第21話
あの時璃子の顔にめり込んだものは、みかんの缶詰だった。明真は元高校球児で、キャッチャーだったらしい。「ちょうど二塁の距離でした」と言われても私には分からなかったが、ともかくその強肩と咄嗟の判断に助けられた。
ごまかせなくなった状況に、祖父母にはかいつまんで事情を話して帰宅した。
――なんで、暁ばっかり。
祖父は思わず零してしまった祖母を窘めていたが、気持ちは分かる。でもそれは多分、私が玉縒の血を引いているからだ。
『25年前の呪いの件は聞けませんでしたが、私が玉縒本家最後の直系なのが鍵かもしれません。私達父娘にではなく、玉縒の一族に掛けられた呪いなのかも。櫛田さんの方で、あの事件を調べてもらうことはできませんか? 私もできる限り協力します』
祖父に聞いてみたが、祖父母以外の玉縒とは交流がなかったらしい。連絡先が分からない以上、国家権力に頼った方が早い。
でもその返答は、夜になっても届いていない。これまではそれほど時を置かず返信されていたし、今日は日曜だから休みのはずだ。何か、あったのかもしれない。
「手が止まってるぞ」
斜向かいから聞こえた指摘に、気づいて再び箸を動かす。昨日の今日で気まずさはあるものの、いきなり食事を準備しないのは露骨すぎる。迷った結果、いつもどおり作って迎えてしまった。
「言ってないことがあるのか」
「大したことじゃないよ。櫛田さんにメール送ったけど返信がない、から」
しまった。二十五年前の事件を調べようとしていることがバレてしまう。
「昼間にも出ましたって、一応、連絡しとこうかと」
しどろもどろになりつつ、とってつけたような嘘をつく。でも千聡は、さんまの身をほぐしながら、そうか、と短く答えただけだった。
なんとなく違う向きで誤解していそうな気はするが、何か言えば墓穴を掘りそうだ。フォローを諦めて沈黙を選び、吸い物に手を伸ばした。
本当はこんな、腫れ物を扱うように接すべきではないのは分かっている。呪いに比べれば遥かにまともな感情だし、今日からは不倫でも浮気でもない。指輪の跡も、やがて消えていくだろう。朝晴への未練も……本当に、びっくりするほど、驚くほどない。もしかしたら今は、離婚届を出した影響でハイになっているだけなのか。しばらくしたら急にがくんと来て、折れてしまうのだろうか。不安要素がないわけではない。
「飲みに誘ったら、中室さん付き合ってくれるかな」
「沈黙の間に何があったんだ」
苦笑で答えた千聡に、少し迷う。思考の変遷は言えないから、着地点だけでいいだろうか。
「離婚後の身の振り方というか、身の置き場みたいなのを先達に教えてもらおうかと思って。今は晴れ晴れとしてるけど、これから急につらくなって心が折れるのかなって」
「それは人それぞれだろ。でも俺が知ってる中だと、旦那が原因で即座に離婚を選んだ人は、概ね逞しく生きてるぞ。もちろんノーダメージとはいかないだろうけど」
今は、三組に一組が離婚する世の中だ。私と同じような理由で、私よりひどい理由で離婚を選ぶ夫婦も、たくさんあるのだろう。
「あの男は婚約中から浮気して結婚期間中も騙し続けて子供ができても黙って金で解決しようとして離婚となったら体裁にしがみついた外道だぞ。つらくなる理由があるか?」
経を読むように一息で朝晴の所業を詳らかにして、千聡は私を見る。そうまとめられると、確かに悲しみに暮れる理由はなさそうだ。ただ、不安要素は「悲しみ」でも「悔い」でもない。
「つらさにも、いろんな種類があるでしょ。別に、悲しいわけじゃないよ。離婚を悔いる気持ちも一切ない。ただ、それでも考えることがあるの」
見据える千聡から視線を外し、吸い物に浮く鞠麩を眺める。目に美しいこれも、二人で過ごす食卓をより楽しめるものにするために買ったものだった。
「私と付き合ったのは『自分を好きになってくれる人』が良かっただけなんだろうな、とかね。だから急にモテてたくさん『自分を好きになってくれる人』が現れたら、簡単に揺らいだんでしょ。私はちゃんと好きなところを日に日にアップデートさせてたのに、あの人はずっと『自分のことが好きだから』のままだった。何年も傍にいたのに簡単に取って代われるものしか築けなかったんだって、要は『虚しい』の」
