第13話
百合原家からの圧力で、璃子の遺体は「通常の」検死のみで遺族の元へ返されていた。表立っての死因は心臓発作、赤ちゃんは胎児の扱いだ。葬儀の席には、涙を流す事実婚の相手まで用意されていたらしい。
「こんなことが許されるんなら、警察なんて必要ないじゃないっすか」
「うちもいろいろ握り潰して黙らせてんだから、言えた口じゃねえだろ」
高校時代の後輩として葬儀に紛れ込んできた櫛田の不服を、中室は窘める。確かに病院や警察署での件をメディアが報じないのは、国家権力が完全に「沈めた」からだろう。
とはいえ、人の口までは防げない。実際、SNSには「友達に聞いた某病院の怖い噂」「入院中の親戚に聞いた化け物の話」が流れている。ただ幽霊ならまだしも「デカい化け物」だ。素材があまりに雑すぎて、真実を伝えているのに大した反応がない。あれなら、そう遠くないうちに消えるだろう。
「すみません。本当はこんな旨いものをいただきながらする話ではないんですが」
ダイニングテーブル最後の一辺で肉じゃがをつつきつつ、苦笑した。
「お腹が空いてると、疲れが増しますから。二人分が四人分になっても作業量は変わりませんし、お気遣いなく召し上がってください」
「今日も、めっちゃ旨いです」
機嫌を戻したらしい櫛田に、ひとまず安堵する。
「良かった。たくさんあるから、食べてくださいね」
「はい、いただきます」
素直に答える姿がまるで生徒のようで笑った。
「それで、俺達に話というのは」
千聡は秋茄子の煮浸しに箸をやりつつ、中室へ水を向ける。中室は少し表情を引き締めて、実は、と切り出した。
「こんな状況ではありますが、どうにか捜査を続行できることになりました。ただいろいろ制約がありまして、まず捜査に割り当てられた人員が三人なんです。私と櫛田、あと事務方です。そして、許された期間が一ヶ月しかありません」
「三人で、一ヶ月で事件を解決しろってことですか?」
驚く私に、中室と櫛田は揃って頷く。それほど捜査をさせたくないのか。この制約でも、勝ち取れただけマシな状況のかもしれない。
「ただ、今回の件はどのみち我々の現実的な手段では限界があることでした。それを踏まえて、参考人のお二人に秘密裏にご協力を仰ぎたいんです。副住職は呪詛のことをよくご存知ですし、失礼ですが、それを受けている剣上さんは事件解決の手掛かりになりますので。うちの方は、課長も了承済みですので問題ありません」
例の、キレッキレの課長の策か。確かに捜査情報を共有して全面協力すれば、一ヶ月でもなんとかなる……のだろうか。今の状況ではなんとも言えない。汁椀を手にしつつ視線をやると、千聡はまるで予想していたかのように頷いた。
「俺からは二点、条件があります。一点目は、暁を囮や犠牲にしないこと。二点目は、俺に呪詛を行った者を救わせようとしないことです」
一点目はともかく、二点目は頷くには引っ掛かりがありすぎる。中室は箸を止め、視線を鋭くして向かいの千聡を見据えた。自然と、空気がひりつく。
「二点目は、『殺しを見逃せ』という意味ではないですよね?」
「はい。救おうとすれば手加減が必要になるのは、ご理解いただけると思います。ただそれは、弱点や隙にもなり得るものです。俺は、暁の命が揺らぐようなら一切容赦しません」
「分かりました。ただ私は、呪いなんて卑怯な真似をするのは法の裁きを恐れているからだと思っています。表に引きずり出すことさえできれば、方法はありますので」
確かにこれは、食卓にはふさわしくない会話かもしれない。物騒かつ殺伐としすぎて、肉じゃがの味がしない。向かいの櫛田も同じらしく、居心地悪そうに汁椀を傾けていた。
