第7話 少年、運命に出逢う

幼少期の綾垣 侑李は、嫌な子供だった。


父は数々の映画を大ヒットに導き、映画界では知らない者は居ないと言われた映画監督。母は日本にとどまらず海外にすらその名を轟かす超有名女優。綾垣 侑李は、そんな二人の天才の元に産まれた子供だった。


両親は100人いれば100人が羨ましがる親だった。夫婦仲も他所様が見たら恥ずかしくなるほど良かった。忙しい仕事の合間を縫って侑李に会いに来ては少しの時間を惜しむように、けれども温かく幸せに過ごし、仕事の時間が迫ると関係者たちに急かされて泣きながら出ていく。よく両親が彼を抱き締めては「仕事に行きたくない」と喚いていたことは関係者の記憶に新しい。


父母は侑李を溺愛していた。親どころか祖父母や親族たちも、彼が何をしていても「侑李が一番だ」と、際限のない愛をもって褒めたたえた。


侑李は、そんな幸せな家庭で沢山の人達に囲まれながら育った。異常な程に愛を注がれて成長した彼は、言葉を話し始めてすぐに多数の分野でその頭角を現した。


勉強も、運動も、その他の何もかも。侑李にとって全てが退屈だった。才能があったのだ。奇跡のような血筋をその身で体現するがごとく、誰かに出来ることであれば、彼に出来ないことは何も無かった。他の子供が10を理解する間に彼は既に1000をも先を行っている。


彼が両親の跡を継ぐように俳優の道を目指し始めたのは最早必然であった。


結果、綾垣 侑李という子役を誰もが賞賛した。超売れっ子映画監督と国の至宝とも呼ばれた大女優の息子という最高のネームバリューを背負ってなお、その期待を裏切ることなく、彼は華々しい演技力で世界へと己の才能を誇示したのだ。


そんな彼に傲慢になるなと言うのは、些か酷な話だろう。そう同情されても仕方がないほど、侑李の世界はいつだって退屈で、色がなかった。


ある日のことだ。侑李は同年代の子役たちととあるドラマに出演することになった。そうは言えども同年代の子供たちの演技など彼にとってはお遊戯会のようなもの。彼らは急に台詞が飛んだり動きがぎこちなかったり、何故そこで間違えるのかというところで間違えたりとひどい有様で、侑李は頭が痛くなる思いがした。


そんな折に、ふと目に付いたのだ。撮影も終盤の中、カメラを向けられ、緊張した面持ちで覚えてきたであろう台詞を吐き出す子供の横に立っていた、少年に。他の者が半ばパニックになりながらも必死に食らいつく中、その少年だけが演技をしていなかった。否、正確にはそうではない。


ずっと気が付かなかったが、彼の演技だけが、演技ではなかったのだ。そこに立っているだけだ。それだけなのに、彼は既に『元の彼』ではなかった。指先の身動ぎ、息遣い、瞳の眇め具合、足音の一つすらも、完全にその役の人間もので、他の連中とは次元が違った。


シナリオは粛々と進んでいく。遂に、次は彼の最後の台詞になった。台本通りに侑李の手を振り払った少年は、演技臭くなく、しかし冗長にも思えるほどの間で、丁寧にゆっくりとそのかんばせを上げた。そうして__


「__アダム」


そのたった一言の音は、すっと侑李の中に染み込んで消えていった。少年の台詞は、ずっと退屈で堪らなかった侑李の胸に、小さな火を灯した。侑李の世界に、鮮やかな色が付いた心地がした。その時、彼は生まれて初めて人を美しいと思った。侑李の脳内で、彼のブラウンの瞳がひどく印象的に光り輝いていた。




「おい」


前を歩いていた少年を言葉で呼び止める。直毛の黒髪を揺らして振り向いた彼は不思議そうにこちらを覗き込んだ。


「...?綾垣くん!どうしたの?何かスタジオに忘れ物?」


「お前、名前」


「なま__ぅえっ?」


悲しいかな、完璧な子供であった侑李にも唯一持ちえないものがあった。それは、コミュニケーション能力だ。初めて見惚れた、初めて人を自分と同等の存在として認識した、そんな記念すべき素晴らしい人間に対しても、初対面で胸ぐらを掴みながら名前を聞くという暴挙ぶり。今までいかに彼が周囲に甘やかされて育ったかということが知れようものだった。


