けんこうのはなし

Twitterで繋がらせていただいている宵待昴さん(@yoi9suba)と同じテーマ『絶望、揺らぎ、節制』で書きました。ありがとうございました!



 白い庫内が白熱灯のような暖かみのある光で満たされている。あまり長い時間扉を開けていることが気に入らないのか、ぶぅんと唸るような重低音を響かせた。もしくは、早く食事を寄越せという要求だったかもしれない。なだめるよう一度扉を閉め、再度開けたところで冷蔵庫の中身は増えなかった。


「嘘やろ」


 もう何回目かの独り言へもちろん返事はない。あったら怖いんやけど、と突っ込む気力も湧かず、ささやかすぎる期待を込めてドアポケットを探ってみたが、チューブとパウダー状の調味料がいくつか転がっているだけだった。

 三段の棚では封を切ったコーヒーの粉、いつもらったのか思い出せない梅酒の小瓶、使いかけの味噌が光に照らされている。唯一の食料は野菜室でラップに包まれたきゅうり。

 じゃあ冷凍庫は、と冷蔵よりも小さな扉を開き、二段に分かれた庫内を引き出そうとすれば予想以上に重い手応えがあった。お、期待したのもつかの間、引き出しには猛暑対策で冷凍したペットボトルが二本横たわっている。勢いでごろん、と転がる音が切ない。


「こっちも空かーそりゃ食べればなくなるよなぁ……」


 さて、どうしたもんか。食べるものがない、と意識した途端腹の虫が切実な声を上げた。さっきまでそんなんじゃなかったやん、と呼びかけてみても泣き止む様子はない。

 吐き気まではいかないものの、あまりのんびりしているとまずいのは経験上よくわかっていた。低血糖を起こしやすい体質は母親譲りだ。身長と同じで父親に似ればもっと頑丈やったんやろうけど。

 取りあえずきゅうりを小皿に出した味噌へ突っ込みつつ、頭を巡らす。一番近いコンビニまでは徒歩五分。スーパーは更にそこから十分の距離。そして起きたばかりで着古したTシャツと、ハーフパンツの自分。

 普段なら何てことはない食料調達が目を回すほど遠く感じられ、眉間に力を入れたままかじったきゅうりはそれでもきゅうりだった。水分と塩分で、忙しなかった思考がほんの少しまとまった気がしたが、一方で腹の虫は前菜はいいからメインを持ってこいと主張する。

 味噌きゅうりって料理だよな、そんなことを思いながらスマホをスワイプし、宅配アプリを開こうとして指が、止まった。よれた生地の上から腹を撫でつつ、俺は先月の出来事を反芻する。きっかけはまたも笹木だった。



 向かい側の俺にまで聞こえる、肺深くから吐き出した息だった。パソコンの画面から顔を上げると唇を尖らせた笹木が、いかにも面白くないと言いたげに画面を眺めている。夏祭りの日から眉間に皺を寄せるのはなるべく控えているらしい。やっぱり真面目なんやな。


「どした、さっさ」


 そんな健気な同僚が困っているなら力にならんと。二台並んだパソコンの間から顔をのぞかせ、まだ表情の全部が見えないことに気づいて立ち上がる。こっちを見上げた笹木へフロアの外を指せば伝わったようで、煙草とライターを手に立ち上がった。

 ふたり並んでフロアを出ても特に何も言われないところが好きだ。出入口脇にあるいつもの自動販売機、お決まりの無糖を買おうとスマホを近づけたところで笹木がにやけながらカフェオレのボタンへ指を伸ばしてくる。


「やめーや。この間本当に押したやろ」

「そうだった。甘かったなーこのカフェオレ」

「特に甘いやつなんじゃないか、これ」


 甘いものと甘い飲み物は似ているようで違うものだ。笹木は甘いものは好んで食べるが、どうもコーヒーや紅茶などに甘さを添加したものは苦手なようで、前回うっかりで買った責任を取らせてふたりで飲んだ時には甘いはずなのに苦虫を噛んだような顔をしていた。

