胡桃郷の愚か者どもへ

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胡桃郷の愚か者どもへ

 西日本に位置する胡桃郷村くるみさとむらは、かつてはキリシタンの隠れざとであった。現在は原子力発電所と胡桃の生産地として名を知られている。


 この村では、村と同じ名の胡桃郷の一族が名家として幅を利かせていた。

 現在の家長は胡桃郷一臣かずおみ。村最大の胡桃農家だ。

 次男はさかえ。村の役場で働いている。

 長女は星子ほしこ。電力会社の幹部社員。

 三男、三樹彦みきひこは農協職員。

 先代家長の一昭かずあきは陶芸家であり、美食家として知られている。

 一昭の妻、としは、村議会議員を長年務めている。


 胡桃郷家は、村内に広大な胡桃畑を所有している。その敷地の奥には、ひときわ大きな一本の胡桃の木が植えられていた。高さ10メートルの古木である。古木とは言え幹は太く皮は厚い。霜積もる年月もここまでは及ばないかのように、季節が巡ればいつも、千の枝に万の青葉が若々しく生い茂っていた。


 この胡桃の木は、村人から「黄金胡桃こがねくるみ」と呼ばれていた。


 実際、それは黄金の胡桃がる木であった。

 しかも、千年に一度だけ。たった一つの黄金の胡桃を。


 *


 その年は、まさに千年に一度、黄金の胡桃が生るとされた年であった。

 一臣は古文書を紐解き、専門家を招き入れ、まさにこの年の夏の頃に、黄金の胡桃が生ると突き止めたのだ。


 黄金胡桃は厳重に管理された。ものの価値のわからぬリスがその実を齧らないように、ネットで幾重にも囲まれた。また、ものの価値がわかる盗人が侵入しないように、一臣の胡桃の園には壁が張り巡らされ、監視カメラが幾つも設置され、信用のおける警備員が常に警戒にあたるようになった。


 黄金胡桃はそんな環境下でもまた葉を茂らせた。実家の敷居をまたぐように、慣れた様子で季節をまたぎ、世間から隔絶された空間で、短くしか生きられない者たちとともに、何度目かもわからない夏を迎えた。

 6月が来て、7月が来た。胡桃郷家の者たちは、伝承を信じて今か今かと黄金が生るのを待ちわびた。儀式のように木の下から見上げ、枝の隙間を見やり、幹の周りをぐるぐると回った。

 8月が来て、お盆が過ぎた頃、それは起こった。


 夜半、黄金胡桃は大火に焼かれ、炭と化した。


 生木の湿った煙は、天に上る前の最後のはなむけとして、明け方の胡桃郷村を包み込んだ。それは不思議にも香り高く、村人の鼻を煤に染め、数日の間、肺腑の中に芳香を漂わせた。

 

 千年に一度の黄金胡桃は、炭と灰の中から見つかることはついになかった。


 *


 村の木造の教会は、キリシタンの隠れ郷の名残であろうか。その敷地内では、次男栄の妻の桜子さくらこが喫茶店を開いていた。

 

 胡桃郷家の面々は、桜子を除いて、みな渋い顔をして椅子に腰かけていた。客は彼らのみ。テーブル席に4人、カウンター席に次男と三男。一臣は消火活動の際に負傷して、左手と首に包帯を巻いている。とし海は火事以来、ショックのあまり寝込んでいたが、家族会議と言うことで、無理やりに連れてこられていた。


 黄金胡桃が焼失してから5日後。消防と警察の調査は遅々として進んでいなかった。


「警察は俺たちを疑っている」


 長男の一臣が口を開いた。現場に火の気がなかったことから、警察は当初から放火を疑っていた。また、外部から人が侵入できない場所で出火していたことから、内部犯が疑われた。


