奈落の淵より冥きもの
魚崎 依知子
たちわかれいなばのやまのみねにおふる
第1話
「私、ほんとに行かなくてもいいの? 片付けくらいなら手伝えるけど」
「いや、壊れた瓦や折れた木は危ないよ。だから母さんも僕だけでいいって言ったんだし」
「聞いた感じだと、お昼を過ぎると思う。夕方くらいになるかも」
「分かった。でも、気をつけてね。仕事の疲れが溜まってるんだし」
心配する私に素直に頷いたが、不安は募る。とはいえ守秘義務を遵守する夫に、洗い浚い吐き出させるわけにはいかない。話が聞けないのならせめて、ゆっくり休んで欲しかったのに。溜め息を零し、パーカーを羽織った分厚い肩を眺める。
ずんぐりむっくりの小男で、力はあるものの決して機敏ではない。お人好しな上に極めて温厚、愛嬌のある童顔も相俟ってか「使われやすい」人だ。疲れていても、頼まれたら断れなくて引き受けてしまう。
義父母は善良な人達だが、ちょっとしたことでも朝晴を呼び出す癖がある。最近は特に増えていて、私を悩ませていた。
「ごめん、じゃあ行ってくるね」
「あ、待って」
急ぐ様子で告げる朝晴を引き止め、馴染んだ唇にキスをする。
予定外の告白は私から、乱痴気騒ぎで居心地の悪い忘年会から抜け出したあとだった。
――冗談だよね? おじさんをからかうのは良くないよ。
苦笑で受け止めた朝晴に、一瞬で酔いが散った。それでも冗談にできるほど私は器用でも、残酷でもなかった。
手を振って見送り、薬指にはまる指輪を眺める。結婚二周年を迎えて新婚の看板は下りたが、いい感じだ。遠ざかる音を確かめて玄関の鍵を下ろし、踵を返した。
疲れて帰って来るだろうし、今晩は好物の栗ご飯と豚汁で労る予定だ。まずは栗の皮を剥かなくては。よし、と気合を入れてキッチンへ向かった。
インターフォンの音が響いたのは、それから二十分ほど経ってからだった。途中まで剥き終えた栗を再びボウルへ落とし、エプロンで手を拭いつつモニターを目指す。モノクロの画面には、いつもの宅配業者が映っていた。
荷物の到着を告げる声に、オートロックを解除してエプロンを外す。多分、朝晴の荷物だろう。教育委員会へ異動して三年、朝晴は激務のストレスをネットショッピングで解消している。尤もその気持ちは分かるから、何も言えない。私も県立高校にいた頃は消滅させられそうで、なぜ頼んだのか分からないようなものばかり買っていた。あの頃手に入れたものは多分、ここにはない。
暗い記憶に、胸の辺りが息苦しさを思い出す。宥めるようにニットの胸を押さえ、深呼吸をしつつ廊下へ向かった。
そろそろ美容院へ行かないと。シルエットの崩れを廊下の鏡で確かめ、伸びた髪を耳に掛ける。私立高教師に転職した今は、ショートボブを維持できる程度の心と時間の余裕ができた。でもこの髪型は、ふわふわと広がる癖毛のせいで幼く見える気がする。二十代もあと少し、三十代にはどんな髪型が相応しいのだろう。垂れた目を縁取るまつげのカーブを爪で整え、玄関へ向かった。
チャイムの音にドアを開けると、いつもの男性がにこやかな笑みでダンボールを差し出す。年は五十を過ぎたくらいか、ごま塩頭を短く刈り上げたおじさんだ。十月に入ってもまだ半袖で、よく焼けた頬は汗で照っていた。
「おはようございます。
予想と違う宛先に、少し面食らう。
「おはようございます、いつもありがとうございます。今日はいいお天気になりましたねえ」
「そうですね、台風一過とはよく言ったもんで」
いつもと似たような会話を交わしつつ見た伝票は確かに私宛てで、差出人は朝晴だった。県庁の住所だし、斡旋で買った品でも送ったのだろう。
印鑑を押して受け取り、リビングへ運ぶ。ダンボールは小脇に抱えられるほどの大きさだが、割と重い。三キロくらいだろうか。私宛てだから、朝晴を待たずに開けても問題はないはずだ。さすがの朝晴もこんな杜撰なサプライズはしない、と思う。
一抹の不安を抱えつつ伝票とガムテープを剥がし蓋を開くと、きつい臭いが鼻を刺す。アンモニアのような……さっきまでは、全く嗅ぎ取れなかった臭いだ。
「何、これ」
顔を歪めつつ確かめた中には、白い布に包まれた楕円形のものが入っていた。その封をするように、真ん中に和紙の帯が巻きつけられている。朝晴は、どうしてこんなものを。
妙な薄気味悪さを感じたが、和紙に書かれた流麗な筆文字が気になって手を伸ばす。手に触れる布の感触は麻か、包まれているのは置物のようだった。
置物を取り出し確かめた筆文字は予想どおり変体仮名で、『たちわかれいなばのやまのみねにおふる』と書かれていた。百人一首にも収録されている
「まつとしきかばいまかへりこむ」
反射的に下の句を呟いた途端、耳元で小さく鈴の音が聞こえた。思わず隣を見たが誰も、何もない。でも今は一気に総毛立った全身が、何かの気配を感じていた。
ぎこちなく視線を戻した先で、するりと和紙の帯が外れる。驚いて手を離そうとしたが、まるで貼りついたかのように離れない。冷たい汗が噴き出し、こめかみを伝い始める。寒くもないのに歯が小さく鳴り始め、肌が震える。喉が張りつくように乾いて、痛い。
幾重にも重ね合わされた麻布が、花が綻ぶように開いていく。
見てはいけないと分かっているのに、視線が離せない。まるで何かが、私の瞼を見開かせているかのように。
やめて、見たくない。
声にならない拒絶に涙が溢れ、細く漏れた息が掠れた。ようやくできた瞬きを一度、涙で滲む視界が輪郭を取り戻す。ゆっくりと開かれた最後の一枚に、思わず目を見開く。
包まれていたのは、赤ちゃんだった。
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