第2話

 では、と切り出した中室なかむろは、隣の櫛田くしだに目配せする。櫛田は頷き、手元のメモにペンを向けた。

「何度もお伺いして申し訳ありませんが、今日の出来事を話していただけますか」

 向かいのソファから、中室が落ち着いた口調で尋ねる。四十過ぎに見える厳つい強面だが、話した印象は見た目ほど恐ろしくない。櫛田の方は私と同じ、三十になるかならないかくらいだろう。新人と呼んでいいのか刑事の業界は詳しくないが、中室に比べると貫禄もなく線の細い優男だ。

 小さく頷き、ようやく震えの収まった手を組む。テーブルに活けた紫式部の実を見つめ、深呼吸をした。最初に来た警察官には動揺でうまく伝えられなかったが、今度は大丈夫だろう。

「今朝、主人の携帯に義母から電話がありました。昨日の台風で屋敷と庭がひどい目にあったから、直しに来て欲しいと。私も行こうかと言ったんですが、一人でいいと出掛けました。それが、九時四十五分くらいだったと思います」

 足早に玄関へ向かう朝晴のあとを追いつつ確かめた時計は、九時四十二分だった。

「帰宅が夕方を過ぎそうだったので、夕飯用に栗の皮を剥いておこうと思ってキッチンへ行きました」

「栗ごはんですか」

 突然差し込まれた声に、紫色の実から視線を移す。悪気はなさそうな櫛田の表情を確かめて、苦笑した。

「はい。疲れて帰って来るだろうから、好物を作って待っていようと思ったんです」

 でもその肝心の朝晴と、未だ連絡が取れない。義実家にかけた電話には義母が出て、少し歯切れ悪く「まだ来ていない」と答えた。違和感はあったが猟奇的とも言える一件を話すのは気が引けて、通話を終えた。

 朝晴がわざとあんなものを送りつけて逃げたとは思えないが、関わっているのかどうかは聞かなければ分からない。でも、聞く前に消えてしまった。

 湧いた不安にまた心許なくなった手を、温かな頬にやる。冷えた指先が熱を吸って、少しだけ落ち着いた。

「そのあと、宅配便が来たんですね」

 話を戻した中室に頷き、顔をさすりあげる。思い出したくないが、話さないわけにはいかない。今頃、あのおじさんのところにも警察が押し掛けているだろう。

「インターフォンが鳴ったのは、十時過ぎだと思います。宅配便の方だったので、オートロックを解除して玄関へ向かいました」

「荷物を差し出された時は、どうでした? 不審なところはありませんでしたか」

「何も注文していなかったので、私宛と聞いて少し驚きました。でも差出人が主人だったし住所が県庁だったので、斡旋で購入した品を売店から送ったと思ったんです」

 そういえば、伝票の文字は朝晴のものだっただろうか。もしかしたら、違っていたかもしれない。

「ええと、お二人とも先生、でしたね」

「はい。今、主人は教育委員会で県庁に、私は桜鵬おうほう高校で社会を教えています」

 私達が出会ったのは一校目、同じ二年団の朝晴は私の教育係を命じられていた。

 その指導は丁寧かつ適切でなんの問題もなかったが、県立高校での私のキャリアは僅か五年で終わった。三年目に三年生の担任を任されたあと、異動した先でも三年生の担任を二年連続で任されたのが原因だ。一校目はともかく、次の二高にこうは進路実績に異常な執着を見せる進学校だった。良い実績を提げて異動した私は目をつけられ、結果、使い潰されたのだ。

 不意に鳴り始めた携帯に中室は手刀で詫び、腰を上げる。残されたのは櫛田と私だ。櫛田に続きを話してしまってもいいのだろうか。

「続きは、待っていた方がいいでしょうか」

「そうですね、すみません」

 一人では自信がないのか許されていないのか、櫛田は同意を返す。眉尻も目尻も下がった毒気のない顔立ちは、なんとなくラクダに似ていた。首も細長いし、華奢な肩はなだらかに落ちている。警察より保育園や介護施設に向いていそうな風貌だ。

