第14話
都会は私立高が成績ランキングの上位を占めがちだが、公立王国の田舎では未だに「公立の滑り止め」扱いだ。うちの場合は、推薦や専願受験生の十倍以上の生徒が公立との併願で受験する。市内に二つしかない私立高にとっては最大の稼ぎ時……というのはおいといて、私立高は当たり前だが自校で試験問題を作成しなければならない。
全校生徒が三百人弱の我が校には、社会科教師が二人しかいない。育休のあとそのまま退職した私の前任は、私と同じように中学社会と高校地歴・公民の教員免許を持っている人だった。ただ、もう一人の社会科教師は高校地歴しか取得していない。結果として私は専門科目である日本史に加え、現代社会と政経倫理まで担当している。必然的に、生徒達の一生を左右しかねない入学試験の問題も、私が多く作成しなければならなかった。今年で三回目だが、この重圧には慣れそうにない。
「先生、まだ帰らないの?」
聞こえた声に顔を上げると、帰り支度を済ませた同僚と目が合う。驚いて確かめた職員室は、もう私達だけになっていた。集中しすぎて、気づかなかった。
「ええ、もう少し試験問題を練りたくて。鍵、締めときますよ」
「じゃあ、お願いしますね。おつかれさまでした」
役目を託して去って行く同僚を見送り、時計を確認する。八時半か。
一息ついてペンを置き、大きく伸びをする。今日はなんとなく顔を合わせたくなくて、櫛田達の来訪は残業を理由に断った。千聡の方も同じ理由で九時過ぎにしてある。毎日更新しなければならないのは、こんな時には少し困る。
もう、終わるか。
途切れた集中力に続きを諦め、資料とノートをまとめて引き出しへ突っ込む。鍵を回した時、背後で小さく赤ちゃんの泣く声がした。
思わず振り向いてしまったのは失策だったが、誰もいない。でも、確かに。
心当たりのある状況を気のせいにはできず、そそくさと帰り支度をする。一度恐怖を感じると全てがそうなるのか、背中にずっと視線が張りついているような、何かに見られているような不安が拭えない。
慌ただしく職員室を出て鍵を掛け、足早に職員玄関へと向かう。そういえば、夜の学校なんて一番「出る」場ではないか。今更気づいてしまった恐怖のシチュエーションに半泣きになりながら、薄暗い廊下を疾走する。生徒には、決して見せられない。
残されていた廊下の電気を全て消し、ガラス越しに差し込む街灯を頼りに靴箱を開く。スリッパを突っ込み靴を取り出そうとした時、肌が違和感を察知した。
背後で聞こえた弱々しい赤ちゃんの泣き声に、手が止まる。だめみたい、と女の声がした。すぐ後ろに、何かがいる。
「……早く、産んじゃったから」
凍りついた私の肩を、背後から何かが掴む。何か、ではないだろう。璃子だ。ずる、と何かを引きずるような音に、唾を飲む。
「ねえ、暁」
すぐ耳元で恨めしげに呼ぶ声にも、何もできない。恐怖に支配された体は凍りつき、ただ冷や汗を流すだけで埒が明かない。……ああ、そうだ、お経を。
「この子、お腹を空かせてるのに……あなたのせいで、母乳が出ないの」
食い込む爪に、鋭い痛みが走る。追い払うのではなく成仏を願って唱えれば、せめて。せめて、赤ちゃんだけでも救われれば。
胸の内でお経を唱え始めた途端、璃子は短く呻いて手を離す。しかし赤ちゃんは予想に反し、火がついたように泣き始めた。
「ああああ、泣いてる、泣いてる、私の……私の!」
背後で叫ぶ璃子に、一層の事態悪化を悟る。成仏を願っても変わらないのか。でも今更、読経をやめるわけにもいかない。
「やめてええ……やめてよおお……やめ、てえええ」
すさまじい泣き声に交じりこんだ璃子の悲痛な叫びが、耳を劈くように響き渡る。
こんなつもりではなかった。ただ成仏を願っただけなのに、どうして。
泣き続ける赤ちゃんに嘆く璃子の声が、胸を締めつける。死んでも、母親は母親なのだろう。たとえ死のうと、泣き叫ぶ我が子を見捨てられるわけがない。
――あーきちゃんはー、どーうしーてこーんなーにかーわいーいのお。
母は明るく、私を愛す言葉を惜しまない人でもあった。私を宝物だと言って憚らず、私のかわいらしさを称賛する歌を毎日のように歌って聞かせた。当たり前のように、私も一緒に歌いながら育った。その歌が『ぞうさん』や『あめふりくまのこ』と同じ類のものではないと知ったのは、幼稚園に入ってからだ。幼いなりに、結構な衝撃を受けたのを覚えている。それでも、やめて欲しいとは思わなかった。その歌も歌ってくれる母も、一緒に歌うのも、そんな私達を愛おしそうに眺める父の表情も、大好きだったからだ。
