第37話
「阿久津くん、ちょっと良いかな」
少し遅めの昼食を摂るために、社員食堂へ向かう途中で、亮介は課長に呼び止められた。
近場の空いている会議室に入ると、課長は周りに誰も居ないことを確認してから、手短に要件を告げる。
「急で悪いんだけど、来週から大阪に出張してくれないか」
「来週から、ですか」
亮介は課長の言葉を無意識に反芻する。
年明け早々に出張とは、取引先で何かトラブルでも有ったのだろうか。小さなミスが重なり、先方を怒らせてしまっては、元も子もない。
脳裏で様々なトラブルを想定して、対処法を巡らせる。しかし、亮介の考えは課長の次の言葉によって、無駄に終わった。
「それと出来れば、……美緒さんも一緒に行ってほしいんだ」
「……は? 美緒、ですか」
脈略のない発言に、亮介は戸惑いを隠せなかった。
どうして、ここで美緒の話が出てくるのか。
同じ会社に勤めているとはいえ、彼女は受付嬢だし、営業課とは無関係だ。しかも、最近は欠勤が多くなっている。けれど、周りが何も言えないのは、彼女が社長令嬢だからだろう。
彼女には誰も逆らえない。きっと、そんな風に思われているはずだ。それを亮介は嫌というほど痛感している。
「俺もよく分からないんだが、上からそう伝えるように言われてな」
課長の顔を見て、全てを察する。
ああ、なんだ。俺に拒否権はないのか。なら、この突然の出張命令も、きっと美緒の差し金に違いない。
彼女の名前を聞いた途端に、身体の内側が徐々に冷えていくのを感じた。
俺は後何回、美緒に振り回されなければいけないのか。やっぱり同情などしないで、さっさと離婚するべきだったのか。
今さら悔やんでも、後の祭りだった。
これが社長命令ならば断ることなど、無論出来る筈がない。既に決定事項だ。
亮介は不満を飲み込んで、冷静を保つと、課長の申し出を了承した。
足早に会議室を出ると、エレベーターに乗り込んだ。美緒が今日出勤しているのかは分からないが、彼女から真意を聞くためだ。
一階のロビー受付の窓口には遠目からでも、彼女がいるのが分かった。規定の制服を着て、明るめの髪を後ろに一つ、まとめて束ねている。
「美緒」
亮介が声を掛けると、彼女は驚いた様子で目を瞪り、直ぐに視線を逸らした。
彼女の隣にいる先輩の受付嬢は、二人を交互に見やる。この状況をどうすればいいのか、迷っているようだった。
「すみません。少しだけ、彼女とお話をさせてもらっても宜しいですか」
「ええ、それは構いませんが。ですが、あまり業務に差し支えないように、配慮をお願いします」
「はい。分かりました。ありがとうございます」
一向にその場を動こうとしない美緒を促すと、ロビーを抜けて、休憩室へと向かう。
後から着いてきた美緒は依然として、亮介と視線を合わせようとはしなかった。
休憩室はお昼を過ぎていた為か、幸いにも誰も居なかった。限られた時間の中で、亮介は確信に迫るように美緒に単刀直入に問う。
「来週から大阪に出張することになったんだが、美緒は何か聞いてるか」
「え? 私、知りません」
突然の亮介の問いに、彼女も戸惑っているようだった。
「君が言ったんじゃないのか」
「……何をですか」
「大阪に行けって」
「私は何も言ってないし、知らない」
視線を逸らし続けていた美緒が、亮介の顔を見据えて答える。嘘をついているようには見えなかった。
「じゃあ、なんで君も連れて行かなければいけないんだ」
「どういうことですか」
彼女もまた、亮介の疑問を不審に思ったのか、眉根を寄せる。
話が噛み合っていないのは明白だった。
「課長がそう言ったんだよ」
「……もしかして、お父様が」
予想外の出来事に、美緒は亮介の言葉を聞いて、沈黙する。彼女にも思い当たる節はないようだった。
「それ以外に考えられないけど」
「どうして、そんなことを……」
「俺が分かる訳ないだろ」
「すみません……。お父様に聞いてみます」
「いや、いいよ。もう、決まってることだし」
「でも」
休憩室を出て行こうとする美緒を制止し、亮介は苛立ちを抑えて告げる。
彼女が社長に聞いたところで、きっと埒が明かないのは目に見えている。なら、無駄な足掻きはするべきじゃない。
「仕事の途中なのに、引き留めて悪かった」
一方的に話を切り上げると、何かを言いたげな美緒の視線を背に、亮介は休憩室を後にする。
あの社長の考えていることが理解出来なかった。愛娘を想うあまりに、彼女にさえ黙って勝手なことをしたのか。相変わらず、強引で手段を選ばない相手だ。
本当の敵は、美緒ではなく、その背後にいる父親かもしれない。
営業課に戻る途中のエレベーターで、亮介は苛立ちを抑えきれずに舌打ちをした。
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