第22話
『先程は、ありがとうございました。事件のこと調べます。いろいろ落ち着いたら、飲みに行きましょう』
風呂上がりに届いた櫛田からの一通は、ありがたい気遣いに満ちていた。同情しすぎるのも良くないだろうし、かといって全く触れないのも気が引ける、ちょうどよい加減が『飲みに行きましょう』だったのだろう。
高校時代の櫛田も、こんな感じだったのだろうか。会っていたら友達になれていた、ような気はしない。あの頃の私は、決してとっつきやすい方ではなかった。かるた部で浮いたのも自分に問題があったからなのに、解決より逃げることを選んでしまった。
あの時逃げずに関わっていたら、自分の速さを自覚していたら。
「勝てると、思ってるの?」
背後から聞こえた璃子の声に、驚いて携帯を落とす。ごとん、と音が響くのと同時に、部屋中の照明が落ちて真っ暗になった。しまった、錫杖。確かリビングの入口辺りに立て掛けたはずだが、何も見えない。
一日に二度は出ないと思い込んでいたが、間違いだったらしい。完全に、気を抜いていた。耳を澄ましても今は低く唸る冷蔵庫の稼働音以外、何も聞こえない。濡れ髪を掻き上げ、額に滲んだ汗を拭う。どくどくと打ち始めた胸を深呼吸で宥め、冷蔵庫の位置を確かめていた手を離した。
途端、背後で懐かしいような喧騒と共に誰かの会話が聞こえ始めて足を止める。
「日羽さん、速くない?」「でも中学の頃、百合原さんに陰でいやがらせしてたらしいよ」「ほんと? 百合原さん、よく優しくできるよね」「同じことしたら一緒になるからって言ってた」「大人だなー、私なら無理だわ」「私も無理」
振り向いても同じ、濃密な闇の中から声だけが響く。これは、本当にあった会話なのか。だとしたら、とんでもない嘘が混じり込んでいる。
「かわいそうな子だから、少し優しくしてあげただけなのに」
耳元で囁く声に、再び向き直る。今は、さっきまでとは違う汗が浮いていた。
「ゴミが人間と同じように生きようなんて、あまりにおこがましいと思わない? 与えられた哀れみを、友情と履き違えるなんて」
私をそう呼んで憚らなかったのは、清良だけだった。璃子はいつでも優しく、蔑まれていた私を地獄から救い出してくれた唯一の「友達」だと。
「あなたのどこに、私と対等に付き合える価値があったの?」
揺らいでも何も変わらない闇に目を閉じると、涙が伝う。私は今も、それでもまだどこかで信じていたのだろう。ちょっとした何かの間違いで、魔が差して「こうなった」のだと信じたかったのだ。
「……あんたみたいなゴミクズの、どこが、良くて」
続いていた蔑みが質を変えると、漂っていた空気がいつもの感覚を連れてくる。粟立つ肌をさすりつつ、消えた涙に洟を啜った。
錫杖までは、まだ遠い。この向きで正しいはずだが、走れば間に合うだろうか。
「あ、ああ、あたし、あたしのほおが、あたしのぉ」
ぶつぶつと壊れたように聞こえ始めた声に意を決して走り出した瞬間、白く浮かび上がった璃子が目の前に立ちはだかる。
ひゃ、と情けない悲鳴を上げ、後ずさった。
「あ、あたしのほぉが、きれい……きれい……って、言った、のぉ……」
今日はどこも崩れていないが視線はそれぞれ外を向いて、私を見ていない。不自然に傾いた頭が、ゆらゆらと揺れる。
朝晴が、私と比較して褒めそやしたのだろう。当たり前だ、勝てるわけがない。でも。
「他人の夫を盗って、本当に幸せになれると思った、の」
言い終えるより速く、璃子の顔が鼻先まで近づく。さっきまで外を向いていた視線が、ぎょろりとこちらを向いた。短く吸った息が止まる。
「あた、しは、あんたと、は、ちがう、の……こん、な、きれい、なのに」
それでも、どんなに綺麗でも、死んだら終わりだ。
錫杖の代わりに呟き始めた経に、璃子は分かりやすく慄く。しかし少しだけ安堵した私の前で、両手の指を勢いよく自分の耳に突き刺した。噴き出す血が、私にも降り注ぐ。
「これ、で、きこ、え」
まずい。
怯んだ胸を整え、暗闇の中を走る。ぶつかって突き飛ばした何かが錫杖を倒して、澄んだ音を鳴らした。どこ、どこだ。痛みに耐えつつ、手探りで床を探る。ふと触れた感触を握り締め、振り向きざまに思い切り振った。
「あああきぃぃいい」
今日二度目の悲鳴と、鈍い手応えだ。間一髪で間に合った反撃に荒い息を吐き、痛む体を起こす。手に響いた振動を払い、錫杖を握り直した。
