硫黄の町

飛鳥休暇

 ぞばば、ぞばばとインスタントのそばをすする。

 ふと、そばというのはこの音が語源なんだろうかと思ったが、そんな考えは一秒後には消えていた。

 壁がベニヤ板ほどしかないこのボロアパートではおれのこのそばを啜る音が全部屋に届いていることだろう。


 でもそんなことは関係ない。

 ここの住人たちはみなそんなことを気にするような繊細な心の持ち主ではないからだ。


 右の部屋の老人は夜な夜な酒に酔っては「死んでやる」と「殺してやる」を連呼しているし、左の部屋の老人はそんな叫び声を合いの手に陽気に鼻歌を歌っている。

 そんなやつらが住むアパートにおいて、そばを啜る音くらいなんだというのだ。


 おれは中身を平らげると、少しだけつゆの残ったカップ容器を持って部屋を出た。

 鍵もかけないまま、目の前にある共同炊事場の流し台に残ったつゆを捨て、空の容器はそのまま手に持ちアパートを出ていく。


 風呂、トイレ、キッチンが共同の築何十年ものこのアパートは、家賃二万五千円と破格の値段ではあるが、それでも環境を考えると割高に感じてしまう。


 アパートを出た瞬間、強烈な硫黄の臭いが漂ってくる。

 いや、ほんとは部屋の中でも多少臭ってくるこの香りは、それでも旅行客にとっては非日常を味わえるいい刺激になっているのだろう。


 そこかしこから煙が出ている。

 火事ではなく、温泉の煙だ。


 川沿いの道を少し下ると、近場では唯一のコンビニが見えてくる。

 おれは手に持っていた空のカップ容器をそこのゴミ箱へと捨てた。

 これがいつしか日課になっていた。

 ゴミを溜められるほどの広さはあの部屋にはない。

 だからおれはこうして毎日カップ麺の容器を持ち歩き、通勤途中にここで捨てるのだ。


 そのままズボンのポケットに両手を突っ込んで歩き出すと、正面から若い女が歩いてくるのが見えた。

 ここ一帯は古くからの温泉街で、そして温泉街には風俗がつきものだ。

 長い茶髪を巻いた腰の細いその女は、よく見かける風俗嬢だ。

 名前はたしかアミとか言ったか。

 すれ違いざまに強い香水の匂いを感じた。

 キャラメルよりも甘いそれは、硫黄の臭いに負けないために付けた彼女なりの盾のようにも思えた。


 ――いや、何が盾のようにも思えた、だ。


 自分の脳内に浮かび上がった詩的な表現に思わずツッコミを入れる。

 それはあまりにもダサくて、分不相応だと思ったからだ。


 しばらく川沿いの道を歩くと、橋が見えてくる。

 車二台分の車道と歩道が少しある程度の小さな橋だ。

 そこを左に進んですぐに、おれの職場がある。

 開きっぱなしになった引き戸を入ると、すぐさま正面から声が聞こえてきた。


「おう、マサ坊。待っとったよ」


 六十代半ばの坊主頭のとっつあんがレジカウンターの中から手を挙げている。

 おれが応えるように軽く会釈をすると、とっつあんはゆっくりとした動きでその場所をおれに譲ってくる。


「ほな、今日も病院行ってくるから、あと頼むな」


 そう言うととっつあんはぴょこぴょこと壊れたおもちゃのような動きで店を後にした。

 とっつあんは足が悪く、週に何度も病院に行ってリハビリを受けている。

 おれはレジカウンターに座ると、スマホを取り出しゲームを始める。

 どうせ数えるほどしか客はこない。


 寂れた雑貨屋のこの店は、地元の工芸品や良く分からないTシャツ、あとはお菓子や日用品を販売している。

 地元の人間はたいてい少し先のコンビニで買い物をするのだが、物好きな旅行客が風情を求めてふらりと入ってきたりするのだ。

 そのおかげで、こんな小さな雑貨屋もなんとか続けていくことができている。


 仄暗い店の中で、スマホの明かりだけがおれを照らしている。

 ミツコは今頃店の奥のリビングでぼーっとテレビでも観ているのだろう。

 ゲームにも飽きて、まとめサイトを眺めていると人が入ってくる気配がした。

 大学生くらいの若い男女だ。

 二人は手を繋ぎながら店内をゆっくりと回り、工芸品の人形の顔が可愛いだとか買う気もないのにTシャツを広げてみたりしながら笑い合っていた。

