一年目

春 蜘蛛の糸

 幽藍ゆうらんという島がある。

 よく晴れた日に、本島と呼ばれる場所から幽かに見えるこの島は、その昔、罪人が流される地として使われていた。近くに潜めるような小島がないこと、本島との間に見た目では分からない複雑な海流があることなどが、流刑地に適していたらしい。

 とはいえ、今の幽藍島で、そんな過去の名残を見つけるのは難しいだろう。

 数十年前、本島でも影響力を持つ春野宮はるのみや財閥に買い取られて以来、幽藍島の景色は、都に負けず劣らず華やかなものに成り代わっているのだから。庶民の生活を支える日用品から、一時の夢を魅せる花街まで、実に多種多様な商業が、決して広いとは言えない島を賑わせている。

 もしも悪意を持ってこの島を表すならば、金持ちの道楽そのもの。

 そんな幽藍島で暮らしているのは、主に春野宮の分家と春野宮に縁ある者たち。

 中でも、春野宮の血筋でもない幸乃ゆきの家の地位は、春野宮の分家と等しかった。

 これは偏に、春野宮を影で支える、現当主・幸乃信貴のぶたかの能力の賜物である。

 その末の娘である小春こはるは今、重い気持ちを引きずったまま、町外れの小さな家に向かっていた。


* * *


 久紫くし殿の世話、頼むぞ。なに、喜久衛門きくえもん先生と同じように接すれば良いのだ――

 慌ただしく言い残して、また本島へ出て行った父を、小春は恨めしく思った。

「無理に決まってます。だってあの方、宮内みやうち様とは全然違うんですもの」

 出逢いから数時間で知った相手の気性を思えば、殊更大きなため息が出た。

 第一、父様が悪い、とも思う。

 同じ年頃の分家の娘たちの家には、見合う人数のお手伝いさんが雇われているのに、やたらと広い幸乃の屋敷には三人だけ。

 彼女たちがどれだけ手練れでも、手伝わなくては日が暮れてしまう。

 お陰で、小春の手にはあかぎれがすっかり馴染みとなってしまった。

「大体、なぜわたくしが?」

 叩かれた赤みも痛みもすでにないとはいえ、一方的な敵意に傷ついた心は、そう簡単に癒えるものでもない。

 加え、あれからも数度、久紫に町を案内していたのだが、その後、決まって分家の娘たちに囲まれ、

「いいわねぇ、幸乃さんは」

「ねえねえ、あの方、どういったものがお好きかしら?」

「これ、届けてくださらない?」

 と、口やかましい。

 では、誰か代わりに行って頂戴、と言いたくとも、ご令嬢たちに誰かの世話は無理だと理解している。

 幸乃の家のお手伝いさんに頼むのも可能だが、それだと家が立ち行かなくなる。

 彼女たちの手際に自分はまだ程遠いのだ。

「はあ」

 幾度となく、ため息混じりの吐息を山吹の着物越し、かじかむ手に吹きかける。小春ももうすぐ十五になる春の只中だが、海に近い幽藍島は未だ暖かな風を運んできてくれない。

 晴れることのない悩ましい思いに耽っていたなら、目の前に木造の戸。

 いつの間にか目的地についてしまったようだ。

 観念したように、深いため息をつき、意を決して小さく叩く。

「ドウゾ」

 ぶっきらぼうな応答があった。


* * *


 久紫様、と呼ぶのは、なんだか躊躇われ、

「異人さん」

「……ナンだ?」

 定着した呼び名に片眼鏡の不機嫌な目がこちらを射る。

 小さな人形を彫る、濃紺の作務衣の背は丸めたまま。

 おずおず茶を差し出すと、鼻を鳴らして受け取った。

 相変わらずの無愛想。

 ため息が出かかるのを止める。

 集中しているように見えて、久紫という人物は些細な物音でも気が散る様子。

 世話のためならいざ知らず、心の機微程度で音を出されては迷惑らしい。

 年頃の娘にしては短い髪を一つ振り、作業に没頭する久紫から離れ、人形の部位が置かれた棚を見る。最初はそれすら許してくれなかった久紫だが、少しは師を世話していた小春を認めてくれたのか、ある程度近づいても怒鳴らなくなっていた。