「剣上さんは、いかがでしょうか」
続いた確認に、ええと、と小鉢を置いて居住まいを正す。
「私も、できる限り協力します。捜査情報を一切口外しないことも、お約束します。ただ私は、参考人である前に教師です。職務を優先させることだけ、お許しください。生徒達に動揺を与えるわけにはいきませんから」
「承知しました。問題ありませんし、こちらも徹底します」
すんなりと受け入れられた条件に安堵して、頷く。本当の平穏は、呪詛が解かれるまで訪れないと分かってはいる。でもそれは、生徒達にはなんら関係のない私の事情だ。生徒達の学校生活に影を落とすわけにはいかない。
じゃあ、と櫛田が中室に目配せした時、インターフォンが鳴った。
「先に、そちらの問題に対処した方が良さそうですね」
察した様子の中室の笑みに怯えつつ、モニターへ向かう。予想どおり、モノクロの画面には朝晴が映っていた。一応、合鍵でいきなり入ってこない気遣いはあったらしい。
「持って来てくれてありがとう。ポストに入れといて、あとで取りに行くから」
ここに残された朝晴の荷物は明日の日中、業者に運び出してもらう予定だ。立ち会いなしでも構わない業者に、全てお任せで発注した。
「一緒に書こうと思って、持って来たんだ。君が開けてよ、押し入るようなことはしたくないんだ」
そう来たか。不意の舌打ちに背後を確かめると、三人が明らかに苛立った様子で立っていた。もう、誰の舌打ちか分からない。
中に呼んでください、と小声で指示する櫛田に頷き、深呼吸をする。
「分かった。開けるから持って来て」
オートロックの解除ボタンを押してすぐ、モニターの映像は途切れた。
「不法侵入になるのを警戒してますね」
「弁護士が知恵をつけたのかもな。まあ、言うこと聞いてるとは思えねえけど」
うんざりした様子でやりとりする刑事達に、溜め息をつく。まさかこんなことになるとは思っていなかった。今の姿は、全く予想もできなかったものだ。
「すみません。聞き飽きた台詞だと思いますが、『以前は、こんな人ではなかったんです』。『こんなことをする人だと思いませんでした』」
虚構の世界のみならず、現実世界でもさんざん流れた台詞だ。聞きすぎて嘘くさくて、そんなはずがないだろうと疑ったこともある。
「お気持ち、お察しします。早速ですが、私達がいきなり対面したら言い逃れします。隠れて話が聞ける場所はありますかね」
胸を満たす情けなさを押し込め、打開策へ参加する。
「玄関の脇に、シューズクロークがあります」
「分かりました、急ぎましょう。おそらく切羽詰まってるので、十分に注意してください」
中室の刑事らしい言葉に気を引き締めつつ、リビングを出て玄関へ向かう。シューズクロークへ案内し、彼らの靴もそちらへ隠した。
暁、と呼ぶ声に視線を上げると、物言いたげな千聡の表情があった。昔、殴るなと頼んだ時の顔に似ている。
「大丈夫だよ。ここは町じゃない。千聡くんが手を腫らさなくても、救いはあるの」
千聡の拳に頼るしかなかったあの頃とは違う。苦笑した時、今度は玄関のチャイムが鳴った。
「何かあれば、すぐに出ます」
完全に犯罪者扱いだが、致し方のないことだろう。一息ついて、玄関ドアの前に立った。
「俺だよ、開けてよ。話をしよう」
鍵は今も持っているはずだが開けようとしないのは、やっぱり不法侵入を警戒しているのか。弁護士をつけたなら、ほかにもろくでもない知恵をつけていそうな気もする。
いつの間にか震え始めていた指先で鍵を下ろし、ゆっくりとドアを開ける。ぐい、と強く引かれて、慌てて手を離した。