 おれは付き合う気にもなれず、再びスマホに目を落とした。


「あ、あったよ」


 内緒話をするような大きさで女のほうが男に話しかける。


「やったね。コンビニだと恥ずかしかったから」


 男も声を落としてそんなことを言った。

 その後しばらく店内を回り、いくつかのお菓子とジュースを手に持った二人がレジの前まで歩いてきた。


「お願いします」


 男が手に持った商品をレジ横の台に乗せた。

 おれは言葉も返さずに淡々と値段をレジに打ち込む。

 二人のお目当てだっただろうものはお菓子の下から姿を表した。


 コンドームだ。


 おれがそれを手に取った瞬間だけ、わざとらしく「晴れて良かったねー」などと女が外に視線を移して呟いた。


「二千三百円です」


 おれの言葉に、男は笑顔でちょうどの金額を出してきた。


「あのー、袋ってもらえます?」


 お金を受け取ったおれに男が申し訳なさそうに言ってくる。


「あぁ」


 おれは台の下の引き出しを開け、中くらいのレジ袋を手渡した。


「ありがとうございます」


 男はそう言ってお菓子やジュースやコンドームを手早く袋に詰めていく。


「ねぇ、早く行こ?」


 女が男の腕に手を回して甘えるように言った。

 男も女に笑顔を向けて仲良く出口に向かっていく。


「――気の利かない店員さんだったね」


 去り際に聞こえるか聞こえないかの大きさで女が言っていた声は、確かにおれの元に届いていた。

 おれは軽く舌打ちをしてから、再びスマホをいじりだした。

 辺りが暗くなった頃、おとっつあんが帰ってきた。


「マサ坊、お疲れさん。アジもらってきたから今日はこれ食べよう」


 そう言ってビニール袋に入った魚を見せるように目線の高さまで上げてきた。

 ビニールにはところどころ魚の血が浮いている。

 おれは黙って頷き入り口の引き戸を締めて鍵をかけた。


「そんじゃあ米炊いとくからよ。お前は、ミツコと、ほら」


 おとっつあんはそれだけ言い残すと、悪い足を引きずりながら店の奥に消えていった。

 おれは店の電気を落としてから、同じく奥の部屋へと向かう。

 店の奥はおとっつあんとミツコの居住スペースになっていて、一階にはリビングと台所とトイレと風呂。

 二階が寝室になっている。

 リビングに向かうと、案の定ミツコがそこでテレビを観ていた。


「ミツコ」


 おれが声をかけると、ミツコはテレビから視線を外しこちらを向いてはにかむような笑顔を見せてきた。


 おれは五つ年下のこの女の笑顔を可愛いと思ったことがない。

 目だけはくりくりと大きいが、その他の部分も大きい。

 まん丸な顔とまん丸な身体。一日中このリビングで座っているせいか、締まった部分がひとつもない。

 そんな女と一緒にゆっくりと二階へ上がる。

 ふすまを開けるとそこに布団が二つ並んでいる。

 おれが服を脱ぎ出すと、ミツコも合わせるようにして服を脱ぎだした。

 生まれたまんまの姿になったおれたちは、布団に寝っ転がると行為を始める。

 愛想もなにもない、儀式のようなまぐわいだ。

 それでも一人でするよりはいくらかマシだとおれは思っていた。

 頭に浮かんでいたのは今日来たカップルのことだった。


「くそっ! くそっ!」


 そんな言葉を吐きながらミツコを抱く。

 ミツコは小さなうめき声のみを規則正しく吐き出していた。

 三十分も経たないうちに行為は終わった。

 いつもこんなものだ。

 荒い息を整えながらミツコを見ると、布団を顔の半分までかぶって天井を見つめていた。


「なぁ、ミツコ」


 おれが声をかけると、ミツコがくりくりの目をこちらに向けてきた。


「お前はこの町を出たいとか思わないのか?」


 おれの問いかけの意味が分からないのか、ミツコは黙ってこちらを見つめている。


「どっか、行きたいとことか」


「……行きたいところ」


 ミツコが再び天井を見上げてしばし考え込む。

 気まぐれに質問したおれが馬鹿だったと思った。


「……サンリオ」


 ふと、ミツコが呟いた。


「なに?」

「サンリオピューロランド」

「なんだそれ? ディズニーランド?」

