端がヒクッと動いた。

 人が散々熱かったり重かったり苦しんでいたのに。加えてご令嬢連中に絡まれたというのに。

 彼の人形師様は涼しい室内で、気持ち良さそうに涎を垂らされているのだ。

 腹を立てない方が難しい。

 得体の知れない苛立ちを抱え、文でぱたぱた自分を仰ぎながら久紫に近寄る。

 ぐしゅっとその鼻が鳴った。

 それだけで小春の頭が冷静さを取り戻した。

「異人さん、起きてください。風邪を引いてしまいますよ?」

「むー?」

 がっくん、ともたれていた壁から身体を引っぺがした久紫は、つむじを見せながらしばらく唸った後、顔を上げた。

「……幸乃の娘……か?」

 その間抜けな姿に笑いを堪えつつ、文を差し出しながら、茶化すように言う。

「分家のさつき様からです。全く、どこで人気をお集めになられているのか」

 反射で受け取る久紫に苦笑し、さて夕食の作り置きでもしましょうか、と視線を逸らす小春だったが、響いた音に驚き振り向いた。

「異人さん、何をっ!?」

 その先では遠慮なく破られる、折りたたまれたままの文。

 さつきに対して好意的な感情を持っていなくとも、一生懸命書いたであろう文の結末に、小春は非難の眼を向ける。

 対する久紫は気にも留めず、囲炉裏の細い火にこれを投げ捨てた。

 更に上がる非難にも似た小春の声に、久紫は寝ぼけた表情のまま頭をがしがし、苛立たしげに掻く。

「幸乃の娘。お前、なんてモノ持ってきやがル」

「だから文です! ああもう、酷い」

 火掻き棒を使ってどうにか紙片だけでも集めるが、そのほとんどが黒ずんだり灰塗れだったり、散々なもの。

「酷すぎます、異人さん! あのさつき様が文を書かれるのも珍しいのに、こんな」

「珍シイ?」

 惨すぎます、と言う間もなく、憤怒を抑えた声音に気づき、小春は視線を囲炉裏の紙片から久紫へ移す。

 立ち上がりった顔が、嫌悪に歪んでいた。

 手を叩かれた時よりも、遥かに恐ろしい形相を前にして、小春は蛇に睨まれた蛙の如く息を止める。

 目に浮かぶのは混乱と恐怖。

 このまま絞め殺してきそうなほど殺気立つ久紫に、震えが止まらない。

 そんな小春の様子に気づいたのか、久紫は一瞬戸惑う素振りを見せてから、大きくため息をついた。

 いや、ため息というより、深呼吸に近い。

 怒気を逃がすような深い息に小春の怯えが知らず緩まった。

 その場で座り直せば、久紫がちょいちょいと手招く。

 恐る恐る近づいたなら、そこに座れと前を指差す。

 迷いはしなかったものの、少しだけ久紫より距離を置いて座る小春。

 不穏になったら、すぐにでも逃げられるように。

 それくらい先ほどの久紫は恐ろしかったのだ。


* * *


「外は暑かっタか?」

 開口一番の意外な質問に、小春は何を今更と頷く。

 今日は夏に入ってから一番暑い日だ。

 立ち寄った店の顔見知りも、皆、ぐったりした様子だった。

 本当は休みたいところを、休んでは日常が差し支えると、力なく笑うのを思い出し、同時に久紫が先ほどまで涼しい中で寝ていたのを思い出す。

 怯えより怒りが沸々戻ってきた。

 そうして預かる羽目になった文を捨て、何故と問えば怒られるのは、あまりに理不尽だ。小春が本来の調子を取り戻したなら、これを確認したように一つ頷き、久紫が「ふむ」と顎に手を当て考える形を取る。

 何を語るつもりなのか、見当のつかない小春は眉根を寄せた。

「暑い日、コノ国では怖い類の話をスルと聞いたが……?」

「それは……はい」

 頷いた小春だが、そのテの話は苦手だ。

 過去、人形の髪が伸びるという話を聞いて、この家を遠ざけた記憶がある。

 今でもふとした瞬間、思い出しては、怖くなったりするほどだ。

 何気なく、障子窓を背に座る久紫の左隣、部屋の奥隅の人間に似た人形を見る。

 たおやかに笑うその目が、こちらをちらっと見た気がして、背筋がぞくりとした。

 慌てて久紫に視線を戻せば、こっちはこっちで意味深な暗い笑み。

「では丁度良イな。今から話すのは実体験に基づく、恐ろしい話なんだが……ってオイ?」

 久紫の視線が下へ移ったのに合わせ、そろそろ逃げ出そうとする小春。

「いえ、何でもないです……どうぞ先を続けてください」

 言いながら、なおも戸口へ向かう。

「待テ、幸乃の娘。ドコへ行く?」

「ど、どこと申されましても、わたくしには何とも……」

 へらへら愛想笑いを浮かべ、草履に足を伸ばす。

 調子の良い笑い顔とは対照的に、顔色はすこぶる悪い。

「オイ?」

 その肩を久紫が止めた。

 瞬間、小春は自制心を失い、置かれた手を勢いよく払うと、耳を塞いでしゃがみ込んだ。続けて叫ぶ。

「嫌です! 聞きたくありません! 怖い話とか、わたくし、本当に本っっっ当に、駄目なんです!!」

 涙目と共に震えだす身体。

「幸乃の娘、マテ、落ち着け――」

「いやっ!」

 見もしないで両手を突き出す。

 途端に鳴るのは、「ぐっ」という久紫の呻きと、強かに打ち付けたような音。

 驚きに見れば、尻餅をついた久紫の姿がある。

「異人さんっ!?」

 慌てて側に寄り、身を起こす手伝いをする。

 打ち付けた背中を擦ると、反対の手を掴まれた。

 反射ですぐ振り払おうとしたが、苦痛に歪んだ顔の近さに思考が止まってしまう。

「イタタ……幸乃の娘、少しは落ち着いたカ?」

 立ち上がろうとするのをぎこちなく手伝いながら、次第に俯いていく小春。

 真っ青から真っ赤へと変わる顔色だが、久紫は気づいた様子もなく、

「恐ろしい話ってノハ、別に幽霊の類じゃナイ。まあ、俺にとっては幽霊ヨリも恐ろしい話だが」

 手を引かれては、先ほどより近い位置で座らされた。

 未だ顔を上げられない小春をどう思ったのか、再度深呼吸してのち、久紫は口を開いた。

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