春 遠い笑顔

 三日後。

 棚は小春の予想より早く直った。

 もう少しかかっても良かったのに。

 通常であれば賛嘆するところだが、戸口の外で小さくため息をつく。

 大工に混じって家に入り、同じ時間に出ていたから、どちらから口を開くこともなく、やり過ごせていたのに。

 今日からまた久紫と二人きり。

 羨ましいという声は今もって聞こえてくるものの、

「本当……誰か、代われるものなら代わっていただけませんか……?」

 とはいえ、今更叩かれたことを理由に、誰かに泣きつくつもりはない。

 そんなつもりがあるなら、最初の時にそうしている。

 ただ、気まずい。

 姿を浮かべるだけで気力を殺がれる相手に、自分を慰めるように短い髪を撫でたなら、意図しないため息がまた出た。

(仕方ない、か)

 頬を一度張って、深呼吸。

 直前の迷いなど見せない早さで戸口を開き、深々と頭を下げた。

「おはようございます」

 返事はない。

 多少想定はしていたが、三日経ってもまだ怒っているらしい。

 最初の時と違い、あの時は結局、人形に触ってもいなかったというのに。

 胸内でもう一度だけため息をついて顔を上げる。

 と、片眼鏡の無愛想な顔が目の前にいた。

「異人……さん?」

 不意の邂逅に、愛想笑いを貼りつけてみるものの、久紫はしかめっ面のまま。

 途端、帰りたくなる心を叱咤して、相手の出方を待ってみる。


 長いこと見つめ合っていた気がする。


 段々奇妙な恥ずかしさに襲われ、小春はついつい視線を外してしまう。

 その様子に、久紫の方からため息が漏れた。

 驚いて視線を戻すと、自分より広い背中。

「来い」

 言われて招かれたのだと気づくまで数秒。

 狐につままれたような気分で床に上がる。

 そうして久紫が立ち止まったのは、例の人形の前。

(どうされたのでしょう? まさかわざわざここで説教を?)

 読めない行動に、最悪の状況が脳裏を過ぎる。

 父はほとんど不在で、母もおっとりとした人。姉が一人いるが、母にとても気性が似ている。そんな家庭で育った小春は、怒鳴られるのに慣れていない。

(耳を塞いでも怒られそう)

 どんどん帰りたくなる気持ちが強まっていく。

 だが、その耳に届いた言葉は全くの予測外だった。

「お前、人形の手入れもできるのカ?」

「え……あ、はい。多少ですが」

 頷いて渡されたのは、綺麗な飴色の櫛。

 なおも困惑し続ける小春の様子に、久紫は一つ咳払いをしてから、

「この前は悪かっタ。謝る。蜘蛛の巣がついてるとは思わなかったんダ。それでナ、考えたんだガ、俺は人形は造れても、出来上がった人形にまで気が回らナイ。だから――」

 恥ずかしそうな困ったような、そんな顔が浮かぶ。

「幸乃の娘。アンタにコイツの世話を頼みたいんだが……良いカ?」

 指差したのは散々触るなと言われてきた人形。

 突然の申し出に、小春は驚きながらも頷いた。

「は、はい。……ですが」

「?」

「わたくしが触っても良いのですか? あの人形は……」

「ああ、アレは……興味本位で壊されルと警戒シテいたカラ……師匠との、最初で最期の合作ナンだ。だカラ……」

 そうでしたか、と頷きかけて、「最期」の言葉に引っかかりを覚えた。


* * *


 乱れた髪を整えると、人形は段違いに柔和な笑顔となった。

「…………喜久衛門様が、亡くなられた……」

「ああ。去年の暮れ頃に、流行り病を患ってナ」

 膝をつき合わせて座る久紫は茶を啜る。

 小春は茶には口をつけず、ただじっと震える水面を見つめていた。

 あんな愉快な爺様が死ぬなんて。

 最後に会ったのは去年の夏。花街の姉様方に足蹴にされていた姿を、こんなにも早く、懐かしむ日が来ようとは。

「……本当にいたんだナ」

 呟きに顔を上げる。光の加減で片眼鏡の中に映った小春は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。

「亡くなる前に師匠は言われたんダ。自分が死んだら残念がる奴は五万といるが、悲しんでくれルのは片手で足りると。コウやって伝えても、大抵の奴ら……アンタには悪いが、幸乃殿ですら、新作がモウ見れないと残念がるだけで、死自体には悲しみナンか持ってなかったからなぁ」

 そう言う久紫も淋しそうな顔。

「いえ。父は……根っからの商売人ですから……」

 喜久衛門をここに連れてきては小春に世話を頼み、自分は碌に話しもせず次の商談に駈けずり回る信貴の背中を思い出す。

 その様子を謝れば、決まって喜久衛門は「いやいや、こんな静かな所を提供してくれるだけで有難いことだよ」と満足そうに笑っていた。

「でも信じられません。……いえ、異人さんの話が信じられない訳ではなくて」

「分かってル。俺だって未だに信じられん。自分で看取っといてナンだが、ひょっこりその辺カラ現れるんじゃないかと、ツイ思ってしまう」

 世間で知られる宮内喜久衛門という人物は、厳格で常に仕事一筋な印象だが、実際はかなりお茶目な性格であった。

 もちろん、人形作りに手は抜かない。

「そうですね。そんな方……でしたから。……でも、良かった」

 安堵の息に久紫が眉根を寄せる。

 小春を見る目が不信感を露わにしていた。

 だからこそ小春は微笑む。

「喜久衛門様が昔、仰っていました。己は人形ばかりかまけていて、どうも人を蔑ろにしてしまう。だから、死ぬ時はきっと、一人で死ぬのだろう、と」

 ――お嬢ちゃん、ワシを看取ってやってくれんか?

 冗談めいた笑みを浮かべて、時折そんな風に、喜久衛門は小春に言う。

 決まって頷く小春の頭を、心底嬉しそうに撫でる、大きな皺の手。

 看取ったのは自分ではなかったけれど……。

「だから嬉しいんです。異人さんが喜久衛門様の側に居てくださって」

「……ソウ、か」

 茫然とした面持ちで、久紫が湯呑みに視線を落として俯いた。


* * *


 静かな沈黙が続く中、その日の小春の仕事は終わりを迎えた。

 帰り道、夕暮れの空の下、煌く海、その向こうの水平線。

 霞む本島がある辺りを眺めながら町へ向かう。

 小春は生まれてこの方、幽藍島を出たことがない。

 そんな少女の前に度々現れた老人は、本島どころか世界各地を回って来たのだと豪語していた。

 どうせ花街で人気を得たいがための作り話さと、姉様方は影でせせら笑っていたけれど。土産は話だけで、語る中身を証拠として持ってきたことは、一度もなかったけれど。

 その土産だけで小春は島にいながら、どことも知れぬ異国へ想いを馳せることができた。夢の中で喜久衛門が色んなところを案内してくれた、そんな風に伝えれば、皺だらけの顔を更に深めて、そうかそうかと嬉しそうに頷く。

 ――いつか、一緒に行こうね。

 小さな頃、そんな他愛ない約束をしたのも思い出す。

 もう、叶わないのに――。

 じわりと視界が滲んだ。

 これを夕陽のせいと決めつけて拭い、小春は視線を前に移した。

 夕陽を、先の水平線を見てしまえば、また泣いてしまいそうだから。


 それでも翌朝、見た夢はあまりに遠く、優しくて、知らずに涙が溢れてしまう。

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