「サンリオ、あの、キティちゃんとかがいるの」

「ふーん」


 そういえばこいつの部屋にはキティちゃんのぬいぐるみとかがいくつかあったような気がする。

 まぁ、聞いたところで一生行くことはないだろうけど。

 服を着てから一階に降りると、味噌の香りが漂ってきた。


「……おう、マサ坊。もうすぐできるから、先に風呂入ってこい」


 おとっつあんが台所から声をかけてくる。


「うん」


 おれは台所を抜けて風呂場へと向かった。


 ******


 去年、両親が死んだ。

 いっぺんに、と言ってもいいようなタイミングだった。


 高校の時から引きこもりだったおれは、三十を超えているにも関わらず何をすればいいのか一つも分からなくて、色んな大人の話をぼーっと聞いているうちに家を出ることになった。


 おれに残されたお金は三十万ほどだった。


 世界から隔離されていたおれには、自分の家がそれほどまでに貧しいことも知らなかった。

 引きこもりだった男が突然外に投げ出されて、なにをすれば良いのかも分からなかった。

 そこで何を思ったのか、おれは温泉に行くことに決めた。

 手元の金が無くなったら死ぬつもりだった。


 そうして辿り着いたのがこの町だった。


 それなりの宿に泊まり、人生最後の温泉旅行を楽しんでいるときに、たまたまこの店の張り紙を見つけた。

『従業員募集』

 古ぼけた店のその張り紙を見て、どうせダメ元だと入ってみた。


「いらっしゃい」


 声をかけてきた店主らしき男は坊主頭の中年で、おれが恐る恐る張り紙を見たと告げると、おれの身体をさっと見てから「おう、明日から来れるか?」と聞いてきた。


「はい。あ、でも履歴書とか」


「履歴書ぉ? そんなもんいらねぇよ。とにかく、明日一時くらいにまた来てくれよ」


 これで、採用だった。


 店主のことをおとっつあんと呼ぶのにそう時間はかからなかった。

 本人がそう呼べと言ってきたからだ。

 代わりにおれは「マサ坊」と呼ばれた。

 距離の詰め方が早い人だった。


 おとっつあんはおれの住む場所も手配してくれた。家賃二万五千円のあのアパートだ。

 しかし、給料はかなり安かった。

 具体的に言うと月七万。

 家賃を払って、スマホ代を払ったら、あとはほとんどギリギリの金額だった。


 しばらくは、職歴もない得体の知れないおれを雇ってくれた恩義もあって黙って働いていたが、さすがに他の仕事をしたほうがいいかも知れないと思い、それとなくおとっつあんに切り出した。

 するとおとっつあんはとんでもないことを言い出した。


「ミツコを好きに使ってくれていいから残ってくれ」と。


 初めは理解ができなかった。

 それまでも、ミツコとはたまに顔を合わせる程度で、挨拶以外の会話を交わしたこともなかった。変な女だな、とは思っていた。

 それでもその時のおとっつあんは、どこか有無を言わさぬような迫力があって。

 おれはその勢いに圧されるように首を縦に振っていた。

 そうしておれはミツコと関係を持つようになった。


 おれにとっての、初めての女だった。


 今にして思うと、いや、初めからうっすらと感じていたことだが、ミツコは頭が悪い。

 それは世間になじめるとかなじめないとかのレベルではないように思える。

 そしておとっつあんもどこかズレている。

 自分の娘を、従業員を辞めさせないためにあてがったのだから。

 いや、もしかしたらあてがわれたのはおれのほうかもしれないが、ともかく、ズレた三人の奇妙な生活がここから始まったのだ。


 おとっつあんは朝から昼まで店にいて、おれが出勤すると病院や、友人のところへ出かけていく。

 おれは昼から夕方まで店に立ち、おとっつあんが帰ってくると給料代わりにミツコを抱く。ミツコは不満を漏らすことなく、ただただそれを受け入れていた。


 そんな生活を続けるうちに、いつの間にかこの町にきて一年が経っていたのだ。

 どうにかしたいという思いと、どうにもならないという思いと、そもそもどうしたいのか分からないという思いがミツコに対しての「この町を出たいとか思わないのか」という質問に繋がった。