 指先を無糖まで移動させ、今回は無事無糖を購入して二階下の喫煙所に腰を落ち着ける。並んで出っぱりへ腰を下ろした瞬間笹木は煙草を咥え、待ちかねたように話し出した。


「健康診断の結果来たんだけど、初めて要経過観察があったんだよ」

「要経過観察……あぁ、結果のアルファベットがBとかCとかだったんか。どこ引っかかったん?」

「肝臓と、中性脂肪」


 ついに来たわ、と笹木は咥えたままにしていた煙草へ火を点け、吸うのもそこそこに吐き出す。喫煙所には他に誰もおらず、しっかりとその眉間には深い皺が寄っていた。あまりいいとは言えない目付きが更に強さを増す。


「遂にかー。まぁ今回初ってことはそんなに大したことじゃないって。今から食生活とか気をつければ、来年には正常値に戻るやろ」


 三十代になった頃からこの手の話題が増えてきたが、遂に笹木も年齢のえじきになったらしい。むしろ酒と甘いものが好きな喫煙者でここまで無傷だった方がすごいと思うんやけど、俺の下手な慰めに笹木はこちらをじとりとした目で見、


「他人事みたいに言ってるけど、クラはどうだったんだよ」


 面白くないと言いたげな態度を取りつつも、俺から顔を逸らして煙を吐いた。俺が喫煙者じゃないと知ってから、気休めでもと配慮してくれるところが笹木らしい。細やかな気遣いが出来る男なのに、逆にどうしてここまで目が強くなったのか聞いてみたい気もする。今日も総務の新人は笹木へ声を掛けるまで、ずいぶんと躊躇っていたようだし。

 ま、余計な詮索か。


「俺、そういえばまだ結果届いてないわ。さっさより日程遅かったからそろそろじゃないか」

「何だ、まだ見てないからの余裕か」


 せいぜい数日の優位だぞ。意地悪く笑う笹木へ、言ってろと勝ち誇っていられたのは席へ戻り、届いていた健康診断の結果を見るまでだった。三日天下どころか一時間も続かんとか明智光秀も驚くやろうな。現実逃避をしてみても、手の中にある書類へ印字された現実は変わらない。薄目でも、遠目でも一緒だった。

 いやもしかしたら逆さにすれば、書類を逆さに持ちかえたところで伸びてきた手がそれを摘まんで持っていく。目を伏せ、顔の上半分は神妙そうな雰囲気を醸し出しているが、上がった口角が全てを物語っていた。


「悪玉コレステロールと……クラ、これは誤差の範囲を越えてると思うぞ」

「……言うな、さっさ」


 結果を突きつけられ、最近の些細な違和感が脳内を駆け巡る。見過ごしていたというよりも見ないふりをしていた、が正しい。毎朝髭を整える時に映るフェイスライン、半袖から出た腕、極めつきは愛用のパンツを履いた時。妙に引っかかる感じがあるとは思ってたんやけど。


「やっぱり四キロ増はむくみではないよなぁ」

「確かに健康診断の時って朝食以降は水分だけOKだけど、オマエそんなにがぶ飲みしてったの」

「いや。前日は飲酒も禁止やったから、そんな乾いた気もしなくて。むしろ少なかったと思う」

「……じゃあ、やっぱりそういうことだな」


 太ったという言葉を使わないところは優しいが、顔が笑ってるんよ。原因は間違いなく笹木との昼飯だろう。去年はふたりとも大型のプロジェクトチームへ参加し昼もそこそこにしていたが、今年のチームは比較的落ち着いており、食べに行く機会が格段に増えた。新規開拓と称してはランチをやっている店へと足を運んでいる。


「さっさは肝臓がーとか言ってたけど、体重は変わらなかったん」

「微増ってとこだった。夜で調整してるし」

「そんな方法があるなら俺にも教えとけや」


 夜は夜で、飲む笹木に対して食べる俺という図式は以前からだ。八つ当たりを自覚しながら頬杖をついたところで、笹木から診断結果が戻ってくる。さてどうするか。一番手っ取り早いダイエットを検索しようとパソコンへ向かえば笹木がそれを遮るよう声を上げた。