 あの、と控えめに切り出した櫛田に、視線を合わす。

「失礼ですが、一高いちこうに通われてませんでしたか?」

「はい、そうです」

 突然の質問に驚きつつ頷くと、櫛田も確かめるように頷く。

「やっぱり。日羽ひわ先輩、ですよね。俺、一つ下にいたんです」

 親しげに呼ばれた旧姓に再び驚いた。こちらには、全く覚えがない。

「ごめんなさい。私、思い出せなくて」

「あ、先輩はそうだと思います。有前ありまえ先輩とよく一緒にいましたよね? それで勝手に知ってただけなので」

 旧姓以上に懐かしい名字と思い出に、思わず苦笑してしまう。千聡ちさとと親しかったのなら、合気道部だろうか。

「そうでしたか。千聡くんとは、今も会ってます?」

「いやあ、全然ですね。年賀状のやり取りはしてるんですけど。毎年、超達筆の年賀状が来ますよ」

 年賀状か。幼い頃は当たり前のようにやり取りしていたが、途切れて久しい。先代住職の遷化せんげにより下山して副住職になったのは、確か四年前だ。それからは盆彼岸に時々、見掛けるようになった。でも、それだけだ。

――暁ちゃんを千聡に嫁がせようなんて、馬鹿なこと考えないでくださいね。

 位牌堂で冷ややかな声の忠告を聞いたのは、高三の夏だった。

「すみません、お待たせしまして」

 すまなげな表情で再びソファへ腰を落とした中室に、意識を過去から引き上げる。今はもっと、考えなければならないことがある。

「荷物を受け取ったあとから、お願いできますか」

「はい。受け取ってリビングへ運んで、ここで封を開けました。開けた途端、アンモニアみたいな臭いがして。開ける前は全く感じなかったので、驚きました。中を見たら白い布に包まれた、大きな卵みたいな物が入っていたんです。真ん中には和紙の帯がついていて、中納言行平の和歌が筆で書かれていました」

「すみません。物が手元にないもので、その辺を詳しく」

 詳細に思い出せば、感覚まで蘇りそうで恐ろしい。長い息を吐き、少し心拍数の上がった胸を落ち着けた。

「百人一首にも収録されている、中納言行平の和歌です。『立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば今帰りこむ』の上の句だけが、変体仮名で書かれていました」

「その、変体仮名というのは」

「簡単に言えば、平仮名の別バージョンです。明治時代に現在のものに統一されるまで、平仮名にはいくつか種類がありました。その別バージョンを今はまとめて変体仮名、異体仮名と呼んでいるんです」

 ざっくりしすぎるところはあるが、概要を掴んでもらう程度ならこれでいいだろう。櫛田がペンを走らせる隣で、中室は感心したように頷いた。

「ありがとうございます。お詳しいんですね」

「子供の頃からかるたが好きで、好きが講じて変体仮名の解読もしてたんです」

「もしかして、かるた部でした?」

「そうです。一年で辞めましたけどね」

 ペンを走らせつつ一瞥した櫛田に頷く。

 私が高校生の頃、県下でかるた部があったのは一高だけだった。そのあと絶対に来るとは思わなかった競技かるたブームが来て、現在は一高を含めた三校に存在している。

「知り合いだったのか」

「いや、俺が一方的に知ってた先輩です。よく見掛けてたので」

「やばいことしてねえだろうな」

「してませんよ!」

 慌てて言い返す櫛田に思わず笑う。そこだけ聞けば、確かにそうなってしまうかもしれない。

「脱線してすみません。それで、荷物を手に取られたんですね」

「はい。帯に書かれている文字をちゃんと確かめたくて、取り出しました。帯にはやっぱり上の句だけが書かれていて……あ、『上の句』『下の句』は分かりますか?」

「はい。昔、古典でやりました。上の句は五七五の部分で、下の句が残りの七七ですよね。かるたでは上の句が読み札で、下の句の札を選ぶ、と。休み中に百人一首を覚える課題が出て、必死で覚えましたよ」