「俺たちの誰かが火をつけたって言いたいのか」

「馬鹿げている。黄金胡桃は胡桃郷家の宝だぞ」

「でも、よそ者があの場所に立ち入れるとは・・・・・・」


 薄暗い店内はコーヒーの香りで満ちていた。窓の外は強い日差し。何事もなかったかのように例年どおりの夏の空が広がっていた。そこにいた彼らには、黄金胡桃の焼けて漂った煙を持ち去った空が憎らしくすら思えた。

 有線からは、胡桃郷家の者たちの気持ちも知らないで、愉快なラップミュージックがかかっていた。


 胡桃郷家が犯人捜し、責任のなすり付け合いをしていると、誰も立ち寄らないはずのこの喫茶店のドアがカラカラと鳴って開いた。

 一同が入口に目をやると、そこには一人の老婆が立っていた。


「なんだ、分家の。何用だ」


 老婆の名は深里一香ふかさといちかという。胡桃郷村のずっと奥、じめじめとした山の近く、そこそこ広い邸宅でひっそりと暮らしている村人である。胡桃郷家とは家の格が大きく違う。血縁関係も今やわからない。それでも、何故だか胡桃郷家と深里家は、昔から本家と分家の関係とされていた。


「ここはあんたの来る場所ではない。帰りたまえ」


 一臣が冷たくそうあしらう。しかし一香はずかずかと店内に入り、胡桃郷家の連中と対峙して、こう言った。


「なんだい、せっかく放火の犯人がわかるっていうのにさ」


 一香は手にしていた手提げの紙袋から、こんもりと丸い巾着袋を取り出した。それには白く美しい絹に細かな刺繍が施されており、一目で見事な品だとわかるものだった。


「お前が黄金胡桃の何を知っている。くだらんはったりはよせ」

「分家が本家の集まりに口を挟むな。何様か」


 次男と三男の憤懣を、一香は鼻で笑った。


「ふん、胡桃の木一本も守れない連中が何を偉そうに」

「何だと!」


「まあ、よせ」今まで黙っていた一昭がそう言った。「犯人を知っているのなら、さっさと教えて帰ってもらおうか。コーヒーくらいはおごってやる」


「知りはしないよ」と、一香は言った。「わかる、と言っている」


 店内に流れる有線は、シューベルトの『アヴェ・マリア』を流し始めた。カウンターの奥では、桜子が飲みかけのコーヒーを排水溝に捨て、食器をカタカタと片づけていた。


「探偵気取りか」

「探偵でも何でもいいさ。この歌が終わる頃には解決してるさね、きっと」


 そう言いつつ、一香は巾着をテーブルに置き、それを結んでいる紅白の太いひもをゆっくりとほどいた。中からは、美しい刺繍が施された絹が現れた。それはまた、何かをくるんでいた。

 見れば、最初に何かを包んでいた絹には、深里家の家紋が紫の糸で刺繍されていた。

 そして、その下から出てきた絹には、胡桃郷家の家紋が銀糸で刺繍されていた。

 一香はその包んであった絹も紐解いた。そこには、夏の日差しにキラキラと表面が輝いて見える、極上の、としか言いようのない絹が、また何かを包んでいた。

 その絹には、紫の糸と、金糸と銀糸で、稲穂を抱きかかえる女性の図像が刺繍されていた。


 一香はその絹もほどき、中から八角形の小物入れを取り出した。品は小さいが全面漆作り、側面には美人の目のような胡桃の葉が、螺鈿細工で幾つもかたどられて茂っていた。

 一香は動きを止めることなくその蓋を開けた。


 中には、紫の小さな座布団の上に、黄金に輝く胡桃が薄絹をまとって座っていた。


「てめえが盗んだのか!」


 そう言って三男が一香の胸ぐらを掴んだ。しかし一香は、大の男から押し込まれたにもかかわらず、驚くほどビクとも動かなかった。ソプラノの歌手が高らかに聖母への賛歌を歌い上げている。