 ミツコから返事がくることはそもそも期待していなかったが。


 いつだったか、おとっつあんに聞いてみたことがある。

 どうして自分を雇ったのか。どうして辞めさせたくなかったのか。

 するとおとっつあんはこんなことを言ってきた。


「この町は古い温泉街だから、出て行く人間ばっかりなんだよ。いっときの勢いはないし、来てもすぐ去って行く旅行客ばっかりだ。そんな町によ、マサ坊はなんの縁だか残ってくれようとしただろ。あんな張り紙ひとつでよ。おれはそれが嬉しかったんだよ」


 おとっつあんの話の半分も理解できなかったけど、はにかんだ顔でそう言われて、正直悪い気はしなかった。

 余談だけど、おとっつあんのはにかんだ顔はミツコそっくりだと思った。


******


 夕食をごちそうになってから、おれは店の裏口から出て行く。

 そして途中コンビニに寄り、明日食べる分のカップ麺を買って帰るのだ。

 引きこもりをしていた時も食事はほぼカップ麺だったから、食生活に関してはむしろ今のほうが良いくらいだ。


 そうしてカップ麺片手に暗い川沿いの道を歩いていたときだ。

 少し先の道の端にカバンのようなものが落ちているのが見えた。

 近づいていくとやはりそれは革製の旅行カバンで、おれは辺りに人気が無いことを確認してからカバンのチャックを開いた。


 そしてすぐさま閉じた。


「……え?」


 思わず漏れた声を抑え、もう一度辺りをきょろきょろと確認した。

 やはり、誰かがいる気配はない。

 おれは意を決してそのカバンを持ち上げると、アパートに向かって一目散に駆けだした。


 カバンはずっしりと重く、途中で何度も持ち上げ直した。

 息を切らしたまま自分の部屋へと飛び込む。

 勢いよく閉めた扉の音がアパート中に響き渡り、それを合図に右の部屋から「殺してやる!」と叫び声が上がり、左の部屋からは鼻歌が聞こえだした。

 おれはカバンを布団の上に投げると、普段は閉めない鍵を閉めた。


 盗られるようなものはない部屋に、――盗られては困るものが出来たからだ。


 呼吸も鼓動も荒ぶっている。

 震える指でもう一度、カバンのチャックを開いた。

 薄暗い明かりのなか顔を出したのはパンパンに詰まった札束だった。

 ゆっくりとカバンに手を入れ、その一つを取り出した。

 輪ゴムで乱雑に留められたそれは、どうみても本物の、一万円札の束だった。

 気を失いそうになるほどの興奮を抑えるため、おれは何度も何度も深呼吸をした。

 ようやく少しの落ち着きを取り戻したおれは、カバンの中から次々と札束を取り出していく。


 二千四百五十万円。


 それがそのカバンに入っていた金額だった。

 札を数え終わると、不思議と興奮は収まっていた。

 そのかわりに、ふわふわとした浮遊感が全身を覆っている。

 目の前の光景が現実のものとは思えなかった。


 六畳一間のオンボロアパートの一室に、大量の紙幣が並んでいる。

 ぼーっとそれを眺めていると、次に襲ってきたのは恐怖だった。


 とんでもないことをしてしまった。


 あの辺りに防犯カメラのたぐいはないはずだが、それは普段気に掛けていないだけで、温泉宿の入り口などに設置されているのかもしれない。

 こんなに大量の金だ。ろくでもないものに決まっている。

 この町は風俗も盛んで、風俗があるということは暴力団も絡んでいるということだ。


 背中に寒さを感じたおれは何かに怯えるように部屋の入り口を振り返る。

 いまにも恐ろしいなにかが、部屋の扉をぶち破って襲ってくるかもしれない。


 後悔してももはや後の祭りだ。

 おれはカバンを持ち去り、中に入っていた札束を部屋に並べているのだから。

 とにかく、おれは札束をカバンに戻す。

 タバコを吸う人間なら、こんなときに一服でもして気を紛らわせるのだろうが、あいにくおれはタバコは吸わない。

 酒も飲んだことがない。

 部屋にあるのはせんべい布団とカップ麺だけだ。


 しばらくそのまま途方に暮れていたのだが、脳が考えることを拒絶したのか、いつの間にか気絶するように眠ってしまっていた。