朝晴は呼び込む前に玄関へ入ると、恨めしそうな視線で私を睨む。少し痩せて顔色が悪いが、それ以上になんとなくこれまでと違うものを滲ませていた。「切羽詰まっている」とは、こういうことか。確かに、あまり良い状態ではなさそうだ。
「離婚届、書いてきたんじゃないの」
「あんなに脅されたら、書く気も失せるよ。刑事はヤクザと変わらないって聞くけど、ほんと」
「書いたら帰るんだよね? 書く気で来たんだよね?」
思わず遮り、こめかみに滲んだ汗を拭う。それ以上は、本当にやめた方がいい。
「そうだよ。君がどうしても離婚したいんなら、仕方ないじゃないか。でも、条件がある」
横柄に言い放つ朝晴に苦笑する。確かに離婚を言いだしたのは私だが、離婚に至る原因を作ったのはそちらだ。条件を出せる立場にないことを、弁護士は教えなかったのだろうか。
「離婚しても、周囲には離婚してないように振る舞って欲しい。名字も『剣上』のままで」
「馬鹿じゃないの?」
遂に溢れてしまった台詞に、溜め息をつく。だめだ、抑えきれなかった。
「ごめん。でも無理だよ。いろいろ必要な手続きあるでしょ、共済とか」
「しなきゃいいんだよ、籍だけ抜けば」
だめだ、話が通じない。胸に湧く嫌悪感に、口の中で小さく咳をする。
「なんでそんなふりをする必要が?」
「君と離婚したってバレたら、また僕は」
朝晴は、苦しげに零して俯いた。百合原家との話し合いはどうなったのか、思いやりの見えない言葉に溜め息をつく。「こんな人ではなかった」も、私の買い被りだったのか。
「璃子と我が子が死んでるのに、最優先は自分の保身なの?」
「仕方ないだろう、だって僕は!」
弾かれたように上げた顔は土気色でつやがなく、目元には染みついたようなくまがあった。朝晴は視線を揺らしたあと、肩を落とす。
「僕は、君とは違うんだ。君と婚約するまでは馬鹿にされて、笑われて、真面目に努力しても誰も認めてくれなかった」
「私に、それを言うの?」
私がどんな育ちなのかは、付き合う前にも結婚前にもきちんと話した。未だ町では蔑まれていることも、朝晴は知っているはずだ。真面目に生きているのに理不尽な理由で疎まれる気持ちは、誰よりも。
「君みたいに強い人には、僕の気持ちなんて分からないよ」
突き放す台詞に、息が浅く乱れる。重ねていた手が、びくりと揺れた。
……そうか。これも、思い上がりだったのか。
朝晴を「誰よりも」理解していたのは、似た境遇を味わい続けた私ではなかった。
「そうだね、理解できなくてごめん。だからその条件も飲めないの。早く離婚届を書いて、帰って」
泣きそうな声が震える。
もうこれ以上傷つく要素はないと思っていたのは、ここは決して崩されることはないと信じていたからだ。夫婦としての関係や信頼は砕け散っても、人として築き分かち合ったものは消えないと信じていた。私だけは。
「ごめん、ちょっと言い過ぎた。謝るから、やり直そう。ね、ほら」
私の表情にただならぬものを感じたのか、朝晴は猫撫で声で宥めつつ私の手首を掴む。でも引き寄せようとする力は、低姿勢にそぐわぬ強さだった。
「離して!」
肌を這い上がる嫌悪感に振り解こうとした時、シューズクロークの扉が開く。険しい表情で出て来た三人に、朝晴は一瞬腕の力を緩める。ただ次には、さっきとは比べ物にならない力で引き寄せられ、首に野太い腕が巻きついた。
「剣上!」
怒号のように響く中室の声に、私まで震え上がる。朝晴は私を捕獲したままあとずさり、玄関ドアに背を預けた。
「今すぐ奥さんを離せ。大事な人を、これ以上傷つけるな」
険しい表情で解放を命じる中室の後ろで、千聡がちらりと私達の上を一瞥する。上?
