第35話
「俺が電車の座席に、取引先との大事な書類を忘れて、嶺奈が届けてくれたんだ。それは覚えてる?」
彼の言葉を聞いて、嶺奈は脳裏で眠っていた記憶を呼び覚ます。
あれは確か、数年前のことだ。
電車の座席に、A4サイズの茶封筒が置かれていたことに気がついた嶺奈は、咄嗟にその封筒を手にして電車を降りた。
そして、必死で相手を探して、その封筒を届けたのだ。
たったそれだけの面識だった。
まさか、その相手が良平さんだとは、思ってもみなかったし、今言われるまで、すっかり忘れてしまっていた。
良平さんと再会したときから、心の中で、ずっと何かが引っ掛かっていた。けれど、その答えが解らずに、自分の勘違いだと考えを奥底にしまい込んでいた。その疑問が今、氷解していく。
あの雨の日に出会う前から、二人はすでに邂逅を果たしていた。
脳裏にかかっていた靄が徐々に晴れていき、当時の記憶が鮮明に蘇り始める。
「あの時、仕事で行き詰まっててさ。考え事をしてて、書類を忘れたことも気付かないまま電車を降りたんだ。もし、あの書類を嶺奈が届けてくれなかったら、俺の人生はあの日で終わってた」
そう語って、彼は悲しそうに笑う。
「次また会えたら、お礼を言おうと、ずっと思ってた」
彼は恩人である嶺奈に、いつかまた再会出来ることを夢にみていた。
けれど、その夢はある日突然に思わぬ形で、叶ってしまったのだ。
同僚である阿久津亮介に見せられた、あの薔薇園で撮影された写真が、彼の携帯の待ち受け画面という形で。
亮介が彼に告げた『俺の彼女』という言葉は、立花にとって、とても残酷なものに思えた。
嶺奈にはすでに阿久津という彼氏がいた。
その事実が、立花の心を酷く苦しめた。
──君が阿久津の彼女でなければ。
そう、何度願ったのだろう。
立花は自身に芽生えた感情を、心の奥底に封印し、生きてきたのだ。
……あの日、雨に濡れた嶺奈と再び出会うまでは。
これは運命か。それとも呪いか。
立花が乞い願っていた再会は、嶺奈が自暴自棄を起こし、自らの命を絶とうとしている最悪の場面だった。
「…………」
「必死だったよ。嶺奈が死のうとしてるのを、黙って見過ごせるはずない。人違いであって欲しいって思ってた。けど、君の顔を間近で見たとき、ああやっぱり、君だ。あの時の、俺を助けてくれた君だって分かったんだ」
話を続けながら、立花は嶺奈の髪を子供をあやすように、ゆっくりと優しく何度も撫でる。
「良平さんの気持ちも知らないで、私、勝手なことばかりして……」
良平さんの話を聞けば聞くほどに、罪悪感は膨れ上がり、押し潰されてしまいそうになる。
どうして、感情のままに行動してしまったのか。後悔してもしきれなかった。
「仕方ないと俺は思うよ。誰だって、好きな相手に拒絶されたら、もうどうでもいいやって、全部投げやりになってしまうだろうから。それくらい好きだったんだろ? 阿久津のこと」
彼に問われ、嶺奈は沈黙する。
良平さんの言う通り、なんだかんだと難癖をつけていても、私は亮介のことが本当は好きだった。
時間を戻せるならって願ったこともあった。
だから、現実を受け入れられなくて、優しくしてくれる良平さんに、亮介の面影を重ねて見ていた。
その度に愛憎に心が支配され、亮介に当て付けのように私は『幸せ』だと言って、自分の傷を癒そうとしていたのだ。
自分の行動が浅ましすぎて、嫌になる。
普通なら関わりたくない人間性なのに、良平さんは私を憐れむこともなく、見捨てることをしなかった。
だから、私はもう二度と彼を傷つけたくない。
「なら、どうして、もっと早くに言ってくれなかったの」
涙を堪えて、震える声で疑問を投げ掛ける。
良平さんの胸の内を知っていたなら、少なくとも、こんな醜態は何度も晒すことはなかったと思う。
亮介の真実に、揺らぐこともなかったかもしれない。
「嶺奈が阿久津を捨て切れないでいるのが分かったから。いつか、あいつの所に戻るかもしれないって思ってたら、言えなかった」
──そしたら、嶺奈は迷うだろうから。
その一言が、深く胸に突き刺さる。
全部、全部分かっていて、知っていて、良平さんは自分の心を押し殺して、ずっと耐えていた。
私を傷つけないように、自分だけを傷つけて。
「ごめんなさい……私」
自分が許せない。あまりにも自分勝手だった。
「謝らないで。俺は嶺奈の悲しむ顔は、もう見たくないから。言うなら、ありがとうって言って」
「……ありがとう、良平さん」
「うん」
この温もりは一生忘れることは出来ない。周りから大袈裟だと笑われたとしても、私には掛け替えのない大切な温もりだった。
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