「何で分家のものがそれを持っている」


青ざめた顔でとし海がそう言った。


「自分が犯人だと言いたいのか」

「まさか。私は分家としての役割を果たしに来たのさ」


テーブル席とカウンター席に挟まれて、一香はそう言った。


「何だって?」

「本家が黄金胡桃を失ったとき、分家の黄金胡桃を本家にお返しする。それがウチとあんたたちが大昔に交わした契約だろう」


 思い当たる節のある一臣は腕を組んで黙り込んだ。古文書の中に、そのように読める一文を見たことがあった。カウンター席から次男が身を乗り出し、長男の肩を強く揺さぶる。


「騙されるな、一臣兄。黄金胡桃は千年に一度のものだ。こいつがこれを持っているのがおかしいんだ」

「偽物だ」

「誰も黄金胡桃を見たことがない」

「そりゃ、最後の胡桃は千年前だ」


 母親そっくりの目付きで長女の星子はそう言った。

 音楽は鳴り続ける。ゆっくりと、長く伸びる声色は、呼びかけるものとの距離があまりに遠く隔たっていると自らに言い聞かせているかのよう。桜子は出鱈目なラテン語で鼻歌を歌う。店の前を自転車がさっと通り過ぎていく。


「さあて、犯人さんや。いいのかい。このまま手をこまねいていて」


 一香が楽しそうにそう喋りだす。胡桃郷家の者たちは、椅子に縛られたかのように押し黙る。誰も口を開かないのを見るや、一香はますます増長して煽りだした。


「馬鹿野郎の業突ごうつく張りが。慣れないことをするんじゃないよ。口の中はよだれでいっぱいかい。お前ら以外にあの胡桃の木に近付けるものがあるかね。さて、さて。いいのかい。もう二度と黄金胡桃を手にすることはできないよ」


 胡桃郷家の面々はお互いに顔を見合わせた。


「お前の目の前にあるのは、千年前の黄金胡桃さ。本物だよ」


 一香がそう言うと、テーブル席の隅からさっと黒い影が伸び、箱に入った胡桃を奪い取った。


 みながあっと思う間に、一昭は手にしていた胡桃割りで黄金の殻を割った。その乾いた音は、その場にいた者たちの耳には、この場の空間ごと割り裂かれたかのように響いた。隣にいたとし海が手を伸ばして夫を止めようとするが、一昭はそれを片手で振り払うと、手のひらに転がり出た胡桃の実を口に押し込んた。


「おやじ!?」


 一臣がそう叫んだが、あとの胡桃郷家のものはみな唖然とするばかりであった。老人は、老いさらばえて骨筋張った両手を口に押し当て、口の中で咀嚼するものを誰にも取られまいとしていた。みんなが見守る中、やがてこの老人は、口の中のものを五噛み六噛みすると、みるみる顔を赤くして怒鳴りだした。


「何だこれは、ただの胡桃ではないか!」


「ご明察、一昭殿!ウチの孫娘の自信作さ!」


「馬鹿め!先週食べた本物の味、香りはこんなものではなかった!」老人は立ち上がり、腕を振り回して言う。「この世のすべての花の蜜を舌の端に乗せたかのようなあの甘い芳醇!甘露でありつつ渋くもあり苦くもある、あの果肉の美味さ!胡桃の持つ真実の甘味はもちろん、渋味苦味すら、人生の半分と引き換えても構わんと、ワシは、心底、思ったのだ!」


 そして老人は急に黙り込み、精根尽きて机に突っ伏すと、テーブルに転がったままの胡桃割りをポケットにしまった。抜け殻となった黄金胡桃の殻は、まだギラギラとしてその輝きを失わないでいた。


 『アヴェ・マリア』は、終始聖母をたたえ、我らの声を聴いてくださいと歌い、そして歌い終わった。それだけを歌う歌。


 畏怖すべきものに対して、取るべき態度を取らないものを愚かという。


 有線は、何事もなかったかのように、決められた次の曲を流し始める。桜子は、その懐かしの、男の子向けのアニメソングを口ずさみながら、立ったままの一香の前にコーヒーを差し出し、呆然とする一昭、先代家長を指してこう言った。


「あちらのお客様からです」


 *


 愚か者の行いについて、詳しく話をする必要はあるだろうか?