「こうやって人を集めて僕を馬鹿にして、陰で笑ってたんだな、暁」
恨めしそうに吐き捨てる朝晴に、僅かに頭を横に振る。喉を圧す腕のせいで、そうではない、と言い返す余裕がない。
不意に、近頃知ったばかりのあの感覚が肌に触れる。ふと、漢方のような香りが立つ。鼻孔を掠める甘い匂いには覚えがあった。そうだ、この匂い。
でも、それなら。
「君は……君だけは、違うと思ってたのに」
「先輩!」
腕が緩んだのを見計らい、櫛田は私を救い出す。振り向くと、朝晴は身を屈めて頭を抱え、呻いていた。
だめだ、それだけは。
解放された喉で荒い咳をしながら、千聡にしがみつく。
「止め、て……お願い、助けて」
必死に訴える私を千聡はじっと見下ろすだけで、動こうとしない。私を苦しめたから、死ねばいいと思っているのか。私が、傷ついたから。
「こんな助け方は、しないで」
泣き出した私にようやく動き、手を出し兼ねている二人を下げて朝晴の元へ向かう。今にもうずくまりそうな朝晴の胸倉を掴み、手荒く引き起こした。
露わになった朝晴の顔に、声にならない悲鳴が小さく漏れる。さっきまでなんともなかった顔が今は大きく膨らみ、中から何かがぼこぼこと肌を波打たさせている。青ざめた血管が叢のように張り巡らされ、人ではないものに変わりつつあるように見えた。
早く助けなければ、間に合わなくなる。
「千聡くん!」
悲痛な声で呼ぶと千聡は不快そうに眉を顰め、朝晴をもう少し持ち上げる。
「分かってないのは、お前の方だ」
低く言い捨て、法衣の腕を振り上げる。膨らんだ顔にめり込む拳はそのまま振り抜かれ、朝晴を玄関ドアへと叩きつけて終わった。
殴られた時には物理的な死を覚悟したが、予想に反して朝晴は無事だった。とはいえ刑事達がDVの現場を見逃すわけはなく、朝晴は正気に戻って早々に警察署へと引き取られて行った。
――あまり追い詰めない方がいいタイプですから、この件を口外しないことと離婚届の提出を条件に示談に応じればいいと思います。
中室が残していったアドバイスに不満はない。前科がつけば、教職は退かざるを得なくなる。失うものがなくなれば、朝晴は自暴自棄な行動に走るかもしれない。これまで自分を虐げてきたものへの復讐を目論んでも、不思議ではない。
「どうして、あの人が変化しかけたの? 結界があるのに」
「内側に入ったからだ」
端的に答え、千聡は食後のコーヒーを置く。あんなことがあったのに、千聡は再び食卓に着いてきれいに平らげた。食欲が完全に尽きた私とは、やっぱり比べものにならない。
「その結界は呪詛が漏れ出ないように暁から一寸、三センチのところに張ってある。長く密着しなければ、問題ない距離だろ」
「ああ、そっか」
こんな展開は千聡も予想外、だったのだろうか。一瞬湧いた疑惑を押し込め、私もコーヒーを啜る。どうにか心を落ち着けたかったが、気を抜くとまだ震えそうだ。コーヒーでも、うまく収められそうにない。
「一個、気になってることがあるんだけど」
控えめに切り出した私に、千聡は視線で応える。
「命を犠牲にして掛けた呪いは基本的には相手が死ぬまで消えないって、言ったでしょ。先代は、犯人の死んだ私の呪いをどうやって解いたの? どうして二年で消えたの?」
「言えない。先代との約束だから」
「あの時の呪いが、まだ続いてる可能性はない?」
続けた疑問も約束の中に含まれるのか、答えは聞こえてこない。それなら、つまり「そういうこと」ではないのか。
「今日変化しそうになった朝晴と警察署で変化した澤田さん、うちに届いた赤ちゃんを警察が連れて行ったあとも少し、似た匂いがしたの。甘い、香水みたいな匂い」
包みを開けた瞬間は不快な臭いしかしなかったのが、残り香は甘く漂っていた。部屋にほんのりと残るそれが気持ち悪くて、窓を全開にした。思い違いにしたかったのは、言い切れない不確かさのせいでもある。でもそれ以上に……怖かったのだ。
「昔の記憶だけど、二十五年前も同じ匂いを嗅いだ気がする。お父さんに抱っこされて、逃げる時に」
充満する血の臭いに混じって、似たような甘い香りを嗅いだ。
「分かった。気に留めておく」
卒のない答えに、コーヒーから視線を上げる。すぐ傍にあったものが、急に離れていくようだった。こういう時には、なんと言えばいいのだろう。
「今日は、泣かせて悪かった」
少しの間を置いて聞こえた詫びに驚いて、千聡を見つめる。千聡はすぐ、居心地悪げにコーヒーへ逃れた。
――いつか俺が、泣かなくて済むようにする。
あのまま手を繋いでいれば、いつかはそんな日が来たのだろうか。町の誰もが私を蔑まず、自分の過ちを認めて、笑顔で迎え入れてくれる素晴らしい日が。
「久しぶりに、泣かされたね」
懐かしさに交じる鈍い痛みは、日に日に増していくばかりだ。責めてくれれば少しくらい、それこそ恨まれても文句は。
……馬鹿は私かもしれない。
一瞬脳裏を掠めた手触りの悪いものを押し込め、戒めるようにまだ熱いコーヒーを喉へ送った。
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