冷やし中華のはなし

 ビルの外へ出た瞬間、空気が焦げているような気がした。まだ初夏にもなりたての日だっていうのに照る日差しも体感温度も容赦がない。白らばむ光に目を細めると視界が細かに揺れる。そのまま隣の倉田を見上げれば、元々光に弱い同僚は遮光グラスでも厳しいらしく瞼を落としていた。

「あかん、見えん。慣れるまでちょっと待って。さっさ」

「それは全然いいんだけどさ、ビルの出入口でオマエみたいな大男が突っ立ってると通行の邪魔だろ」

「さっさもそんなに変わんないじゃん……」

 うだうだ言う長身を自動ドアからなるべく遠ざけるように押し、何度か大袈裟に瞬きをしているうち目が六月へ慣れる。昼時のビル街、行き交う人々もクールビズや服装自由化の波でスーツ姿は明らかに減っていたものの、誰もが空腹をもて余しているようだった。こちらの腹もそろそろ何か食わせろと動いている。

 もう大丈夫だろうかと見上げれば、倉田も何度か瞬きをして同じ光景を見ていた。そういえば倉田のスーツ姿は一度も見たことがない、大抵はふざけた柄シャツか一転してシックな開襟シャツのどちらかな気がする。想像もつかないビジネスマン然とした同僚を無理矢理思い描いている間に、倉田はビルの影から歩道へと踏み出していた。振り返った瞬間、緩い髪が光を掴む。

「さっさーおまたせ。行こうか」

「ん。ラーメン屋空いてっかね」

 並べば濃い影が溶けるようにして重なった。

「いっつもそこそこだから大丈夫じゃね。あの店うまいのに、そんなに客入んないの不思議だよなぁ」

「変にバズるよりありがたいけどな。今後が心配でもあるわ」

 以前倉田と通っていた定食屋はグルメ系ユーチューバーに取り上げられた途端、昼夜問わず人が押し寄せる名店と化してしまった。確かに旨かったが、限られたランチタイムに並ぶ余裕は残念ながらない。脂乗りのほどよい鯖と自家製味噌のバランスが絶妙だった鯖味噌定食は今やふたりの間で懐かしの味になってしまった。自分じゃ作らない料理の筆頭なのにな、すれ違った誰かから香ったにんにくに思わず顔を向ける。大丈夫かね。

「そういえばさぁ」

 横断歩道が赤に変わり、倉田が立ち止まってこちらを見る。陽の加減か、遮光グラスがべっこう飴のように艶っぽく光り、倉田の目もとろりとした光を放っているようだった。声を出さなくとも目を合わせると続きを話し出すようになったのは最近のことだ。

「冷やし中華始めました、ってラーメン屋でこの時期ポスターとか旗とか立つやん。商用フリー素材まんまみたいなのとか、手書きのとか」

「そういやそんな時期か。フリー素材ってあれだろ、スタンプとかにもなったやつ。ない素材とかあんのかね」

「なさそうよな。意地でもそんなの許さないって気概を感じるもん。じゃなくて冷やし中華。あれって始まりは告知するけどさ、終わりって見たことねぇよなと思って。さっさはある? 冷やし中華終わりました」

 信号が青になり歩き出す。白線が浮かび上がるように鮮烈で、また視界が勝手に細くなる。今日は夜も暑さがひかなそうだな、羽織ってきてしまった上着も気にかけつつ冷やし中華へ思いを馳せてみても、終わりましたは見当たらなかった。

「言われてみたらないかも、終わりました。メニュー表で小さく販売中止ってシール貼られるくらいか?」

「始まりは無駄に大々的なのになー不憫なやつめ。……って言いながら、終わりましたってわざわざ言う方が珍しいんかな」

「そんなことはないと思うけど。終売メニューとか公表してる気がするけど、そういうのじゃない感じ?」

「うーん……当たらずとも遠からずな感覚かな。始まったなら、きちんと終わらせてやりたいなって、冷やし中華にどんだけ思い入れある人なのかね俺」

「それは知らん。オマエの最後の晩餐希望だとしても、こっちには関係ないし」

 さっさ、冷たいなんて言葉とは反対に楽しげな大口とつかず離れずを保って、角を曲がる。一気に細くなる道幅の割に人が多いのはランチメニューを提供する店が多いからだろう。この一角だけでも正面のタイ料理に始まり、ラーメンや寿司、居酒屋や映えるらしいカフェに小洒落たイタリアンと枚挙に暇がない。

 カフェは以前倉田がひとりで突撃したらしく、パステルカラーの丸がこれでもかと散りばめられたパフェとの自撮りを投稿していた。後日丸が何なのかを聞けばよくわからんと一刀両断にされ、材料すら理解してもらえなかったパフェの無念を噛みしめた。わざわざ晴らしてやる気はないが。

「自分でも冷やし中華作るの」

 あんま、クラには自炊のイメージないけど。珍しく並んでいるラーメン屋の前で、これならいけると判断して最後尾へつく。三人目と四人目だったが並んですぐにひとりが店内へと消えていった。

「冷やし中華は作るよ。今は袋麺でもあるし簡単やん」

「乾麺タイプもバカにできないよなー。絶対生麺とか思ってた時代が懐かしいわ。こだわりの具材とかあんの、結構シンプルなのが多いと思うけど」

 以前特に買い物もせずに作った冷やし中華はきゅうりのみだったことを思い出す。カーキに幾何学模様がうるさいシャツの模様を読み解きながら尋ねると、倉田は待ってましたとばかりに勢い身を乗り出した。緩く波打つ髪から、整髪料と夏の匂いがする。

「俺、絶対入れる具材があんのよ。きゅうりを諦めても絶対入れるやつ。くらげ」

「……くらげ?」

 聞き返した瞬間にまたひとりが退店し、ひとりが入っていく。

「おん。くらげ。めっちゃこりこりしてていいやん?」

「誇らしげな顔なとこ、悪いんだけど。くらげって食えんの? ゼリーみたいで味するとは思えねーんだけど……キクラゲじゃなくて?」

「さっさ、嘘やろ」

 スターウォーズに続き、またしてもかと天を仰ぐ同僚へ申し訳なさを感じないわけではないが、食べたことのないものは仕方ない。ひっそりスマホで検索すると薄い茶色の乾物が表示される。へぇ、干してるのを塩抜きして食うのか。

「悪い悪い、渾身の具材スルーして。今度入れてみるから」

「ぜってぇうまいから!」

 絵文字みたいな眉毛の下がった顔に向け右手を立てたところで、順番が回ってきた。意気揚々と注文したところで、冷やし中華は来週からなんです、すまなそうな従業員へうまく笑えた自信は全然なかった。倉田も多分同じ顔をしていたと思う。くらげの有無は聞けなかった。

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