その虚しさに飲まれそうな不安だけはある。そして飲まれた時に、明るい方を向ける自信がない。もともとが、負けず嫌いとやせ我慢でどうにか堪えてきたような人生だ。揺らぐ今、どこか崩れればそのまま砕け散りそうで、恐ろしかった。
不意に鳴り響く音に、慌ててジーンズの腰ポケットをさぐる。引っ張り出した携帯は、櫛田からの着信を告げていた。
「はい、日羽です」
応えつつリビングを出て、廊下の照明を点ける。
「……もしもし?」
「あっ、はい、櫛田です。すみません、お休みの夜に」
「いえ、こちらこそお休みの時にメール送ってしまって、すみませんでした」
答えて詫びると、また少し間を置いて「あっ」と聞こえた。
「すみません! もらってたの忘れてました、仕事中で」
「いえ、いいんです。すみませんお仕事中なのに。あの、ということは」
いまいち噛み合わない会話を終えて、用件を尋ねる。
「はい、仕事のことでちょっと。有前先輩もおられますかね」
「ええ、います。スピーカーにしましょうか」
「お願いします」
答えを聞きつつスピーカーに切り替えて、リビングへ戻った。
どうぞ、と促す声に応えて櫛田は、失礼します、と礼儀正しく断りを入れる。
「この前、署に来てもらった時に俺と中室さんと一緒にいた人、覚えてますか?」
「ああ、はい……バツイチの」
「ええ、その人です。実は、殺されました」
とんでもない報告に、固まる。一瞬感じためまいに額を押さえ、荒く打ち始めた胸に息を吐いた。
「俺達に連絡した方が良さそうな殺され方をしたってことか」
何も言えなくなった私に代わり、千聡が冷静に答える。
「そうです。自宅で殺害されたんですが、現場に日羽先輩のところに届いた和歌と同じような文字が書き連ねられた紙が残されてるんです。ただ休みだからか前回頼んだ大学の先生が捕まらなくて、そういえば日羽先輩はあの文字が読める高校の先生だったなと」
「それ、大丈夫なんですか」
「あとで大学の先生に改めて頼んだ体にしますんで、オフレコでお願いできませんか」
急いでいるのだろう。確かに、次をほのめかすような内容なら手遅れになるかもしれない。
「分かりました、見せてください」
「ありがとうございます。メモに書き写したのをこれから画像で送ります」
よろしくお願いします、と聞こえてすぐ通話は途切れる。一旦携帯を置いて食べ掛けの料理を眺めてみたものの、食欲はもう湧かない。また、殺された。しかも事件を調べていた刑事だ。
「櫛田と、個人的にやり取りしてるのか」
「今気にするの、そこ?」
思わず眉を顰めて見つめる先で、千聡は着々と夕食を消化していく。まあ僧侶が人の死にいちいち動揺するわけにはいかないが。
「そんなんじゃないから、誤解しないで。大体、二度と結婚しないって言ったでしょ」
失せた食欲に、自分の器を千聡の前に移動させる。再び訪れた沈黙に溜め息をついた時、救いのようにメール着信を告げる音が鳴った。
『できるだけ正確に書き写しましたが、分かりにくいところがあったら言ってください』
断りと共に送られたメモ書きは、確かに変体仮名の羅列だった。
「『われのみと』……これも、和歌みたい」
一瞥して察した文に、紙とペンを取りに向かう。殺人現場に残されるのだから当たり前だが、良い感触ではなかった。
ペンを手に再び画面に向かい、平仮名への変換を終える。
「『われのみとおもひそひとのみにくしをながれてたえむたまはよみなり』、ね」
改めて確かめた和歌は、やはり恨みを込めたものだった。漢字を当てると『我のみと思ひそ人の見悪しを流れて絶えむ魂は黄泉なり』でいいか。でもこの歌に隠されているものは、多分それだけではない。
二つの文を並べて撮影し櫛田へ送ると、すぐに折り返しの電話が鳴った。
「早速ありがとうございます。で、これどういう意味ですか」
