一年目
春 蜘蛛の糸
よく晴れた日に、本島と呼ばれる場所から幽かに見えるこの島は、その昔、罪人が流される地として使われていた。近くに潜めるような小島がないこと、本島との間に見た目では分からない複雑な海流があることなどが、流刑地に適していたらしい。
とはいえ、今の幽藍島で、そんな過去の名残を見つけるのは難しいだろう。
数十年前、本島でも影響力を持つ
もしも悪意を持ってこの島を表すならば、金持ちの道楽そのもの。
そんな幽藍島で暮らしているのは、主に春野宮の分家と春野宮に縁ある者たち。
中でも、春野宮の血筋でもない
これは偏に、春野宮を影で支える、現当主・幸乃
その末の娘である
* * *
慌ただしく言い残して、また本島へ出て行った父を、小春は恨めしく思った。
「無理に決まってます。だってあの方、
出逢いから数時間で知った相手の気性を思えば、殊更大きなため息が出た。
第一、父様が悪い、とも思う。
同じ年頃の分家の娘たちの家には、見合う人数のお手伝いさんが雇われているのに、やたらと広い幸乃の屋敷には三人だけ。
彼女たちがどれだけ手練れでも、手伝わなくては日が暮れてしまう。
お陰で、小春の手にはあかぎれがすっかり馴染みとなってしまった。
「大体、なぜわたくしが?」
叩かれた赤みも痛みもすでにないとはいえ、一方的な敵意に傷ついた心は、そう簡単に癒えるものでもない。
加え、あれからも数度、久紫に町を案内していたのだが、その後、決まって分家の娘たちに囲まれ、
「いいわねぇ、幸乃さんは」
「ねえねえ、あの方、どういったものがお好きかしら?」
「これ、届けてくださらない?」
と、口やかましい。
では、誰か代わりに行って頂戴、と言いたくとも、ご令嬢たちに誰かの世話は無理だと理解している。
幸乃の家のお手伝いさんに頼むのも可能だが、それだと家が立ち行かなくなる。
彼女たちの手際に自分はまだ程遠いのだ。
「はあ」
幾度となく、ため息混じりの吐息を山吹の着物越し、かじかむ手に吹きかける。小春ももうすぐ十五になる春の只中だが、海に近い幽藍島は未だ暖かな風を運んできてくれない。
晴れることのない悩ましい思いに耽っていたなら、目の前に木造の戸。
いつの間にか目的地についてしまったようだ。
観念したように、深いため息をつき、意を決して小さく叩く。
「ドウゾ」
ぶっきらぼうな応答があった。
* * *
久紫様、と呼ぶのは、なんだか躊躇われ、
「異人さん」
「……ナンだ?」
定着した呼び名に片眼鏡の不機嫌な目がこちらを射る。
小さな人形を彫る、濃紺の作務衣の背は丸めたまま。
おずおず茶を差し出すと、鼻を鳴らして受け取った。
相変わらずの無愛想。
ため息が出かかるのを止める。
集中しているように見えて、久紫という人物は些細な物音でも気が散る様子。
世話のためならいざ知らず、心の機微程度で音を出されては迷惑らしい。
年頃の娘にしては短い髪を一つ振り、作業に没頭する久紫から離れ、人形の部位が置かれた棚を見る。最初はそれすら許してくれなかった久紫だが、少しは師を世話していた小春を認めてくれたのか、ある程度近づいても怒鳴らなくなっていた。
久紫の作る人形は、全ての部位において、完璧のように見える。
その出来栄えは喜久衛門を凌ぐほど。
ただ、決定的に何かが足りなかった。
それが何かなど、人形師でもない小春には、はっきりとは分からないのだが。
と、つぶらな瞳とかち合った。
視線を交わして数秒。
小春が口を開くより先に、もごもご動かしていた口を止め、一言。
「ちぅ」
「ね、鼠っ!」
「チッ、またか!」
あたふたする小春とは対照的に、没頭していたはずの久紫は箒を持つと、怯むことなく棚へと振り下ろす。
力一杯叩きつけられた箒は鼠を捕らえず、棚を半壊させてしまった。
「人形が……」
齧られていた木の指が、手ごと棚から落ち、小春の足下で折れる。
が、気を殺がれた腹いせなのか、鼠殺しに没頭し出す久紫は、それに気づく様子もなく、なおも暴れた。
小春は目の前の凶行にしばし茫然としていたが、久紫の箒がもう一度、棚を襲おうとしているのを察すると、慌てて飛びつき制止を叫んだ。
* * *
半壊した棚と人形を片付けながら、明日にでも大工の棟梁に来てもらわなきゃ、と思い馳せていると、
「……悪かったナ」
聞き間違いかと疑ってしまうほど小さな謝罪が、久紫から聞こえてきた。
あまりにも小さい声だったが、小春は聞き返すこともせず、
「いえ……。でも、お人形が……」
バラバラに散らばってしまった腕や足を、悲しい気持ちで拾う。
「人形ならまた作れば良いダロウ。……幸乃の娘。人形がそんなに好きカ?」
問われて驚きに久紫を見る。いつもは二言三言なのに、やけに饒舌。
そんな小春に久紫は後悔した様子で口元を隠す。
「お人形が好きか……って」
くすり、笑ってしまった。
「女の子は大抵好きです、お人形さん。でもわたくしの場合、宮内様の影響が大きいのですけれど」
「宮内様……師匠のコトか?」
また尋ねられ、そういえばこの男も宮内の姓だったと思い出す。
(ご親戚か何かなのかしら?)
にしては似ていない。
父譲りの性格上、気にはなっても詮索してはいけない、と己に言い聞かせる。
「はい。み……喜久衛門様は、よくわたくしにお人形を見せてくださいましたから」
触らせてもくれました、とは言わなかった。
「ソレは……師匠の人形は美しかっタろう」
思い耽る素振りに返事はせず、また人形を拾い、袋に集める。
集めながら、会話をしていることに、内心どきどきしていた。
毎日付き合わせる顔ともなれば、美形も慣れるものだと思っていたのに、邪険にされないだけで、こうも簡単に胸が騒いでしまうとは。
訳も分からない動悸に襲われ、火照る顔を抑える。
と、ある一点に目が留まった。
転がった指を追った先の、居間奥、障子張りの窓辺近く。
あの、女性の人形。
微笑む姿はそのままだが、暗がりの中、光る糸が髪についていた。
蜘蛛の巣……?
誘われるように近づき、何気なく手を伸ばして取ろうとする。
ぱんっ
信じられないほどの力で手首が叩き落された。
「痛っ……」
「ドサクサに紛れて触ろうとするな! 見るのは許したガ、触るのを許した覚えはナイ!」
痛みに俯く頭上で、激昂が轟く。
先ほどまでの高揚が一気に冷めるのを感じた。
(蜘蛛の巣なんて……。貴方に――)
なおも口を開こうとする気配に、
「すみません!」
頭を下げて謝り、残りの手足を乱暴に袋へ詰める。
これが終わったら、今日はもう帰ろう。
惨めな感覚とは別の思いに襲われ、袋を縛る。
「オイ」
呼ばれたが、振り向く気などさらさらない。
「今日はこれで失礼します」
袋を抱え、戸口でもう一度頭を下げる。
「オイ?」
戸惑う気配が伝わる。けれど顔を上げることなく、ぴしゃりと戸を閉めた。
家までの坂道を無言で歩く。
途中、大工に棚の修理を頼むことは忘れずに。
涙に暮れることはなかったが、代わりに少しばかり、苛立ちが残った。
――綺麗なお人形を粗雑に扱う貴方に、わたくしを叱る権利があるとでも?
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