第38話

 空港に降り立ち、外に出ると、冷たい風が頬を容赦なく打ちつける。


 仕事上の名目は大阪への出張ということになっているが、取引先での確認事項を済ませた後は、好きに過ごして構わないと課長から告げられた。


 なら、美緒は何の為に俺の出張に着いてきたのか、今だ疑問でしかない。


 岡田社長は一体何を考えているのだろうか。いや、何も考えてはいないから、こんなことが出来るのか。嘲笑することさえ馬鹿らしく感じる。

 

「寒いな」

 

 冬空を見上げ、白い息を吐き出しながらぽつりと呟く。

 

 その後ろで美緒は何も言わずに、重そうなキャリーバッグを引きずっていた。彼女も厚手のコートを羽織っているが、寒さで悴んだ指先を慣らすように何度も動かしている。


「荷物持つから」


 自分より何歩も遅れて、後ろを歩く美緒を見かねて、亮介は彼女のキャリーバッグを受け取ると、再び歩き出す。


 これから二泊三日を、美緒と二人きりで過ごさなければならないと思うと、少し気が重くなる。


 ましてや、最近の彼女は強引に結婚を迫ってきた時とは、似ても似つかないくらい、性格が変わってしまっていた。


 もしかしたら、これが本来の彼女の姿なのではないかと、思ってしまうほどに、今は口数も少なく、表情も乏しい。


「見たい場所とか、行きたい店はないのか」


 タクシー乗り場に移動して、美緒に問う。

 

「急に言われても……特には」


 亮介の問いに、美緒は戸惑いながら答える。その声も独り言のように小さくて、聞き取り難かった。


「なら、とりあえずホテルに行くか」


 ここで立ち往生していても仕方ないし、長時間、この冷たい風に晒されるつもりもない。それに、美緒に風邪でもひかれたら、俺が困る。


 二人はタクシーに乗ると、予約していたホテルへ向かう。その道中で、亮介は携帯で大阪の観光名所を検索していた。


 取引先との仕事は数時間もあれば、直ぐに終わってしまう。残りの時間をどう過ごすべきか、亮介は頭を悩ませていた。


 少しの間、無心でウェブページを眺めていたが、ふと我に返り、亮介は美緒を一瞥する。


 俺はなんで、こんなことをしているんだろう。


 出張に同行している美緒も乗り気ではない。それなのに、無理をしてまで観光をする必要はないんじゃないか。

 

 そう思い直すと、検索していたウェブページを閉じて、車内の窓から景色を眺める。


 今までにも何度か大阪へ出張に来たことはある。だが仕事の都合上、時間が取れずに、ゆっくりと府内を見て回ったことはなかった。


 街中を忙しなく行き交う人々も、皆寒そうに背を丸めて歩いている。出張する時期が冬じゃなければ、良かったのに。そんな風に思ってしまう。


 隣に座る美緒もまた、一言も発することもなく、ただぼんやりと景色を見つめている。


 彼女が笑わなくなったのは、いつからだろうか。少なくとも、離婚調停の話が出てからは、美緒の笑顔は一つも見ていない気がする。


 そうさせてしまったのは、俺のせいなのか。


 

 ホテルは二人で一部屋だった。


 これも亮介達が選んだ訳ではなく、美緒の父親が勝手に用意していたホテルだ。美緒曰く、普段から贔屓にしている高級ホテルのようだった。


 美緒のキャリーバッグを部屋の入り口近くに置き、亮介は振り返る。

 

「俺、夜は近場のネカフェで寝るから」


「え」


「嫌だろ。こんな男と居ても」


 見下ろした彼女の表情が、微かに揺れているのを、亮介は見ない振りをして誤魔化す。


 本当は自分が逃げたかっただけだ。彼女から。

 

 精神的に不安定になってしまった美緒を、可哀想に思うのは事実だ。だが、それが愛情に繋がるかと問われれば、答えに困る。


 この感情が何なのか。自分でも、よく解らずに、ずっと持て余し続けていた。

 

「……分かりました」

 

 美緒は亮介を引き留めることもなく、了承する。


 てっきり、一緒に居て欲しいと言うのかと思っていたから、少しだけ拍子抜けした。


 美緒はキャリーバッグを部屋に移動させると、ソファに座り、携帯を取り出す。


 亮介は再度、彼女に声を掛ける勇気は無かった。


 美緒が頑なに口を閉ざすのは、彼女なりの拒絶の証か。


 ──亮介の好きなようにしていいわ。


 不意に脳裏に再生された嶺奈の声。


 嶺奈が全てを諦めたような顔で、会話の最後になると、口癖のようにいつも言っていた。


 ああ、そうか。


 美緒を見ていて、時々、苛立ちを覚えていたのは、嶺奈のあの時の仕草や表情が重なって見えたからか。


 どうして、俺はいつも、相手にこんな顔をさせてしまうのだろう。


 思い遣りが足りず、言葉足らずで、誤解させてしまうからなのか。


 自覚はしているのに、その癖を未だに直せないでいるのは、俺が相手に対して甘えているからだ。


 何も言わなくても、相手は解ってくれるはずだと。言わなければ、解らないことだってあるはずなのに。


 この重苦しい空気に耐えられなくなり、亮介は足早に部屋から離れた。

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