 中室は苦笑しつつ、的確な説明を返す。かるたに触れたことのない人に、百首の課題はきつかっただろう。

「そのとおりです。それで私、思わず下の句を呟いてしまったんです。そしたら、耳元で小さく鈴の音がして」

「鈴の音、ですか」

「はい。ここから話すことは、信じてもらえないと思います。私もまだ本当にあったことなのか、信じられません。でも、嘘ではないんです」

 溜め息をつき、手を無意味に組み直す。こんなことを話したら、きっとおかしい人だと思われるだろう。最初に話した警察官も、不審な表情で聞き返した。

 でも全部事実なのだから、仕方ない。恐怖を思い出す胸を押さえ、深呼吸をする。大丈夫だ、もう目の前にはない。

「鈴の音がして隣を見たけど、誰もいませんでした。視線を戻したら勝手に和紙の帯が外れて、布が一枚ずつ開き始めたんです。投げ捨てようとしても手から離れなくて、視線も外せなくて。全て開いて赤ちゃんだと分かった瞬間に、ふっと解けたんです。ダンボールへ戻してすぐ、110番しました」

 疑う視線を浴びるのが怖くて、俯いたまま話す。多分あの子は、死んでいたのだろう。押し寄せた警察官達は何かを確かめたあと、ダンボールごと引き取っていった。

「そのあとすぐ、主人にも電話をかけました。でも、繋がらなくて。義母に電話しても『まだ来てない』と言うし。主人にも何かあったんじゃないかと、心配で」

 テーブルに置いた携帯は、未だ鳴る気配がない。もしかしたら本当に、朝晴が送りつけて逃げたのだろうか。だとしたら、なぜ。

「ご主人の身の安全に関しては、心配ありません。先程から、別件でうちの署においでになってますので」

 落ち着いた声の報告に、弾かれたように顔を上げる。喜ぶだけでは終わらない内容だった。

「あなたが110番をされた頃、ご主人も別の場所で110番をされてまして。詳細はまだ申し上げられませんが、訪問先で死体を発見されたんです」

 中室は慮るように続けるが、違う。何を探ろうとしているのか、視線の質が変わっていた。まさか、朝晴が疑われているのか。少しだけ緩んでいたどこかが固く締まり、肌が粟立つ。手のひらに汗が滲んだ。

「また改めてお伺いするでしょうか、ひとまず一昨日、十月七日金曜日からのご主人の行動についてお聞かせ願えませんか」

 何もしていないと言い返したくなったが、今訴えたところで無理だろう。あの荷物は朝晴の名前で送られていたし、朝晴はどこかで誰かの死体を見つけている。

 金曜日はいつもどおり家を出て帰って来て、土曜日は台風だったから一日中家にいた。隠さず話した方がいい。誰かに陥れられたにしても今は、何もしていないことを証明するのが先だ。証明できるのは私しかいない。動揺を抑え、唾を飲んだ。

「一昨日、金曜日の朝はいつもどおりの時間に仕事へ出掛けました。職場での様子は分かりません。帰宅はいつもどおり、午後十時過ぎでした」

 疲れのピークでもある金曜日の帰宅時はいつもぐったりとして顔色が悪く、口数が少ない。特に、ここ二回の金曜は。一昨日は少しだけ夕飯を食べて風呂に入り、泥のように眠った。

「教育委員会って、そんな忙しいんですか」

 確かめるように尋ねる櫛田に頷く。教育委員会内には、学校教育に関わるものから人事に関わるものまで多数の課や係が存在する。朝晴の話だと定時で終わる係もあるらしいが、あいにく朝晴の配属先は違っていた。

「主人の課は忙しいようで、十時が『いつもどおり』なんです。夜中に帰って来る日が『いつもどおりじゃない日』ですね」

 今はそれだけでない事情もあるが、相手が刑事とはいえ問われるまでは言わない方がいいだろう。下手に口にすれば、朝晴が情報を漏らしたと思われかねない。

 苦笑する私に、中室は納得した様子で頷いた。刑事も公務員ながら、事件が入れば数日は帰れないと聞いたことがある。激務具合は想像できるのだろう。

「土曜日は、お昼まで寝ていました。昼食ができたので起こして一緒に食べて、午後からは二人で映画を観て過ごしました。台風だったので、外出はしていません。私しか証明できる人間はいませんが……あ、マンションの防犯カメラがあるんじゃないでしょうか。管理人さんに仰っていただければ、確認できると思います」