 翌日、隣の爺の鼻歌で目を覚ましたおれは、虚ろな目でカバンの姿を捉えた。

 どうやら夢ではなかったようだ。

 スマホを見ると間もなく正午になるような時間だった。

 そうして一晩無事に過ごしたという実感が、おれにこの金をネコババすることを決心させた。


 どうせおれには一生かかっても手に入らない金だ。

 万が一暴力団に見つかって、山に埋められるのだとしても、その前にこの金で好きなように生きてやろうと考えた。


 おれはカバンを開き札束から五万円だけ抜き取ると、カバンを布団の下に隠して部屋を後にした。

 もちろん、鍵はしっかりとかけておいてだ。

 向かったのはここらで一番の風俗店。

 入り口で一呼吸置いてから、意を決して中に入った。


「いらっしゃ……あれ? マサ坊?」


 受付にいたオールバックの若い男がおれを見るなり声をかけてきた。

 たまにうちの店に顔を出すこの男は、若いなりにもここの店長を任されている人物だった。


「今日はどうしたんだい? 出前でもあるまいし」

「……客としてきた」


 まさかそんなことを言われるとは思ってもみなかったのか、オールバックの店長が目を丸くした。


「まさか。臨時ボーナスでも貰ったのか? いや、あの店に限ってそんなことはないか」


 そう言って喉だけを動かして器用に笑う。


「まぁいいや。たまにはマサ坊も羽を伸ばさないとな。そこにパネルがあるだろう? いま出勤してる女の子だよ。どの子にする?」


 店長が指さすほうを見ると、確かに下着姿の女の子の写真が並べられていて、みな笑顔でこちらを向いていた。


「……アミで」


 アミ。あのキャラメルのような匂いのする、腰の細い女だ。


「OK、時間はどうする?」

「時間?」

「ほら、ここに書いてあるだろ?」


店長の後ろの張り紙に三十分刻みの時間と料金が書いてある。


「えと、……じゃあ、六十分で」


 正直、各時間でなにが違うのか、なにができるのかも分からなかった。


「うん。それじゃあ二万六千円。先払いで頼むな」


 店長が手を出してきたので、おれは財布から三万円を抜き取り手渡した。

 もちろん、さっきカバンからくすねた金だ。


「はい、おつり。それじゃあアミちゃん呼んでくるからそっちの待ち室で待ってて」


 案内されたとおり、いくつかのソファーが並べられた別室で待機する。

 不思議なことに、高揚感はまるでなかった。

 心は凪いだ海のように静寂を保っている。


 ほどなく、甘い香りと共にアミが目の前にやってきた。


「よろしくお願いします」


 にこりと笑ったアミは躊躇無くおれの手を取り、そのまま部屋へと歩きだした。

 手を握ったまま腕を組むかたちでおれに密着してくる。

 強烈な甘い匂いと、腕に当たる胸の感触に脳が溶けそうになる。


 部屋に入ったアミは、すぐさま服を脱ぎだした。

 おれはどうしていいのかも分からず棒立ちになっている。


「ほら、お兄さんも脱いで」

「あ、ああ」


 アミに促されて、ようやくおれも服を脱ぎ出す。


 アミの前で裸になるのは、どこか思春期の女の子のような恥ずかしさがあった。

 たるんだ身体とまばらに生えた胸毛。情けない自分の身体を見せるのが嫌だった。

 そんなおれの気持ちを知ってか知らずか、アミはあまりこちらを見ずに手を引いて風呂場まで案内してくれる。


 おれをプラスチック製のイスに座らせてから、アミはボディソープを泡立て始めた。

 その後、されるがままに身体を洗われる。

 端から見れば動物園の象と飼育員さんのようにも見えるだろう。

 バスタオルで身体を拭かれている間は、幼児に戻ったような気分だった。はい、手をあげて。今度はこっち。指示されるがまま身体を動かす。


 そうしてボディソープの匂いをまとったおれはベッドに寝かされる。

 アミはそんなおれの足の間に入ってきて、一瞬笑みを浮かべたあと、おれの股間に顔を埋めた。


 ぴちゃぴちゃと水道から漏れる水のような音が部屋に響く。