「確かに、ずっと信じ切ってた私も馬鹿だけど」
咆哮を響かせながら、璃子は向かってくる。血を滴らせても美貌は変わらないが、もうそれを傍で褒めてくれる人はいない。全部、自分で捨てたのだ。
「あんたが、こんなに馬鹿だと思わなかったわ!」
力を込めて振り下ろすと、ぐしゃ、と昼間よりいやな手応えがあった。化け物よりも、性質が悪い。それでも、そんなこと構っていられない。これを殺しても、残りまだ九十七体の璃子がいる。
二百件も術を依頼した時には、自分がこんな目に遭うとは思わなかったのだろう。
――この世で怨霊化して、呪いと合わせて死ぬほど面倒くさいことになる。
この感触に慣れる日が来るとは思えないが、怨霊化されるよりはいい。それに、ほんの少しでも友達がいたと思えたし、救われたのは確かだ。それには、感謝してもいい。
少しも手加減されない撲殺の感触を味わいながら、今日二体目の璃子を潰した。
明けて月曜の朝、教頭に離婚の報告と三月までは『剣上』で過ごすことを伝えた。ただ特に口止めはしなかったから、私が何も言わなくても話は回るだろう。生徒も、朝のホームルームで私の左手に指輪がないのを目敏く見つけたらしい。終わったあと、女子数人が心配そうな顔でやって来て控えめに尋ねた。離婚を報告するともっと心配そうな顔になって、寧ろこちらが慌てた。でも、もう二度と結婚しなくても子供を産まなくても、この仕事を続けている限り幸せでいられる気はした。
昼を待つように届いたメールは、櫛田からの報告だった。一瞥した中身に、確認の場を女子トイレへ移した。
『先輩の親戚とどうにか電話が繋がりましたが、事件や呪詛に関しては「こちらにも呪いが回る」と言われて無理でした。ただ、
美術館があるのも、京都に親戚がいたのも初耳だった。先代は、どこまで知っていたのだろう。
『初めて知りました。また情報教えてください』『あとで送ります。俺もできれば一緒に行きたいんですが、昨日の件が難航してまして…』
昨日の、刑事死亡の件か。私が関わっているのは間違いない以上、できることはしたい。会ったのはあの時だけだったが、無視はできない。
『お手伝いできること、ありますか?』『有前先輩に、お姉さんが任意に応じるよう説得してと頼んでもらえませんか』
清良か。
このタイミングで任意同行を求めるくらいなのだから、事件に関係しているのかもしれない。そもそも、清良は璃子とも関係があったのだ。
返信を押す指が震えて、数度深呼吸をする。分かっている、もう死んでも会いたくない相手だ。今、ものすごく馬鹿なことをしようとしている。それでも、このまま知らないふりをする方が無理だ。
『それなら、私が会いに行きます』
もちろん、説得のためではない。あの女がそんな生易しいことで動くわけがない。
『それはありがたいですけど、大丈夫ですか。無理はしないでください』
気遣いに溢れた返信に迷いが出るが、飲み下す。
『大丈夫です。六時以降でお願いします』
もう後戻りできない返事を送って携帯を握り締め、溜め息をつく。
――言えば、暁が苦しくなる。
裏を返せば、言わない限り千聡が苦しむのだ。
――困ったら、千聡を頼ればいい。そのかわり支えてやってくれ。この道は、一人で歩くにはつらいものだから。
一人で歩き続ける千聡が何を思っているのか、全てを知っているわけではない。それでも「好きでしているのだから」とは、もう流せなかった。
清良が離婚して地元に戻って来たのは四年前、娘の親権は夫側に渡された。
今は実家の寺には帰らず市内で一人暮らしを続けながら、優雅に趣味を楽しむ暮らしを続けているらしい。璃子とはその趣味の一つである香道教室で出会い、同郷の好で親交を深めていた。清良は璃子の不倫を全く知らなかったと驚いたように話したらしいが、そんなわけがないだろう。優雅な笑みを浮かべながら二人でどんな下世話な話をしていたのか、今は簡単に想像できた。
中室の話によると、死亡した
「でも、清良と璃子は関係ありましたけど、清良と彼女は関係なかったんですよね? 何を聞きに行かれたんですか」
「それが、向こうは『これまでと同じことを繰り返し聞かれただけ』だと。でも何か隠してるのは分かるんです。任意で詰めたら落とせそうなんですけど、しわいんですよ。あの弟にしてって感じですかね」