 映っているのではなく、映っていないのを確かめてもらうのは不思議な気分だ。でも、無実を証明するにはそれしかない。

「最近、ご主人の行動に変わった点はありませんでしたか。これまでにない習慣ができたとか、金遣いが荒くなったとか」

 ここで仕入れた情報を持ち帰って、朝晴から聞き取った向こうの情報と照らし合わせるのだろうか。まるで犯人のように扱われている朝晴に、視線が落ちた。心細くて、たまらない。

「一ヶ月ほど前から、たまに実家で一泊しています。義母が少し精神的に不安定になっているようで、呼び出しが減らなくて」

「理由をお伺いしても?」

 そんなことまで聞いて、どうするのだろう。でもここで尋ね返したら不審に思われて、朝晴が余計疑われるのか。詳らかにするのを朝晴は望まないだろうが、無実を証明するためだ。

「七十を過ぎて、心身の衰えを急激に感じるようになったみたいです。以前から何かあると主人を呼び出してたんですが、その頃から増え始めて。泊まれば少し気持ちが落ち着くんじゃないかと、夫婦で話し合って決めました。私は老年期うつじゃないかと思っていますが、義父と主人は病院へ連れて行くのに抵抗があるようなので」

 義実家はみな鷹揚な人達で、私の過去や療養を伝えても「気にしなくていい」「大変だったね」と受け入れてくれた。それでも、自分の家族が世話になるのは別らしい。

「金遣いは、異動してから荒くなりました。でも激務続きだと休日は出歩くより寝ていたいし趣味に取り組める気力もないしで、ほんと夜中に衝動買いするくらいしかないんです。仕事の内容や……話せば楽になることは、守秘義務で話せません。教員の世界は狭いので、名前を出しての話もしないようにしています。同職だからこそ、その辺はきっちりしなければと思っていて」

 教員同士であろうとなかろうと、口の軽い人達がいるのは知っている。彼らが問題を起こしては「まさかこんなことに」と口走るのを、これまで何度も見てきた。なぜ彼らは、自分だけは大丈夫だと思うのか。

「そうですね。職業理解とセキュリティ意識が同レベルなのは、さすが同職とも思いますが」

 視線を上げた先で苦笑した中室に、その左手を一瞥する。見えない指輪はわざと外しているのか、外すようなことがあったのか。

「その分、ほかのところは緩いと思います。特にルールはないし、煩く言うこともありません。金遣いに関しても、生活費の支払いに滞りがなければいいと思っていました。家に帰ってまで指示や規則に縛られるのは、息苦しいじゃないですか」

 同意を求めるような言い方に気づき、苦笑する。これは、私の意見でしかない。

 夫婦間で細かなルールを決めて遵守を求めるのが性に合わなかったのは、私だけだったのかもしれない。快諾してくれた朝晴の本音はどこにあって、どこに行ったのか。

「あの、主人はどこへ行ってたんですか」

「心当たりは?」

「……ないんです。それが、情けなくて。私、主人のことを何も分かってなかったんですね」

 話をしているうちに少しずつ、何を隠されていたのかを冷静に考えられるようになっていた。朝晴は私との生活で感じる物足りなさや息苦しさを、「誰か」のところで癒やしていたのではないだろうか。誰を名指しして愚痴ろうと、なんの影響もない胸で。

「申し訳ありませんが、今はまだお伝えできません。特に問題がなければ、今日中には帰って来られると思いますので」

 裏を返せば、「問題があれば」帰って来ないということだ。

 中室は神妙な表情で詫びたあと、頭を下げる。櫛田も続いて頭を下げ、重苦しい空気のまま会談を終えた。

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