我が子を愛す親がどんな眼差しを向けるかを、私は、知っている。
短いお経を一度唱え終えたところで、口を噤む。意を決して振り向くと、床まで長い黒髪を垂らし、血溜まりの中で赤ちゃんを抱き締める璃子の姿があった。引きずっていたのは、引き裂いた腹から溢れた、臓物か。
「ひっ」
途端に感じた生臭さと突き上げる吐き気に、悲鳴を漏らし口を押さえる。璃子は気づいて、顔を上げた。見開かれた両目は真っ赤に染まり、溢れたばかりの血の涙が頬を伝った。
「よく、も……よくも、わたし、の」
赤ちゃんを片腕に抱き振りかざした手に、刃物のような長い爪が光る。
ああ、だめだ。
死の覚悟をした瞬間、しゃらん、と涼やかな金属音がした。凶器のような手がびくりと固まり、璃子が苦しげに顔を歪める。
振り向いた私の傍らを、黒い影が突風のように抜けて行く。何かが潰れるような耳障りな音のあと、辺りがぐらりと揺れた。地震、ではないだろう。
慌てて靴箱へ縋りながら視線をやると、璃子が柱に打ちつけられていた。片腕はだらりと垂れているが、もう片腕にはまだしっかりと赤ちゃんを抱いている。
その頭に突き刺さっているのは、錫杖だった。こんなことをするのは一人しかいない。
「璃子!」
思わず呼んだ私にも、まるで反応しない。ぱん、と背後で響いた手を打つ音に、まるで砂塵のように散って、消えていった。赤ちゃんも血も臓物も、もうなんの形跡もない。残ったのは、柱に突き刺さった錫杖だけだった。
「……どうして、こんなやり方を?」
「最低限の苦しみで散らすためだ。見た目は残酷だけど、読経より長引かない」
千聡は私の傍を抜け、柱に突き刺さった錫杖を引き抜く。どれほどの力で投げれば、コンクリートに突き刺さるのか。いや、今はそんなことはどうでもいい。
「早く慣れないと、精神がやられるぞ」
千聡は私に告げたあと、錫杖を鳴らしつつ場を清める。さっきまで空いていた穴も、いつの間にか閉じていた。私が見ていたものは、本当に穴だったのだろうか。
「櫛田から今日、連絡があった。確保した百合原のパソコンには占いや縁切り、呪詛を頼んだ形跡が大量に残されていたらしい。確認できただけでも、この二年ほどで二十個以上のサイトに登録して百件以上の依頼をしてる。相手は全部、暁だ」
我が身に降り掛かるとんでもない量の災いに、は、と乾いた笑いが漏れる。そんなに、私が憎かったのか。いくら重ねても重ねたりないほどに。
「まとめて始末しようとしたけど、さすがに無理だった。さっきのは、どれかが発現したんだろう。明日から、呪詛の根幹を探す作業に入る。その最中に、今回みたいなことが起きないとは言い切れない」
心許なく揺れた体をごまかし、外へ向かう。
「本当に、恨まれてたんだね。呪詛なんて、一番縁のなさそうな人だったのに」
部外者を連れ職員玄関を出て、退社の儀式に入る。施錠を確かめカードキーを引き下ろすと、赤い光が点滅して警備がセットされた。まるで何事もなかったかのような、いつもどおりの過程だ。警備中なら、璃子の出現にも正しく反応してくれるのだろうか。
今はもう、こんな馬鹿げたことしか考えられない。
ふらついたヒールの足元に、二度目は許されなかった。
抱え上げられた腕の中で、長い溜め息をつく。しゃら、と懐かしい音を響かせる錫杖に気づき手を伸ばすと、千聡はあっさり譲った。
太い錫杖は予想より重かったが、私の手でも変わらず澄んだ音がする。仏教の道具に許される表現かどうかは分からないが、神社の鈴の音にも似ていた。
しゃらしゃらと響く澄んだ音に癒やされたくて、ひたすら錫杖を振り続ける。
「そういえば、先代の錫杖を魔法のステッキ扱いしてたな」
駐車場へ足を踏み入れる頃、思い出して千聡は笑った。
「先代のは輪っかが多くて音が綺麗だったし、上の金具の形がステッキの先によく似てたから好きだったの。まあ、とんでもない遊びにも使ってたけどね」
振り回すだけでは飽き足らず、またがって飛ぶ真似までしていた。知らないとは、恐ろしい。