当然ながら突然胸ぐらを掴まれて凄まれた少年は目を白黒させ、彼のその形相を見て泣きそうになった。そしてはっと我に返ったようにぽんぽんと侑李の手を叩く。教えるから離してくれませんか...、と涙声で訴える少年の顔を見て、侑李はやっと自分のコミュニケーション能力が人並み以下なのかもしれないと悟った。少年は侑李の突然の奇行にやや怯えながらもおずおずと口を開く。


「ぼ、僕は...廻。間宮、廻。えと...よろしくね。綾垣くん」


「侑李でいい。呼び捨てで呼べ」


少年は、廻といった。今の廻にはカメラを向けられた際のあの威風堂々とした姿は跡形もなく、顔は整ってはいるが特に変わった特徴がある訳でもない、ごくごく普通の大人しそうな少年だった。そんな彼の意外性が、侑李の中でますます廻への興味と関心を膨らませた。




「廻、そんな奴ら放っとけば良いだろ。時間がもったいない。さっさと来い」


ぐい、と廻の腕を引く。廻は侑李とは違って人気者だ。もちろん侑李とて、両親が有名人ではある為にチヤホヤしてくる連中は一定数いるのだが、そうやって取り入ろうとしてくる輩に彼は厳しく当たるのでいつの間にか侑李の周りに人は寄り付かなくなっていた。


だが廻は違った。指先の挙動から呼吸までその役に成り切ってしまう廻の演技は他者を惹き付けてやまない。その上、そのお人好しで他者を見捨てない性分は虫を集める誘蛾灯のように人を引き寄せた。撮影が終わるといつも他の子供たちにも囲まれてあれはどうだのこれはどうだっただのと質問攻めにされるのだ。凡人というのはそれぐらいしなければ食らいつくことすら出来ないのだろうと思って今まで見過ごしてやっていたが、たまたま今日はそれが目に余るほどに長かったのだ。それが侑李の初めてのおもちゃを人に取られたかのような幼稚な独占欲を加速させた。


「わ、あっ。ごめん、○○くん。また今度ね。まってまって侑李、ひっぱらないで」


慌てて名前も顔もよく知らない子供たちに手を振る廻を見て更に腹が立った。残された少年少女が侑李を見る目は嫌悪と嫉妬に満ちている。何もかもが煩わしい。そんななんの利益にもならない奴らとの会話の何が楽しいんだ。ずるずると引きずるように廻を引っ張っていくと、スタジオ外のベンチに放り投げるようにして座らせる。廻は多少驚いた顔はしたものの、すぐに平静を取り戻して、侑李を真っ直ぐ見上げた。何も間違ったことはしていないとでも言いたげな廻の顔が、より侑李の黒い感情を燃やす薪となる。


「なんであんな奴らに構う?あいつらはカメラの位置を考慮した演技すら出来ない、一般常識も知らない素人。俺が短所を指摘しただけで逃げ出すような根性無しも居るんだぞ。時間の無駄だ。お前ならわかるだろ?ろくな努力もしない低レベルな奴らに構っていてもお前が足を引っ張られるだけだぞ」


「...ねえ侑李。カメラの位置を考えて演技をするのは確かに大切だね。でも、それは本当にみんなが知ってる一般常識なのかな。君はそれを他の誰かにに教えてあげたことはある?言わなくても伝わるって、思ってない?」


ぐ、と言葉に詰まる。正直動揺した。こんなにも廻が侑李に反論したのは出会ってから初めてのことだったからだ。なのにその指摘は正確に的を得ていた。廻は、撮影の際も侑李と子供たちの間の緩衝材として動くような言動をする。だからこそ、侑李の言動にはずっと思うところがあったのだろう。


「.....それなら、『未知のことだから、やったことのない仕事だから、手こずっても許されます』ってことか?それは自分の努力不足を棚に上げてるだけじゃないのか?」


「違うよ。知らないことなんて言われなきゃ分からない。努力したって知らないことはどうにもできないよ。僕たちだって、まだ知らないことがたくさんある。なのに、侑李の中では『知らない』ってだけで怒る対象になるの?」


「う".....」


それは正論なだけあってよく刺さった。侑李とて、それに気づいていなかっただけで、認識してはいたのだ。だが自分の言い方は一朝一夕で改善されるものでは決してない。それに自分以下の才能しか持ち合わせていない連中に構う時間など無意味だという思いが侑李の目を濁らせていた。廻の方が、侑李より余程周りが見えていた。


