第四章

第36話


「──だから、もう二度と嶺奈に近付かないでくれ」


 社内の休憩室で立花に言葉短めに告げられ、亮介は自身の感情が、ゆっくりと暗く深い闇の中へと沈んでいくのが解った。


 そうか。これで嶺奈は幸せになれるんだな。俺が出来なかったことを、良平は叶えたのか。


 何か答えなければ。そう思うのに、心の中は酷く乱れた感情で埋め尽くされていた。


 戸惑いを悟られないように、亮介は平然を装う。


「……嶺奈を頼む」


 その一言で、精一杯だった。

 

 亮介の言葉に、立花は返事をすることもなく、休憩室を出ていく。


 一人残された亮介は、手にしていた缶コーヒーの残りを一気に呷り、空き缶をごみ箱に捨てた。


 この喪失感はなんだ?


 自問しても答えは返ってはこなかった。



 薔薇園で再会したとき、嶺奈は一人で寂しそうな表情を浮かべていた。


 孤独を誤魔化そうとしている顔は、俺が何度も見てきた表情だった。幸せだって、あれほど啖呵を切っていたはずなのに。どうして、そんなに辛そうなんだ。


 強がりな嶺奈が見せた虚勢に、思わず手を差し伸べてしまいたいと思った。


 けど、出来なかった。出来るわけがなかった。

 

 勝手に嶺奈を裏切った俺が、易々と触れていい相手ではない。


 何度も傷つけてしまうくらいなら、最初から出逢わなければよかった。好きにならなければよかった。


 だから、これ以上は嶺奈に関わらないように身を引こうと思った。


 嶺奈が幸せになれるのなら、それだけでいい──。




「……美緒」


 亮介は寝室のドアを控えめにノックする。


 けれど、彼女からの返事はない。諦めて、その場を離れる。

 

 離婚調停を取り止めたのは、彼女が精神を病んでしまったことが理由だった。


 亮介は同情してしまったのかもしれない。愛情が芽生えたわけではない。けど、放っておけなかったのは、嶺奈のこともあったからだ。


 亮介が嶺奈に別れを告げた後、彼女は自棄を起こし、身を投げようとしたと立花から聞かされていた。


 今ここで、美緒を見放してしまったら、彼女もまた嶺奈と同じことをするかもしれない。


 そんな恐怖が亮介の心を縛りつけていた。


 嶺奈に軽々しく、離婚調停のことを話すべきではなかった。無駄に期待をさせ、そして落胆させた。


 引き留めることが出来なかったのは、自分の勝手でこれ以上、嶺奈を振り回したくなかったからだ。


 俺はどこで釦をかけ違えてしまったのか。


 嶺奈はいつも俺の側にいると、思い込んでいた。だから、その安心感にいつの間にか甘えてしまっていた。


 けれど、それはただの傲慢でしかなかった。




 翌日、亮介が出社すると、立花の周りには人が集まっていた。


 自分の席に着き、さりげなく話を盗み聞く。


 立花が婚約をしたという話が、女性陣の間で、すでに広まっているらしい。その真意を探る為に、彼に詰め寄っているようだ。


 不意に立花と目が合い、亮介は視線を逸らす。


 苛立ちが湧き上がるのは、自分に対してか。それとも彼に対してか。


 亮介が美緒と結婚してから、立花は業績を上げ、営業課で一位の成績を修めていた。


 彼が一時期多忙だったのは、亮介の仕事の穴埋めを請け負っていたからだ。


 あの数ヶ月は、ほとんど自宅にも戻れないほど、忙しくしていたと他の社員から聞かされていた。


 嶺奈が一人寂しく薔薇園にいたのも、丁度その頃だ。


 それなのに、俺は今日まで一体何をしていたんだ。


 今までは俺が営業課のトップを死守していたのに、美緒と結婚をしてからはこの体たらくだ。


 呆れてものも言えない。


 そして、課内では俺と美緒が離婚調停中という噂が広まっていた。


 俺の左手薬指から消えた指輪を見れば、皆、察するものがあったのかもしれない。


 元々、この結婚は長くは続かないだろうと、思っている者がほとんどだった。


 美緒は亮介に婚約者がいると知りながら、無理矢理に迫り結婚をした。


 社長令嬢の美緒は、欲しいものなら何でも与えられて生きてきた。


 岡田カンパニーの受付嬢をしているのも、彼女が望んだからで、そこに他意はない。この歪な結婚も美緒が望んだものだ。亮介の意思など始めから関係なかった。


 中には亮介が昇進する為に、美緒を利用したのではないかという邪推さえ、秘かに聞こえていた。


 だが、それを否定したところで、理解してくれる人は誰もいない。


 

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