呼び名と諱

記憶が戻れば、当たり前の如く元の巣に戻るだろう。それが普通の事。


あの医者だと名乗る男は、千夜の正体を知っているのかも知れない。追いかけて聞き出すべきだと思った。だが、土方の足は縫い付けられたかの様に動かなかった。


千夜が正体など知りたくはない。手放したくもない。


————記憶など戻らなければ良い。


行商に連れ出すのは、家族を探す為。

確かに、その為だった。


だが、彼女と過ごしてきた土方は、もう千夜が居ない生活など考える事など出来なかった。




————真夜中。

シィンっと静まり返った部屋の中、敷かれた二組の布団。もぞもぞと、動く布団が一組だけ。千夜は、目を覚まし、隣の空のままの布団を見つめた。


同じ家の中にノブ姉もいるし、他の家族もいる。————でも、寂しかった。


千夜1人では、広過ぎる部屋。

真っ暗な中、1人でいることが、恐怖だった。

刀を振り回した男達に襲われた光景が、頭から離れない。


そして、自分を庇ってくれた、おじさん……。


その存在を思い出したのは、最近だ。しかし、その顔すら、あまりよく覚えていない。ただ、「逃げろっ!」と、言ってくれたおじさんの背中しか見えなかったから。


自分の事も、何もわからないまま…。


そっと、窓を開ければ綺麗な星空が見えた。


「……強くなりたいなぁ。」


こんな

寂しさを吹き飛ばせるくらいに————。


翌朝、土方は帰ってきた。

居酒屋の後、試衛館に寄った土方は、近藤と朝まで飲み明かした。


「結局、朝帰りって信じられへん。」


物陰から山崎が、ずっと土方を見ていた事なんて誰も気づかなかった。


「……おかえり。歳にぃ。」

「おう。ただいま。いい子にしてたか?」

「うん。」


そう言って笑った千夜に安堵する。


「そうか。ちぃ、今日は一緒に出掛けるぞ。」


ぱぁっと表情が変わる千夜。たった一言で、舞い上がる様な満面の笑みを見せた千夜。


「本当っ?」

「ああ。」


土方もつられて笑顔になった。クシャッと千夜の頭を撫でた。そして昼過ぎ。土方と千夜は、町へと向かった。


目的は、千夜の袴を買う事だ。


呉服屋で、真新しい袴を履いてクルッと回って見せる千夜は笑顔。それとは、対照的に土方は顔を歪める。


「……歳にぃ?」

「……」

「歳にぃってばっ!」

「……あー。」


どうやら、二日酔いで頭が痛いらしい。顔を歪め千夜を見る土方の顔色は、あまり良くなかった。


「もう、よっちゃん!」

「は?」


よっちゃん?


「歳にぃの本当の名前は、義豊なんでしょ?」

「……なんで、ちぃが諱を知ってんだよ。」

「昨日、ノブ姉が話してたんだよ。歳三の諱ってなんだっけ?って」


あーそうか。


諱は、使わないから忘れてしまう事も多い。だから、ノブ姉が思い出したのをたまたま、ちぃが聞いて覚えっちまったのか……


「……よっちゃん。か…」

「え?嫌だった?」


少し不安そうな顔で土方を覗き込む千夜


「嫌じゃねぇよ。袴も、ちょうどいいみたいだな。」


やっと見てくれた袴姿


「よし。買ってやる。」

「やった!よっちゃん、ありがとう。」



喜んで土方に飛びつく千夜。まだ、小さな身体を腕の中に閉じ込めた。

その後、店から出たのだが、家の方向じゃない方に歩き出す土方。


「あれ?よっちゃん、どこか行くの? 」

「ん?ああ。いつもいってる場所にな…」


いつも行く時は、土方1人でいく、試衛館の事を言ってるんだろうと千夜は思った。だが、今、土方と一緒に居るのに、このまま向かうなら、


「連れてってくれるの?」


そう聞いた。



「ああ。」その返事が嬉しかった。

「じゃあ、お団子買ってこ?」

「食いてえのか?」

「違うよ!ノブ姉が他所の家に行く時は、手土産を持ってくもんだって、言ってたもん!」


他所の家。


手土産なんか、一度も持っていった事がない土方

————まぁ、団子ぐらいいいか。


と土方は、団子を買った。



るんるんと、鼻歌を歌いながら歩く千夜


「あ、そうだ。」


と、土方が思い出した様に立ち止まる。それを見て足を止め首をかしげる千夜。


「ちぃ、剣術をする女は滅多に居ない。だから、袴を履いたんだ。わかるか?」

「??剣術は、男の人しかしないの?」

「そうだ。」

「変なの。強くなりたいって思うの男の人だけじゃないのに……」


自分の姿を見て、何かに気づいた様に土方を見る


「私、男の子のフリをするの?」

「ああ。別に女だと、バレても構わねぇがな

その方が、手加減されねぇだろ?」


手加減?


「……剣術習うの?」

「強く、なりてぇんだろ?」


少し驚いた顔をした後、千夜は、嬉しそうに笑った。剣術を習える喜びと、それを土方が覚えていてくれたという、2つの喜びがあったからだ。


「ありがとう。よっちゃん。」



そして、2人は、試衛館へと到着した。


「————よっちゃん、ここ?」

「あぁ。ここが試衛館だ。」


2人の前には、試衛館と看板がある門があった。


————此処が、毎日土方が通っている場所


「ちぃ、行くぞ。」

「はぁい。」


門を潜れば、道場と家がすぐ見えた。土方の手を握り、先に進む千夜は、少し緊張した面持ちだ。なにせ、道場なんて来た事はない。物珍しく、右に左に視線がいく彼女を見て土方は、鼻で笑った。


ふっ!


「ちぃ、前向いて歩かねぇと転ぶぞ?」

「う、ん。わかってるよ、よっちゃん。」



そう言いながらも、千夜は、終始キョロキョロとしたままだった。

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