「...だとしても。今更何をやっても無駄だ。あいつらは俺を嫌ってるし、俺だって撮影が始まって集中し出したらまた同じようなことを言う」


「侑李はいつも一生懸命だもんね。でも大丈夫だよ!明日、僕が一緒について行くから。二人で事情を話して、みんなが悲しい思いをしてるようだったら謝ろう。ね?」


無機質な蛍光灯の光が廻のブラウンの瞳を透かす。その言葉は、今までずっと孤独だった侑李の心の穴を埋める魔法のようにきらきらと輝いて見えた。




一瞬の大きな音の後、ぎゃあっ、と誰かの悲鳴がスタジオに響き渡った。視界に赤が広がっていく。尻餅をついた侑李は、赤く染まる自身の靴を呆然と眺めることしか出来なかった。


「お、おいっ...俺じゃないからなっ!お前が本当にやるなんて思ってなかったし...!」


「う、っうるせぇよ!!お前が言い出したんだろ!?俺だって、まさかあいつに当たるなんて...」


「ねえ!!それよりもはやく、救急車!!」


思考の外で喧々諤々とたくさんの声が反響する。侑李は頭痛を覚えながら、ゆっくりと立ち上がった。震える手足を叱咤して、所々ひしゃげた照明器具を必死に持ち上げる。血に塗れた黒髪が器具の内側に引っ掛かっていた。長い睫毛で縁取られた瞳は開く様子を見せない。


「おい、廻。廻.....?なぁ、めぐ...」


ただ愚直に名前を呼んだ。廻はその一切に反応を見せない。固く瞳を閉じて倒れ伏したまま、微動だにしない。侑李の思考が濁り始める。


口元に触れる。手が血で濡れる。息をしてない。血が溢れている。真っ白の手を取る。血がたくさん流れている。名前を呼ぶ。血がこぼれ落ちる。抱き寄せる。血が。


「な、なあ!俺たち別に、廻に当てようなんて思ってなかったんだ!!本当だ!ただ、お前を驚かせようとして...っ!」


「そっ、そうだ!そもそも、お前だっていつも俺たちに、ひどいことを言う__」


たくさんの声がふと聞こえなくなる。もうどうでもいい。心からどうでもよかった。怒りも憎悪も憎しみも何も無い。ただ、自分が悪かった。これは自分が招いたことだと気づいて、悲しくなった。大切な何かが損なわれようとしている喪失感だけが、侑李の心に深く刻まれた。




あの後廻は駆け付けた救急隊にて近くの病院に緊急搬送され、頭を10針縫う大怪我をした。医者の見解としては、命に別状はなく、後遺症などの障害も奇跡的になかったため、数ヶ月で包帯を外しての激しい運動も可能だろうとのことだった。もしかしたら廻の立場になっていたかもしれない侑李と、実際の被害者である廻の大事にしたくないという意向で、このことは全て子供たちの小さな諍いから生まれてしまった不幸な事故として処理され、当事者たちは厳重注意という形で締め括られた。


廻は病室まで謝罪しに来た彼らを快く許した。ただ一つ、侑李に謝ってくれという条件を課して。本当にただのイタズラだったとしても、侑李に直撃していた可能性もあるのだからと。侑李は、その時初めて彼が怒っているところを見た。今回の騒動で人の善性と悪性を同時に垣間見た気がした。


幸い、廻の怪我は撮影後のことだったのでドラマは予定通りに放送され、堂々の大ヒットを収めた。


箱庭の中に閉じ込められた子供たちが、裏切り合い、殺し合い、一人一人理不尽に敗れて死んでいく。そうして、最後に残った侑李演じるアダムと廻演じるイヴのラストシーンが放送された冬には、すっかりそのドラマは話題になっていた。二人で逃げ出そうとイヴの手を引くアダムに、彼の手を振り払って静かに首を横に振るイヴ。自分の死期を悟った彼女が花のような笑みを湛えながら最期にアダムの名を呼ぶシーンは、多くの人間の涙を呼んだ。


侑李は今後一生忘れまいと誓った。廻から貰った言葉を、人間の善性を。その全てを大切にしまい込んだ。そのドラマはDVDが擦り切れるまで見た。一瞬たりとも彼の魂の形を忘れることがないように。


その日から、間宮 廻は綾垣 侑李の全てになったのだ。

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