「恨みを込めた和歌です。単純な現代語訳だと『私だけが見苦しいと思うな、血筋は流れて絶えるだろう、お前達の魂は黄泉へ行くのだ』くらいでしょうか。意訳すると『自分は死んでもほかの者がお前の一族を地獄へ送ってやる』かな。『流れ』には血筋や子孫という意味もありますから」
「てことは、次は彼の子供ですか」
「いえ。多分、ですが」
彼は犠牲になっただけで、血を狙われただけではない。
「和歌の中の『たま』にここでは『魂』を当てましたし、一般的な解釈ならこれでいいと思います。ただ今の状況を考慮すると、この和歌の真の意味を示す『たま』は多分、玉縒の『玉』です」
ただこの『われ』が誰なのかは分からない。おそらくは最初にこの呪いを掛けた者だろう。
「この和歌の真の意味は、『自分は死んでもほかの者が玉縒を地獄へ送ってやる』。私が疑問を持ったことへの答えでしょう。一連の事件は私の、玉縒本家の血を途絶えさせるための呪詛によるものだと思います。だよね、千聡くん」
話を向けた私に、千聡は汁椀と箸を置いた。
「そうだ」
短く答え、再び箸へ伸びた手に慌てる。
「えっ、終わり?」
「有前先輩、ちゃんと話してください! 人が死んでんです!」
携帯の向こうから響く櫛田の声に、千聡は珍しく迷うような表情を見せた。きっと、私には聞かせたくない話なのだろう。それでも聞かなければ、進めない。
「千聡くん、お願い。話して」
もう、これ以上誰かを犠牲にする訳にはいかない。控えめに伝えた願いに、千聡は視線を伏せる。やがて、溜め息が聞こえた。
「俺も詳しくは知らない。玉縒の一族は排他的で、先代が話を聞こうとしても誰も答えてくれなかったらしい。知ってるのは、呪詛の質くらいだ」
「それでいいから、教えて」
私を見ないまま、千聡は小さく頷く。
「先代が言うには、呪詛の痕跡を辿ると九百年ほど前に行き着いたらしい。この九百年のうちに三十回ほど発現してる。基本的には、玉縒本家の直系嫡男を殺すように組まれた呪詛だ」
語られ始めた呪詛の中身に、早速引っ掛かる。とはいえ、まだ口を挟むべきではないだろう。
「発現には条件があって、引き金となるのは周囲の人間の強い恨みだ。『我のみと思ひそ人の見悪しを』ってのは、ここの部分のことだろう。玉縒直系最後の嫡男だった暁の父親は、殺害した奴の強い恨みに呪詛の波長が合って発現に至った。暁は百合原の恨みだ」
「でも私、嫡男じゃないのに」
疑問を投げると、千聡はなんともいえない複雑な表情で私を見た。寂しそうでも、諦めたようでもある。
「暁は娘であっても玉縒本家直系最後の子で、掛けた奴はここで悲願を達成するつもりらしい。背負わされた呪詛は、これまでのものとは比較にならない」
「そんなの、死ぬほど理不尽じゃないすか」
「筋の通った呪詛なんて存在しない。俺が話せるのは、ここまでだ」
説明を終えた千聡に、濃密な沈黙が流れた。ちゃんと考えたいのに、思考がまとまらない。
私は、なんのために生まれてきたのだろう。
「すみません、ありがとうございました。また何かあったら連絡します」
定型文的な櫛田の挨拶に、はっとして視線を上げる。無機質な音を鳴らす携帯を黙らせ、長い息を吐いた。
「これを、一切言わずに自分でどうにかするつもりだったの?」
視線を上げた先で、千聡はまた素知らぬ顔で箸を手にする。また、聞かないふりか。
「言えば、暁が苦しくなる」
予想に反して与えられた答えが、胸に刺さる。「苦しくなれば逃げる」と言いたいのかもしれない。
「確かにそうかもしれないけど、千聡くんだけにつらい思いを」
先を飲み込み、口を噤む。つらい思いを「させられるわけがない」。でも、傍にもいられないのだ。聞いていなければ「まだ」、知らないことにできる。
「……ごめんなさい」
「気にするな。全部、俺が好きでしてることだ」
何度となく繰り返された言葉に何も返せず、顔を覆う。
千聡は私が泣きじゃくっているうちに私の分まできちんと平らげ、泣き腫らした瞼に術を掛け直して帰って行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます