第39話
出張初日の夕方、亮介は取引先との仕事を無事に終えて、その足取りのまま、近場のネットカフェを探していた。
その前に一応、美緒に連絡を入れるか。
亮介はメッセージアプリを起動して、文字を打ち込む。
『仕事、終わった。夕食がまだなら、食べに行かないか』
おそらく返事は来ないだろうと思いつつ、携帯をスーツの上着ポケットへ入れて、再び街中を歩く。すると、一つの看板が目に入り、立ち止まる。
店の入り口には、串カツ屋と大きく書かれた看板が有り、食欲をかき立てる揚げ物とソースの香りが鼻先を掠めた。
誘われるように外から店内の様子を窺うと、すでに満席に近い状態で、繁盛しているようだった。
串カツか……。前回訪れた時は、お好み焼きを食べた記憶がある。せっかく大阪に来たのだから、せめて食事だけは楽しみたい。そう思い、夕食はこの店にしようと決めた。
入店する前に携帯を確認すると、珍しく美緒から返信が来ていた。
『行きます。場所は何処ですか』
彼女を一人で向かわせることに不安を覚え、亮介は逡巡した後、『ホテルまで迎えに行く』と、返信をしてタクシーを捕まえて、乗り込んだ。
「串カツ……」
タクシーを降りて、美緒は店の看板を見上げると、ぽつりと呟く。
そうだった。すっかり忘れていた。美緒は社長令嬢だ。彼女は普段から自炊をしないし、食事をするときは、決まって都内に在る有名店ばかりだった。
なら、こういう居酒屋のような雰囲気の場所は苦手かもしれない。
「悪い。庶民的で」
「いえ。初めてなので、少し楽しみです」
亮介の心配を余所に、彼女は嫌な顔をせずに微笑む。久し振りに彼女の笑った顔を見て、少しだけ、ほっとしてしまう。
店内に入ると店員の威勢のいい声が、鼓膜に響き渡った。
注文した品はすぐにカウンターテーブルに並べられ、美緒は運ばれて来た串カツを目の前に固まっていた。
「これは、どう食べるんですか」
「食べる前にタレにつける。で、二度付けは禁止。ほら、ここに書いてあるだろ」
亮介はカウンターテーブル横の壁を指差す。店内の壁には、白い紙に黒いマジックペンで、太く『二度付け禁止』と、手書きされた張り紙がしてあった。
「なるほど……」
亮介に言われた通りに従って、美緒は串カツをタレに付けて、小さな口を開けて食べると、表情を綻ばせた。
「美味しい」
「ソースも旨いし、なにより揚げたてなのが最高だな」
「ええ、こういうのも新鮮でいいですね」
何気なく隣に座る美緒を見ると、口の端にソースが付いていた。彼女にしては珍しいと思ったが、普段食べ慣れないせいかもしれない。
「ソース付いてるぞ」
「え。どこですか」
亮介が指摘すると、美緒は紙ナプキンで取ろうとするも、上手くいかない様子だった。
「取るから、じっとしてろ」
見かねた彼が、口元を優しく拭き取る。
「あ、ありがとう、ございます……」
羞恥で俯いた彼女を見て、亮介は近付き過ぎた身体の距離を戻して、誤魔化すように烏龍茶を呷る。
彼女と普通に会話が出来ることに内心、安堵していた。けれど、それなら美緒は、どうして俺を拒絶し始めたのか。そんな疑問が、心の奥底から湧き上がる。
お互いに一本目の串カツを食べ終えたタイミングで、亮介は率直な疑問を美緒に投げ掛けた。
「なんで、俺を避けてたんだ」
怯えるように、一度だけ小さく身体を震わせる。その姿はまるで、叱られた子供のようだった。
そういう反応をされる度に、言いようのない罪悪感に苛まれる。
「本当は俺のこと、嫌いなんだろ」
なんとなく気づいていた違和感。それは美緒が、俺に対して恋愛感情を抱いてはいないことだった。
結婚を強引に迫ってきたときも、そうだった。焦燥感に駆られているような彼女の必死さ。相手を見てはいない身勝手な振る舞い。
その一貫性のない行動は、その先の何かに意識が向いているからではないかと、亮介は思っていた。
「それは……違います」
「なら、理由を話してくれないか」
美緒は何かを考えるように、沈黙していた。
彼女が口を開くまで、亮介は耐えるように、じっと待ち続け、そして──。
「この後、少しだけ、お時間ありますか」
決意を固めたのか、美緒は顔を上げて、亮介を見据えた。
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