つきのはなし
居酒屋を出て、駅までは同じ道を歩く。駅へ向かう雑踏のせいで並ぶには狭い歩道を重なるよう前後で歩くうち、前を行く倉田が突然こちらを振り向いた。
「なに、クラ」
酔った頭でつい省略して呼んでしまったが、倉田は気にせず、あれ、とビルよりも更に上空を指差す。指を追うように視線を上げれば随分と大きな月が丸々と橙色に輝いている。満月を少し過ぎたのか、よく見れば歪な円形だった。
「月が綺麗ですね、って一種のネタじゃん」
「梶井基次郎は知らなくても夏目漱石は知ってるんだな? ネタとか言うなよ。夏目漱石だってこんなに使い回されるとは思ってなかっただろうし」
大体、愛の告白を日本人は直接言わないとかそんな感じで使ったんだろ。話を聞いているのかいないのか、倉田は人の流れを邪魔しないよう端に寄り、一度月を見上げてから改めてこちらを向いた。
「じゃあさ、月が大きいですね、だったらどんな意味だと思う?」
目に刺さるような過剰な照明が四方八方から降り注ぐ夜道だ。まるで暗さなんかない中摂取しすぎたアルコールが顔全体を赤く染めているのが見える。倉田はあまり強くない割に酒席が好きらしく、何かと飲みに行きたがり、よく食べよく笑いよく話す。なに、まだ話し足りねぇの。
仕方ない付き合うかと立て看板の裏へ回り、もう一度月を見上げる。周囲も酔客ばかりで立ち止まるふたりを気にすることもない。月は向かって右側が削り取られたよう、朧に光っている。十六夜月か、立待月だったかは今は関係ないか。
倉田は明らかに期待した面持ちでこちらを見ている。月を見てろよ、鬱陶しい。
「さっさー、まだぁ?」
「うるさい、半端な関西人。オマエはもう回答決まってるんだろうな」
「半端とか言うな、生まれはちゃんと関西だし」
「人生の大半がその他でもう関西弁怪しいわって言ってたの、誰だよ」
やだ、覚えてたんと笑う顔に睨みを利かせて酔った頭を鈍いながらも回転させる。月が綺麗で愛してる。月が大きくて、
「君への愛が大きくて抱えきれません。……で、受け取ってください」
ありきたりの答えしかでねーわ。
倉田は月みたいに大きな目を向け、何か言いたげに薄く口を開いて魚のように開閉している。上手いこと言いたいんだろうが言葉が追いついてないっての。何度か厚い唇が動くのを見届けるとようやく言葉が出てきた。
「思ったよりさっさがロマンチストで、考えてたこと全部消えたわ。うわ、抱えきれないくらいでっかい愛情とかエモいね。エモーショナルやん。月なんかに託してないで、言ってやれやって気もするけど」
「自分から前提ぶち壊すなよ。託すからこそ大きさが伝わるってこともあるんじゃないの。いや、むしろあるだろ」
何とか自分の恥ずかしい発言を肯定しようと言葉を無理矢理繋げれば、悪あがきが伝わったらしく倉田はにやけながらもそうかも、と頷く。色付き眼鏡に店舗の照明が眩く反射した。
「……で、クラなら何て?」
思ったよりも長くなった話に口が寂しくなってくる。さすがに路上で吸うわけにもいかず、何となく軽く乾いた唇を撫でながら月を眺め、倉田の素晴らしい回答を待ったが、返事がない。まさか立ったまま寝てるんじゃ、横目で様子を伺うと何故か同じ様に口元へ手をやりながら眉間に力を込めていた。口が大きな手で覆われ、いまいち何を考えているのかが読み取りづらい。
「クラ? オマエからふった話題だぞ、責任取れって。つか、そんな続けるのに悩むような名回答でもないだろ」
「いやそう言われると辛いとこなんだけどさぁ」
自分よりもほんの少し高い位置にある目と目を合わせると、あからさまに大きく息を吐いて言葉が詰まっていることを強調する。そんなハードル上げてないぞ、喋ろうとした瞬間、笑いながら倉田は両手を軽く挙げた。
「あはは、実はおんなじようなこと考えてたから、言えんくなった」
だからこれは降参のポーズ。ひらひら動く両手に何とも言えない気持ちで軽く拳を打ち込むと意外にしっかりとした音が鳴る。
「オマエ、それでよくこっちの回答をエモいだのなんだの言えたな。自画自賛って言うんだぞそういうの、知ってたか?」
「意地悪言うなって、さっさー。受け取ってください、までは思ってなかったし、さっさが言うからこそエモいってことで」
「相変わらず適当なこと言ってんな。結局、夏目漱石スゲェってことだな」
「なー」
ようやく会話欲が満たされたのか倉田が駅に向けて歩き出す。話の内容なんかどうでもよく、ただ話していたいことは酔うとよくある話だ。広い背中をもう一発軽く叩いてから月を見れば、さっきよりも小さくなったような気がしてそんなところも愛情っぽいな、ぼんやりとそう思った。
翌日顔を合わせた倉田は開口一番、抱えきれない愛情を押しつけるのって良くない気ぃするわと抜かしたので、昨日よりも強めに拳を叩き込んでおいた。そのくらい受け止める器が必要なんだよ、恋愛ってのは。たぶん。
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