「クラ、弁当だ」

「ん? コンビニか?」

「更に増えそうなこと言うんじゃねーの。自分で作るんだよ」

「弁当」


 朝夜は節約も兼ねて何かと自炊をしていたが、昼まで作る発想はなかった。そもそも弁当箱持ってないんやけど、やらない理由を挙げようとした俺を笹木が強い目で制する。笹木も、この提案をするということはここ最近昼を食べ過ぎている自覚はあったらしい。どっちかというと酒な気もするけどな、そっちの場合は。

 もごもごと咥内で言葉を噛んでいるうち、


「こっちも数値悪かったし、来年までは無理でもしばらくやってみるから。ふたりで節制しようぜ」


 おにぎりとサラダとか軽めにすれば効果あるだろ、食いすぎっぽいし。提案をした時よりもやや勢いを失くした語気が弱気を伝えてくる。笹木も自炊派なのは何となく知っていたが、弁当を持ってきているのは見たことがない。それでも、に、にやけながら少し勿体ぶり、そうやな、時間を置いてから頷くと何勿体ぶってんだと呆れられる。

 翌日、塩むすびふたつを力一杯握ってきた俺と、小さな保存容器に目一杯プチトマトだけを詰め、菓子パンを買ってきた笹木は顔を見合わせ、互いを鼓舞するよう無言で握手を交わした。



 胃が、ぎゅうと収縮するのがわかる。

 過去に浸ってる場合やなかったんや。ええいと開いた宅配アプリにはいかにもな料理写真が表示され、更に胃を刺激する。最短はファストフードの代名詞、ハンバーガーチェーンの五分。

 セットのポテトをサラダに変更すれば、いやでもファストフードって高カロリーの代名詞でもあるやん、指をさ迷わせながらふと足元を見れば弁当用のコンテナと一緒に購入した緑の体重計が光っていた。

 前日の夕食をわざと残してみたり、朝から卵焼きを焼いてみたり、あまり買わなかったプチトマトの購入回数を増やしてみたりした一ヶ月で、体重は何とかマイナス二キロを維持できるようになっている。

 一食くらい何ともないだろう、囁く声を遮るよう体重計はこちらを見つめている。俺は宅配アプリを一旦閉じ、笹木とのトークルームを開いた。


『腹減って倒れそうなんやけど、食べるもんがない。宅配するか、買い物行くか、究極の二択』


 予想よりも早く既読がつき、短い言葉が返ってくる。


『まずは水飲め』


 そうか、水かとグラスへ並々ミネラルウォーターを注いでいる間にまたスマホが振動した。口をつけながら画面を見ると、一枚の画像が表示されている。

 どこかのホームページのスクリーンショットらしく、まず目を引いたのは「日本肥満学会の基準」なんて物騒極まりない題名で、その下にBMI算出方法と各数値の目安が一覧表になっていた。そして「肥満Ⅰ」へ雑に赤い丸が書き込まれている。

 グラスを空にした瞬間、


『でも体調が一番だから無理すんな。宅配の方が早いならそうした方がいいと思う』


 ムチの後にアメが送られてきた。


『優しいのかそうでないのか微妙な対応するやん!』


 何とも言えない気持ちを込めて、何とも言えない絶妙な表情をした恐竜のスタンプを送ると、大笑いする鳥のスタンプが返ってくる。インコだろうか。微妙に見覚えのない緑色の鳥は腹を抱えて転がっていた。


『なにこれ、インコ?』

『いや、カカポ。意外に大丈夫そうだな』


 あんまりヤバイなら勝手に宅配してやろうかと思ってた、その返信を見たところでTシャツを着替え、下はまぁまだぎりぎりいける気がするのでそのままに鍵と財布を掴む。カカポが何なのかはよくわからないが後で調べればいいだろう。

 胃の収縮は気づけば収まっていた。水が良かったのか、笹木の微妙な激励が効いたのかはわからないが、行くなら今のうちだろう。


『絶対成功させてやるわ、減量。肥満Ⅰから脱出してやる』


 家を出る寸前笹木へ意気込みを送付すれば返ってきたのは、カカポがチアリーダーのように黄色いポンポンを満面の笑みで振るスタンプだった。今に見てろよ、さっさ。その余裕も今だけやからな。

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