車内で現状を報告し、中室は溜め息をつく。櫛田が私の提案を受けたのは、多分良くないことだったのだろう。運転席で、ずっと櫛田がしょげている。ただそれでも「お帰りください」にならないのは、中室にも思うところがあるからだろう。
「今回も現場は証拠なしで防犯カメラの影もなし。和歌の話と照らし合わせても、『そっち』で片付けられるのは分かってるんです。でも『呪いだから捜査できません』じゃ終われないんですよ。このヤマは全部やばいから、絶対に一人で動くなって言ってたのに」
馬鹿が、と悔しげに零す声に視線を落とす。私でもやりきれなさを感じるくらいだ。一緒に働いていれば、その比ではないだろう。この決断は、間違いないはずだ。
「いろいろとご事情はあると思いますから、訪問中に偶然会った体にしましょう。私は千聡くんに住所を聞いて、先に別件で訪ねたことにします」
「申し訳ありません、巻き込んでしまいまして」
「いえ、気にしないでください。何もなかったことにするなんて、死んでも許しません」
詫びる中室に答えると、射るような視線が一瞬、私を刺す。漏れ出た殺意に気づかれたのかもしれないが、殺しはしない。痕跡を残さないようバッグと錫杖を手に、探る視線から逃れて車から降りた。
清良の家は旧市街にある、趣のある屋敷だった。元は武家屋敷か、それなりに歴史のある家だろう。日が落ちて庭の様子はよく見えないが、おそらくは格式ある造りをしているはずだ。新しい家やマンションではなく敢えてここを選んだのは、この格式が自分にふさわしいと思っているからだろう。
格子の隙間から赤っぽい灯りを漏らす玄関戸の前に立ち、大きく息を吐く。震える手は汗ばんで、落ち着かない。一旦錫杖を手放してスーツの膝で拭い、改めて握る。澄んだ音で心を静め、チャイムを押した。
少しの間を置いて、近づく気配がある。はい、と聞こえた瞬間、肌が粟立ち汗が噴き出た。これまでになく激しく打つ胸に、息が荒れる。それでも、と唇を噛み締めた時、目の前で玄関戸が引かれた。
私を見た清良は明らかに驚いた様子だったが、すぐに醜悪な表情を浮かべる。今年で四十か、璃子とは違う派手な造りは年に見合わない美しさを保っていたが、その表情で台無しだ。緩く巻かれた優雅な黒髪も、まるでとってつけたかのようだった。
「ゴミが、なんの用? あんたが来ていいような家じゃないのよ」
凄むように私を睨んでいた視線の質が、何かを察してふと変わる。もう来たのか。中室は、よほど警戒したらしい。まるで初めて気づいたように背後を確かめ、近づく影を迎えた。
「どうも、お久しぶりです」
先に切り出したのは、中室だった。
「いえ、その節は大変お世話になりまして……ええと」
芝居に付き合いながら清良を見ると、分かりやすく視線を逃す。動揺が見て取れた。
「刑事さん達も、ご用事ですか」
「はい、少しばかりお聞きしたいことが」
「あなたは、もう帰ってくれない?」
被せた声は穏やかだったが、焦っているのは確かだ。口の端に残る醜悪さを見つめて、にこりと笑った。
「ええ、そうですね。私はただ、御礼と報告に来ただけですから」
これまで見せたことのない笑みに驚く清良に、指輪のない左手を掲げて見せる。
「あなたと璃子のおかげで、無事に離婚できました。これでもう、いつでも千聡くんと結」
最後まで言えなかったのは当然、予想どおりの展開になったからだ。
まあ分かってはいたが、痛い。
「先輩!」
「大丈夫、この程度」
昔なら拳だったのが平手になったのは、美しく整えられたネイルのおかげだろう。
「離して、離せよ! この、ゴミ! クズ! 死ねよ! お前のせいで千聡が」
中室に押さえられながら、中身に合った言葉を連ねる清良を見る。頭に血が上って、自分の立場が分かっていないのだろう。
「有前!」
怒号のような中室の声に、清良はびくりとして動きを止める。ようやく、目の前にいるのが刑事達だと思い出したらしい。これでもう、任意同行を求める必要はなくなった。
蒼白になる清良の顔を確かめて鼻血を拭い、踵を返す。
「病院行ってから、署に行きます」
小声で櫛田に告げ、転がっていた錫杖を拾う。滴り落ちる鼻血をハンカチに吸わせつつ、自分の車へと戻った。
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