「先代は、暁を本当にかわいがってたからな。暁が話せない時も、先代とだけは通じ合ってた。俺は分からなくて悲しい顔をさせたこともあったから、羨ましかったよ」
先代は、大人の間では清廉かつ厳格な住職として有名だった。私にはよく笑う大好きな「おじいちゃん」だったが、その気高さゆえに檀家達から煙たがられ、最後には解任されてしまった。その陣頭指揮を取ったのは現住職ではなく奥様だと、滅多に噂話をしない祖母が苦しげに話したのを覚えている。
日羽家は私を救ってくれた先代を最後まで裏切らなかったせいで、今も風当たりが強い。それでも千聡が副住職に就いて以降は、千聡が棚経や法事をしてくれるようになった。ただそのありがたさを噛み締めつつも、祖父母は千聡がいつか先代と同じ扱いを受けるのではないかと心苦しそうに話している。今回の一件がそれを加速させたのは、間違いないだろう。
――日羽の孫なんぞ嫁にされたら、寺が腐れるわ。
蔑む言葉なら、探さなくても町中に溢れていた。
「あと、もう一件。百合原が、定期的に連絡を取ってる相手がいた」
少し間を置いて切り出された報告に、錫杖を振る手を止める。当然、朝晴を除いた誰かだろう。私に言うのだから、私の知っている相手なのか。あまり、いい予感はしない。
「誰?」
短く尋ねて、錫杖を一振りする。音の余韻が消えても、千聡の答えは聞こえない。誰だ。
「
戻って、いるのか。
一番聞きたくなかった名前に慌てて腕から下りようとする私を、千聡はこれまでにない力で押さえ込む。手を離れた錫杖が、コンクリートで鈍く汚い音を立てた。
「だめだよ、下ろして」
「俺はもう、無力な子供じゃない。暁も日羽も守れる力がある!」
痛ましい訴えに俯き、力なく頭を横に振る。
――ゴミが千聡と釣り合うと思ってんの? 早く死んでくれない?
千聡の姉達は、年が離れて生まれた弟を溺愛していた。一回り年上の
特に気性の激しかった清良は、十六歳にして六歳の私を参道の石階段から蹴り落とすほどの憎みっぷりだった。
――ごめんなさい。この子、謝れない子なんです。
そのせいで腕が折れた時、ふてくされた清良を伴い詫びに訪れたのは住職でも奥様でもなく、純香だった。そのあと千聡から話を聞いたらしい本山帰りの先代が激怒し、頬を腫らした清良を引きずり改めて詫びに来たのを覚えている。
ただ清良はそれで改心するような、そんな大人しい娘ではなかった。さすがにもう石階段から蹴り落とすような真似はしなかったが、隠れての殴る蹴るを交えながらも、攻撃は次第に言葉によるものへと変わっていった。
私に掛けられた呪詛が御本尊に祈らなくても消えるものなら、間違いなく逃げ出していただろう。もう一生声が出なくてもいいと思ったことは何度もある。あまりの扱いに、死んで両親の元へ行きたいと願ったのも一度や二度ではない。
ただ私は幸か不幸か、傍にいる人の愛情を正しく感じ取れる育ちをしていた。日羽の祖父母や先代と千聡、敢えて距離を置いてくれた玉縒の祖父母の優しさを捨てられないくらいには、人を愛せるようにもなっていた。
耐えることを選んだのは、私自身だった。
私達が小学校中学年になる頃には、純香は市内へ嫁ぎ清良は京都の大学へ進学して寺を出て行った。まるで地獄から解き放たれたかのような安堵を感じたのを覚えている。まあ実際には、盆や正月には寺の娘らしく戻って来ては、寺の娘らしからぬ振る舞いで私を蔑み続けてはいた。
――ごめん。ごめんな、暁。
泣きそうな声で詫び続けた千聡は結局、一度も姉達を殴らなかったはずだ。その理由は、姉達があれほど奔放でわがままに育ったのと同じだろう。娘達を溺愛する住職は先代と仲が悪かったせいもあって、私に会っても一度も詫びたことがなかった。その点では顔を合わせればすまなげに詫びた奥様の方がまだ、たとえ形式的であったとしても、まともではあっただろう。それでも、認められるわけはなかったのだ。
私は、先代の消えたあの寺にはまるで望まれていない人間だ。もう二度と、絶望したくない。
「逃げないでくれ。頼む」
違う絶望に怯える声に、何も言えなくなる。それでも、無理だ。
もう一度頭を横に振ると千聡は苦しげな声で私を呼び、抱える腕にまた力を込めた。
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