 一昭は、黄金胡桃が食べたかったから食べた。

 一昭は、それが露見するのが怖かったから、黄金胡桃を燃やした。

 一昭は、また黄金胡桃が食べたかったから、一香の罠に引っかかった。


 美食家にとって、千年に一粒の木の実は、家名も名誉も打ち捨ててでも口にしたいものだったらしい。


 一昭が廃された後、一香は、分家で保管していた黄金胡桃を本家に改めて差し出した。それは前述の契約に基づいてのことであった。

 本物があったからこそ、本物を見たことがある一昭を騙すことができたのだ。


 胡桃郷家と深里家の本家、分家の関係はこれで区切りがついた。深里家は成すべきことを成し、一香の言葉を引用すると、「無事、お役目を終えた」のだ。


 *


 ここに一人の、上機嫌な女性がいる。一香の孫の深里一遥いちは。村のバス停でバスを待っている。

 古臭い時代錯誤の「お役目」から解放された新しい世代。彼女は元々、狭い村でのマウント合戦に辟易していた。どいつもこいつも愚か者ばっかりだ。本家は村の財産を守れず、元家長が欲望に身を任せて自滅した。この村で、今までのようにでかい面して歩けると思うなよ。


 そして、祖母も愚かだ。あれほど毎日神棚に飾り、拝み、眺めていた分家の黄金胡桃が、私の手ですり替えられていることにも気が付かないなんて。

 

 一遥は、火事のあった直後に祖母に頼まれ、分家の黄金胡桃の偽物をこしらえた。目が利き、手先が器用なので、調色には自信があった。そして、偽物は二つ作っていた。一つは胡桃郷家の愚か者どもへ。もう一つは見る目のない祖母の手へ、そして祖母の手から胡桃郷家の愚か者どもへ。


 本物の黄金胡桃はいま、彼女のポケットの中にある。


 村の連中はこの胡桃の価値をわかっていない。千年に一粒だ。上手くやれば大金が手に入る。小娘の私では、上手く売り抜けるのは難しいだろうが、やってやる。こんな村で胡桃にまみれて生きる気はない。私は胡桃郷の愚か者どもとは違うのだ。


 一遥はポケットから黄金胡桃を取り出し、それを夏の空へとかざした。黄金よりも強く輝くそれは、振るとカラカラと鳴った。

 私はやってやる。ここからだ。一遥は胡桃をポンと上に投げ、しっかりとキャッチした。

 つもりだった。胡桃は一遥の拳の上でお手玉し、バス停前のガードレールを飛び越し、車道へと転がり出た。そこへ胡桃を積んだ農協の車。


 黄金胡桃は舗装のはげたアスファルトの上で、パキっと乾いた音を立てて割れた。中身はすりつぶされ、後輪がそれを舐めて通り過ぎた。


 一遥は、ガードレールを跨ぎきることもできずにいた。ただ、黄金胡桃の輝きが、寿命を迎えた蛍のように、失せて消えるのを見ることしかできずにいた。


 胡桃郷村の愚か者どもへと、この時期には珍しい、谷からの風が吹いた。風は谷をのぼり、車道に到着すると、地面に落ちていた黄金胡桃のなけなしの香りを拾い上げ、それを村へと送り届けた。

 真っ先にそれを受け取った一遥は、その鼻孔をくすぐる香りから、地面で潰れているものが本物の黄金胡桃だと悟り、白目をむき、よだれを垂らし、仰向けになって倒れた。バス停のぼろぼろの椅子を破壊し、そしてそのまま気絶した。

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