 久紫の作る人形は、全ての部位において、完璧のように見える。

 その出来栄えは喜久衛門を凌ぐほど。

 ただ、決定的に何かが足りなかった。

 それが何かなど、人形師でもない小春には、はっきりとは分からないのだが。

 と、つぶらな瞳とかち合った。

 視線を交わして数秒。

 小春が口を開くより先に、もごもご動かしていた口を止め、一言。

「ちぅ」

「ね、鼠っ!」

「チッ、またか!」

 あたふたする小春とは対照的に、没頭していたはずの久紫は箒を持つと、怯むことなく棚へと振り下ろす。

 力一杯叩きつけられた箒は鼠を捕らえず、棚を半壊させてしまった。

「人形が……」

 齧られていた木の指が、手ごと棚から落ち、小春の足下で折れる。

 が、気を殺がれた腹いせなのか、鼠殺しに没頭し出す久紫は、それに気づく様子もなく、なおも暴れた。

 小春は目の前の凶行にしばし茫然としていたが、久紫の箒がもう一度、棚を襲おうとしているのを察すると、慌てて飛びつき制止を叫んだ。


* * *


 半壊した棚と人形を片付けながら、明日にでも大工の棟梁に来てもらわなきゃ、と思い馳せていると、

「……悪かったナ」

 聞き間違いかと疑ってしまうほど小さな謝罪が、久紫から聞こえてきた。

 あまりにも小さい声だったが、小春は聞き返すこともせず、

「いえ……。でも、お人形が……」

 バラバラに散らばってしまった腕や足を、悲しい気持ちで拾う。

「人形ならまた作れば良いダロウ。……幸乃の娘。人形がそんなに好きカ?」

 問われて驚きに久紫を見る。いつもは二言三言なのに、やけに饒舌。

 そんな小春に久紫は後悔した様子で口元を隠す。

「お人形が好きか……って」

 くすり、笑ってしまった。

「女の子は大抵好きです、お人形さん。でもわたくしの場合、宮内様の影響が大きいのですけれど」

「宮内様……師匠のコトか?」

 また尋ねられ、そういえばこの男も宮内の姓だったと思い出す。

(ご親戚か何かなのかしら?)

 にしては似ていない。

 父譲りの性格上、気にはなっても詮索してはいけない、と己に言い聞かせる。

「はい。み……喜久衛門様は、よくわたくしにお人形を見せてくださいましたから」

 触らせてもくれました、とは言わなかった。

「ソレは……師匠の人形は美しかっタろう」

 思い耽る素振りに返事はせず、また人形を拾い、袋に集める。

 集めながら、会話をしていることに、内心どきどきしていた。

 毎日付き合わせる顔ともなれば、美形も慣れるものだと思っていたのに、邪険にされないだけで、こうも簡単に胸が騒いでしまうとは。

 訳も分からない動悸に襲われ、火照る顔を抑える。

 と、ある一点に目が留まった。

 転がった指を追った先の、居間奥、障子張りの窓辺近く。

 あの、女性の人形。

 微笑む姿はそのままだが、暗がりの中、光る糸が髪についていた。

 蜘蛛の巣……?

 誘われるように近づき、何気なく手を伸ばして取ろうとする。


ぱんっ


 信じられないほどの力で手首が叩き落された。

「痛っ……」

「ドサクサに紛れて触ろうとするな! 見るのは許したガ、触るのを許した覚えはナイ!」

 痛みに俯く頭上で、激昂が轟く。

 先ほどまでの高揚が一気に冷めるのを感じた。

(蜘蛛の巣なんて……。貴方に――)

 なおも口を開こうとする気配に、

「すみません!」

 頭を下げて謝り、残りの手足を乱暴に袋へ詰める。

 これが終わったら、今日はもう帰ろう。

 惨めな感覚とは別の思いに襲われ、袋を縛る。

「オイ」

 呼ばれたが、振り向く気などさらさらない。

「今日はこれで失礼します」

 袋を抱え、戸口でもう一度頭を下げる。

「オイ?」

 戸惑う気配が伝わる。けれど顔を上げることなく、ぴしゃりと戸を閉めた。

 家までの坂道を無言で歩く。

 途中、大工に棚の修理を頼むことは忘れずに。

 涙に暮れることはなかったが、代わりに少しばかり、苛立ちが残った。


 ――綺麗なお人形を粗雑に扱う貴方に、わたくしを叱る権利があるとでも?

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