 おれは大の字になったまま天井を見つめていた。

 確かに、初めて味わうような快感ではあった。――だが。


「……お兄さん、ちょっと疲れてるのかな」


 股間から顔を上げ、困惑したような笑顔を見せたアミに対して「ごめん、もういいよ」と言った。


 ******


「またお金貯まったらおいでよ」


 店長の声を背中に受けながら、とぼとぼと帰路につく。

 胸いっぱいに広がるのは虚無感だった。


 硫黄の臭いが漂う中、旅行客の楽しげな声が遠くに聞こえている。


 夢見ていたような綺麗で若い女を抱くということすら、おれにはできなかった。

 アパートに戻ると布団をめくりカバンの有無を確認した。

 窓から差し込む光に照らされたくたびれた革製のそれは、どこか不満げな表情にも見えた。


「せっかく抜き取った金を無駄にしやがって」


 そう言っているようにも思えた。

 おれはカバンを無造作に壁際に動かすと、そのまま布団に寝転がり丸まった。

 と、その直後、部屋の扉を叩く音が聞こえたので飛び起きた。


 まさか、このカバンの持ち主がおれに辿り着いたのか?


 扉から再びノックの音がする。

 しかし荒々しい音ではない。

 おれは恐る恐る扉に近づく。


 このアパートの扉には覗き穴などという便利なものはついていない。

 仕方が無い。万が一部屋の前に恐い人たちが並んでいたとしても、自分が招いた結果だ。誠心誠意心を込めて土下座でもすれば、許してもらえるかもしれない。

 おれは一つ深呼吸をしてから、意を決して扉を開いた。

 そこにいたのは――ミツコだった。


「あ、ミツコ」


 ミツコはどこかほっとしたような表情でおれを見つめてくる。


「マサ坊が来なかったから、おとっつあんが様子を見に行ってくれって」

「あぁ、そうか」


 おれは極度の緊張が解かれた安心感で腰が抜けそうになる。


「大丈夫?」


 ミツコが心配そうな顔で声をかけてくる。

 おれは何を思ったかそのままミツコを部屋に引き入れ、そして布団の上に投げ飛ばした。


「……マサ坊?」


 困惑するミツコを無視するように、おれはミツコの服をまくり上げ、その乳房に吸い付く。

 ミツコの身体は、ほんのりと硫黄の臭いがした。


 勢いよくズボンを下ろすと、アミの前では役立たずだったそれがすでに臨戦態勢になっていた。

 おれはミツコの服も乱暴に脱がせると、そのまま一気に挿入する。


 ギシギシとアパート全体が揺れている。


 右の部屋からは「殺してやる!」という叫び声が上がり、左の部屋からは鼻歌が聞こえてきた。

 ギシギシというリズムに合わせて「殺してやる」と言う声と、陽気な鼻歌のコラボレーション。


 ――地獄のオーケストラだ。


 行為が終わると、ミツコは呆けた顔で天井を見つめていた。


「なぁ、ミツコ」


 おれが呼びかけると、顔だけをこちらに向けてくる。


「今度、おとっつあんと三人で、行くか。……サンリオなんとかってところ」


 おれがそう言うと、ミツコは嬉しそうに「うひひ」と声を漏らした。


 おれはこの女の顔を可愛いとは思わない。思ったことがない。


 でもいまさら、手放す気にもならない。

 もし、この先おとっつあんが死んでしまっても、二千万円あればミツコと二人、変わらず生活していくことはできるだろう。


 なぁ、ミツコ。


 おれたちはこの町で生きて、死んでいくんだろうな。

 腐った卵のような、体調が悪いときの屁のような。

 硫黄の臭いが充満する、このくたびれた場所でこの先ずっと。


 心の中でそう呟きながらミツコを見ると、ミツコはくりくりとした目でまっすぐとおれを見つめていた。




【硫黄の町――完】

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硫黄の町 飛鳥休暇 @asuka-kyuka

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